ブッシュとインドネシア軍の将軍たち

2005年12月17日
ベン・テラル
CounterPunch原文


米帝国が、軍産複合体に対する白紙小切手を渡して、いわゆるところの「対テロ戦争」を続けている中、ブッシュ政権は、つい最近、合州国議会による対インドネシア軍事援助制限を覆し、「国家安全保障に基づく適用見送り」を活用して、あらゆる対インドネシア軍援助を再開した。

草の根の米国市民の強大な圧力によって、クリントン政権は、1999年9月、インドネシア軍が東ティモールを破壊したのち、インドネシア軍へのあらゆる援助を停止した。そして米国議会は、その後、援助の制限を継続する法制を設けた。今年2005年の11月22日、米国国務省は、「合州国にとって、インドネシアに対する対外軍事財政支援(FMF)と防衛輸出品に関わる制約を撤回することは、国家安全保障上の利益である」と発表した。パトリック・リーヒー上院議員----彼はこの計略によって覆されることになった援助制限を作成した人物である----は、この措置を「行政裁量権の乱用であり議会への侮辱」と呼び、「人道に対する罪をめぐる正義を求める法律を、我々の憂慮について対処するとの確認さえインドネシア政府から得ないままに、国家安全保障を理由に撤回することは、正義のプロセスを嘲笑することであり、恐ろしいメッセージを送ることになる」と述べている。

ジョセフ・ネヴィンズの『あまり遠くないところでの惨劇:東ティモールにおける大暴力』(コーネル大学出版局・2005年)は、米国政府が現在インドネシア軍を支援していることを広い文脈から理解するために必須である。この本は、24年間にわたるインドネシアによる東ティモール軍事占領を「国際社会」が支援してきたことを包括的に述べており、東ティモール人を裏切るにあたってあからさまな権力関係の計算があったことを示している。ネヴィンズが、1999年、当時の駐インドネシア米国大使ステープルトン・ロイの言葉を引いて示すように、「インドネシアは重要だが東ティモールは重要ではない」。

ネヴィンズは、米国の「グランド・ゼロ」(2001年9月11日ニューヨーク市)に与えられた重要性と、1999年9月東ティモールが占領を逃れる選択をしたのちインドネシア軍が東ティモールに残した「グランド・ゼロ」の焦土に与えられた重要性の違いに含まれるダブルスタンダードを入念に明らかにしている。我々は、ほとんど毎日のように9月11日を「決して忘れない」という説諭を目にしたり耳にしたりするが、合州国に暮らす人々の中で、そのわずか2年前に、合州国の政府が武器を与え訓練した軍隊が東ティモールのインフラの80%を破壊していたことを知っている人はほとんどいない。その破壊の中で、インドネシア軍とその手先の民兵たちは、1500人もの民間人を殺害している。

この忌まわしい犠牲者数さえ、それ以前の20年にわたるインドネシア軍のテロ----1999年の大虐殺の際に主要メディアの報道ではほとんど無視されていたテロ----によって、しばしば合州国が提供した武器で殺された何万人もの前では小さく見える。ネヴィンズは企業メディアの東ティモールに対する無関心について、次のように書いている。「この沈黙、この「忘却」は、ある種の省略による犯罪であり、それにより不処罰を促した。それはまた、力のある者たちが人権と国際法の原則に献身しているというポーズに関する神話を永続化することにも役だった」。

1990年代を通して東ティモールで何カ月もを過ごしたヴァッサー大学教授のネヴィンズは、有力な民主党員と共和党員がともに、この醜い占領の歴史を人々の目から隠すために一役買ってきたことを示している。ネヴィンズは、両党の共謀を示すとりわけ忌まわしい例を引いている----クリントン政権の元国連大使でジミー・カーター政権時代に東アジア太平洋問題担当国務次官補だったリチャード・ホルブルックが、2000年の演説の際、イラク侵略のチアリーダーとなったポール・ウォルフォウィッツのことをたっぷりと褒め称え、レーガン時代の駐インドネシア大使ウォルフォウィッツを「世界で最も重要な国の一つインドネシアに対して正しい政策を見いだすために尽力し続けた人物」と述べているのである。ホルブルックはさらに続けて、ウォルフォウィッツの「活動は、選挙の年における合州国の対外政策について極めて重要な点を示している。つまりそれは、両党に共通のテーマが依然としてかなり存在するということだ。東ティモールはその好例である。ポールと私は頻繁に連絡を取って、東ティモールが大統領選の話題から確実に除外されるようし向けた。合州国の利益にとってもインドネシアの利益にとっても、いいことはないからだ」。

