2003年ヨーロッパ旅行(報告編)


< フランクフルト ユダヤ博物館 >

ユダヤ人の歴史を物語る展示物の数々。



ヘブライ語で書かれた書物。



シナゴーグで教えるラビかな?
ユダヤ人の生活を映画で垣間見るには、
「屋根の上のヴァイオリン弾き」や「ぼくたちのアナ・バナナ」
などがお薦めです。






食事の風景でしょうか。



こちらはゲットーのミニチュア版です。



■ゲットーの構造
2−3mの狭い通りをはさんで西側、つまり城壁の外側に沿って天井が低く、
間口の狭い(1−4m)4−6階建ての家がぎっしりと建ち並び、
東側にも同様な家並みが間隔を置くことなくびっしりと並んでいた。
東側の家並みの背後は、高い石垣でふさがれた。
最初は、ゲットーの通りをはさんで両側に一列の家並ができていたが、
住人の増加にともない、さらに両サイドの家並の背後にもう一列の
低い家並が建てられ、両側とも前後2列の家並が形成された。
2列目の家並の狭さは一段と厳しく、後列の家並の屋根は
城壁の高さを越えてはならなかった。
1702年、フランクフルト市が出したゲットーの建築規定によると、
城壁より高い屋根を持った一列目の家並が市場へ向けて
窓を設けることは禁止されている。
それはキリスト教徒市民の生活が窓ごしに見下ろされては
ならないというものであった。そしてすでに
1702年以前に設けられていた窓は封鎖することが命じられている。
その上、市側のきわめて意地悪い建築規定により、
両側の家並の背後にあった下水、汚水の排水路は
ふたをしてはならなかった。そのため、そうでなくても通風の悪かった
ゲットー内部には絶えず空気がこもり、悪臭の原因となった。
ほとんど日の当たらないゲットーに住んでいたユダヤ人の中には、
青白い不健康な顔つきの者がたくさんいたことは、一般に知られていた。
しかし驚くべきことに、こうした不健康な状況下にあっても
ゲットーが疾病の温床とならなかったのは、
ユダヤ人が律法の民として、厳しい清潔に関する
規律を順守していたからである。
そしてゲットーの北と南の端には門が設けられ、他にもう1つ、
城壁側に市内への出入り口としての木戸がつくられていた。
この3つの出入り口以外は全て封鎖されており、
ゲットーから外部へ出ることはできなかった。
南北の門と出入り口は、夜一定の時刻に市の夜警人により
外側から鍵がかけられるようになっていた。
したがって、夜は外出禁止であるばかりか、日曜日やキリスト教の
祝祭日などは、ゲットーから外出することは全く許されなかった。

大澤武男著「ユダヤ人とドイツ」
(講談社現代新書)より






ゲットーから外出する時は、男女ともユダヤ人としての一定の服装を
身につける義務があった他、二人以上徒党を組んで市内を歩くことは
許されなかったそうです・・。




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