ウムカスル監獄訪問
第三国国籍者の一群

キャシー・ケリー
CounterPunch原文
2004年1月16日


「我々は希望を放棄した」と20歳のモハメド・アル・カティブは行った。彼はイラクのウムカスル監獄に投獄されているパレスチナ人学生である。「いつかここから出ることができるとは思わない」。

2004年1月3日、私はジェリー・ザワダ師およびイラク人の友人数人と、イラク−クウェート国境近いウムカスルに旅をした。遠く離れた、荒涼としたその地に米国同盟軍当局が建てたテント監獄のネットワークに、我々は、米国同盟軍当局が何カ月も拘留している4人のパレスチナ人学生を訪れたのである。その「ブッカ・キャンプ」(世界貿易センターで死亡した消防士の名前を取って付けられた)で、囚人も看守も、単調さ、不安、孤独と戦っている。我々が面会した囚人たちは、もう一つの感情的陥穽を挙げた。絶望、である。

その日、土曜日の朝、日が昇った直後に我々はバグダッドを出発し、休むことなしに6時間車を運転してバスラへ向かった。訪問時間が終わる前にウムカスルに到着しようと期待していた。監獄の外で、MP(軍事警察)のバッヂを付けた米軍兵士が丁寧に、我々は遅すぎたと告げた。訪問時間は木曜日から土曜日の午前9時から午後1時までであり、次の訪問機会は5日後になると。我々は、その場を立ち去ろうとせずに、長い道をやってきたし、我々の何人かは数日のうちにイラクを後にすると説明して、例外扱いを求めた。

テネシー出身の若い歯科衛生士だったそのMPは、ギャリティー少佐に連絡をしてみると言った。ギャリティー少佐は、バグダッドにいる私たちのクリスチャン・ピースメーカー・チームの友人達が、彼女ならできるだけのことをしてくれるだろうと言っていた人物だった。少佐は最初、「それは無理、我々は今日既に500人の新しい囚人に対応したばかりだ」と述べた。さらに会話を続けた後、彼女はためらいを見せてから言った:「ちょっと待って。何かできるかも知れない」。我々が面会を望んだ若者たちがどれだけ閉塞的状況にあるか彼女は知っており、彼らにわずかなりとも希望を与えたいと彼女は考えたのかも知れないと思う。1時間後、でこぼこした砂漠の地上を軍用ジープの座席に揺られて、我々は第11地区、タンパ11の訪問者テントに到着した。そこに元マイアミ市の警官であるルー士官が20代前半の若者4人をつれてきた。いずれも、バグダッドの学生だった人々であった。

監獄当局は、これらの若者たちをTCNすなわち第三国国籍者と呼んでいる。そのうち4人は4月10日、米軍海兵隊がバグダッドに侵入した翌日に、学生寮の部屋で拘束された。彼らが海兵隊に自分たちがどんな罪を犯したのか訊ねたとき、パレスチナ人であることにより有罪だと告げられたという。学生達がいた建物はその地域で最も高く眺めがよかったために、海兵隊はその建物を占拠したかったのではないかと、学生達は考えている。5人目の若者アミール・アッバースは、イラク市民権を持つパレスチナ人で、2003年6月23日大学から家に帰る途中、近くのモスクで発砲事件に出くわした。彼は、教科書をしっかりとつかみ、反対側に走り出した。米軍兵士たちが彼が走っているところを見つけ、拘束した。バグダッドで歯科医をしている兄は、何度も彼の釈放を実現しようとしていた。兄のアメール・アッバース博士は、弟への二度目の訪問を求めて、監獄まで我々に同行していた。

ジャヤブ、モハメド、バセル、アフマドと一緒に逮捕されたあと二人の学生は、2003年6月に釈放された。多分、この二人は英語を話せたため、自分たちの事情を上手く訴えることができたためだろう。それ以来、二人は生むことなく、監獄に拘留されたままの同僚を助けようとあらゆる手だてを尽くしている。クリスチャン・ピースメーカー・チームと「荒野の声」の西洋人数人が助けになるかも知れないと聞いて、二人は我々が2003年12月下旬、アンマンに到着するとすぐに我々に連絡してきた。我々も最善を尽くすと約束した。バグダッドでは、クリスチャン・ピースメーカー・チームのメンバーたちが6000人の被投獄者のリストを探し、被投獄者の二人の拘束タグ番号を見つけた。5名全員について書かれた情報は、たったの紙1枚分であった。