米国政府をはじめとする諸政府は、東ティモールとインドネシアそして米国の活動家たちによる、1974年から1999年の犯罪に対するきちんとした処罰をともなう正義の達成しようと求める努力を一貫して妨害してきた。

残念なことに、こうした努力に対する反対は、東ティモール大統領である元ゲリラ指導者シャナナ・グスマンからも出ている。グスマンはつい最近、自国の真実委員会「東ティモール受容真実和解委員会」(ポルトガル語の頭文字をとってCAVRと言われている)の報告結果と正義と和解をめぐる勧告を軽視した。勧告には、占領を支援した国々----米国を含む----および占領期にインドネシアに武器を売却した企業から犠牲者に賠償を支払うことも含まれていた。

東ティモール・インドネシア行動ネットワーク(ETAN)の全国調整担当ジョン・M・ミラーはCAVR報告書を「何十人もの東ティモール人と国際専門家による3年間にわたる包括的な研究の産物」と述べている。ミラーはまた、「ブッシュ政権が、インドネシア軍上級士官の多くの犯罪歴を無視したブッシュ政権の最近の決定を考えるならば、報告書の完成はとりわけタイムリーである」と述べている。

「1999年9月のティモールの住民投票以来、米国政府は東ティモールの復興開発に資金援助をはじめとする援助を提供してきた。けれどもそうした援助は、24年に及ぶ、インドネシアの軍事占領に対する米国の支援が引き起こした東ティモールの人々の苦しみを埋め合わせるための開始地点にすら立てないようなものである。CAVRと同様、私たちも、米国は東ティモールに賠償しなくてはならないと考えている」とミラーは言う。

東ティモール人もインドネシア人もCAVR報告書を公開するよう求めているが、グスマン大統領はこれまでのところ報告書を公開していない。

東ティモール国会議員レアンドロ・イザーク----東ティモールでインドネシア軍が犯した犯罪をめぐる国際法廷を求めるキャンペーンを行ってきた----は、豪のジャーナリスト、ジョン・マーチンクスに対し、「正義を求める権利を持っているのは、残念ながら、コソボの人々だけではない。コソボの人々が白人だからというわけではないはずだ。その権利を持っているのはユーゴスラビアの人々だけではない。ここにいる私たちも、世界のあらゆる人々のように、同じ人間性のレベルを有しているんだ」と語っている。

真実委員会の調査結果は、2005年5月に発表された国連専門家委員会による1999年の東ティモールでの人権侵害に関する報告書と合致している。この報告書は、次のように結論している。「委員会は、これらの行為が犯された際の極端な残虐さ、そしてこれらの出来事の後遺症が今も東ティモール人社会に重くのしかかっていることを強調したい。この状況に対しては共感と賠償が必要なだけでなく、正義も必要である。許しの美徳を認識しつつ、また、個別の事件について許しが正当化されることも認めつつ、どれだけの剥奪と苦痛が加えられたか明らかにされないままにそれに対する正義なしに許しを与えることは、強さに基づく行為ではなくむしろ弱さに基づく行為である」。国連安保理は、この報告書を受けての、事務総長の勧告を待っている状況である。

ワシントンにある国家安全保障アーカイヴのインドネシア/東ティモール文書プロジェクトは、CAVRを支援して、米国の情報公開法請求に基づき米国の文書を入手してきた。同文書プロジェクトの代表を務めるブラッド・シンプソンによると、これらの文書は、「インドネシアによる東ティモール侵略と占領、その結果としての人道に対する罪は、国際的な文脈において起きたものであり、その中で、有力国家、とりわけ合州国の支援が不可欠だった」ことを示している。