看守は我々に、ブッカ・コンパウンドの被投獄者たちはバグダッドで拘束されている人々よりもよい状況にいると述べた。「我々は服も与え、誰もが毛布を持っており、食料も与えている」と看守は言った。「できるだけのことをしようとしている」と。看守達は純粋に同情を感じているが、拘束されている若者たちを助けるためにほとんど何もできないのではないかと私には思えた。試験を受けられなかったために、既に2年間の勉強を無にしてしまったという事実については、確かに、誰も何も出来はしない。

ブッカ・キャンプのオフィサたちはこれらの被投獄者たちの釈放を勧告しているが、釈放を行う権限を持つのは、バグダッドにいる「セク・デット」(治安拘留者検討委員会)のメンバーだけである。被投獄者が釈放される希望は、「ボーディング」プロセスの一貫としてセク・デットの机に届けられる書類にかかっている。我々の訪問が終わりに近づいたとき、我々は5人の学生に、米国の議員や大使館、国際赤十字に連絡して彼らの事件がもっと注目されるよう全力を尽くすと約束した。

「他に我々にできることはないか?」と別れ際に訊ねたとき、ジャヤド・エフメダットは、はっきりと、「沢山の人がここに投獄されている。我々全員を助けて欲しい」と言った。

Jayyab Ehmedat, Mohammed Al-Katib, Basel Ali, Ahmed Badran, Ameer Abbasを支援する方法をめぐるさらなる情報については、「荒野の声」(Voices in the Wilderness)を参照して欲しい。イラクの被投獄者に法的権利を保証するキャンペーンについては、www.cpt.orgを参照。

キャシー・ケリーは「荒野の声」キャンペーンのコーディネータで、メールアドレスはkathy@vitw.org.


1月18日、バグダッドの占領当局前で爆破があり、20人以上の死者が出たことを受けて、米国政府筋(パウエル国務長官だったと思う)は、「テロで民主主義と自由を破壊することはできない」と発言しました。ここで紹介した記事は、不法な侵略で大量の軍人と民間人を殺害した政府がイラクにもたらした「自由」の一端を示しています。米国は、イスラエルがパレスチナ人を殺害しアパルトヘイト壁に閉じ込めることだけでは満足せず、イラクでも、パレスチナ人を拉致拘束していることがわかります。

不当逮捕・拘留(本来は拉致と強制収容と呼ぶべきでしょう)の実態。「民主主義」はと言えば、19日には直接選挙による政治選択を求める大規模なデモがイラクで起こっています。

米国元財務長官オニール氏が、ブッシュは2001年9月11日に航空機が世界貿易センタービル等に突入した事件などとはまったく関係なく、イラク侵略を計画していたことを明らかにしました(しかし公然の事実であり、またそれ以外にも多くの証拠はあったのですが)。

我らが川口外相は、17日に開催された同志社大学の特別講義(主催=同志社大、読売新聞社、後援=外務省、文部科学省)の質疑応答(この「講義」では反対意見を言った学生はつまみ出されたとの情報も入っています)で、劣化ウラン弾の影響について、「世界保健機関(WHO)が(米軍などの空爆があった)コソボで調べた研究では、健康に(害を)及ぼすものではないというのが結論だ。国際的には、危険があるとは判断されていない」と、唖然とするようなことを述べました。

世界も日本も、犯罪者と犯罪者擁護者たちに乗っ取られてしまった感があります。東京の日比谷公園では、1月25日「自衛隊のイラク派兵中止を求める」ラリーとパレードがあります。また、「自由法曹団」という弁護士の団体が、2月5日夜に「防衛庁を平和の灯火で包囲を」と企画しているようです。

益岡賢 2004年1月20日 

イラク侵略ページ] [トップ・ページ