同プロジェクトはまた、インドネシアによる東ティモール軍事占領を米国の両党が支援していたというネヴィンの議論を裏書きする情報を提供している。同プロジェクトが入手した文書によると、1977年、ズビグニュー・ブレジンスキーをはじめとするカーター政権の関係者たちは、1975年12月6日に行われた米国フォード大統領及びキッシンジャー国務長官とインドネシアの独裁者スハルトとの会談を書き起こした危険なケーブル通信の公開を阻止した。75年の会談の際、フォードとキッシンジャーははっきりと東ティモール侵略を承認しているのである。新たに公開されたものの中にはまた、1978年に副大統領ウォルター・モンデールがカーター大統領に送ったメッセージもある。このメッセージは、ジャカルタへのA−4ジェット機売却を急いで承認するよう求めているものである。5月9日、モンデールがインドネシアを訪問した際、カーターは売却を承認したが、「戦闘機が、とりわけ東ティモールにおいて、どう使われるかに関する」明確化を求めていた。カーター政権の東ティモールに対する憂慮の度合いを示す電信がある。その中でモンデールは、米イ二国の「東ティモールをめぐる相互の心配事」とりわけ「この問題の広報をどう扱うか」についてスハルトを安心させているのである。

ワシントン大学のインドネシア専門家ダン・レヴは、最近インドネシア・アラートが行ったインタビューの中で、「合州国の国防省の職員たちは常に、自分たちが訓練した数千人のインドネシア軍士官たちはその訓練からメリットを得ていると主張してきた。けれどもそんな証拠は何一つない! それに訓練されたところは人権とは何の関係もない。実際には、人々を弾圧することに関係している。また、諜報活動などに関係している」と語っている。

レヴはさらに「世界最強の合州国は、インドネシア軍のことを、同盟者でアメリカにとってとても有用な存在と見なしている。それこそが、そもそも軍がますます関与することになった一因だ。1957年と1958年、合州国が、インドネシア共産党を排除するための重要な手段としてインドネシア軍に白羽の矢をたてたときだ。当時世界で三番目に大きな共産党だったので、1965年、インドネシア軍が前世紀で最悪の虐殺の一つと言える虐殺を行ったとき、当時の米国政府がインドネシア軍に深く感謝したというのは本当だ。当時の問題は共産主義で現在はテロリズムだ」。

けれども、ETANの全国調整担当カレン・オレンスタインが言うように、「監視や真剣な改革がなければ、インドネシア群島の軍は、その地に住む人々にとって圧倒的に重大なテロの実行者であり続ける」。

ベン・テラルはオークランドの著述家/活動家。メールはbterrall(atmark here)igc.org。


■「ルート181」上映会のお知らせ

仏「ル・モンド」紙が「衝撃的にして過酷、しかし見るものを虜にする」と評した上質のドキュメンタリー。パレスチナ人のミシェル・クレイフィとイスラエル人のエイアル・シヴァンの二人の監督──二人とも現在は欧州在住──が、二人の故郷をともに旅して、出会った人々を記録した作品。山形国際ドキュメンタリー映画祭2005最優秀賞受賞。

京都 2006年1月28日(土) ひと・まち交流館 京都
大阪 2006年1月29日(日) 阿倍野区民センター

『ルート181:パレスチナ−イスラエル 旅の断章』
(Route181 : Fragments of a Journey in Palestine-Israel)

監督:ミシェル・クレイフィ、エイアル・シヴァン
(2003年/270分/アラビア語、ヘブライ語/ビデオ)
日本語・英語両字幕 English Subtitles

詳細は、ルート181:関西上映 京都・大阪をご覧下さい。


■イラク人医師講演会のお知らせ

アジア女性資料センターでは、2005年夏にヨルダンスタディツアーを行い、ヨルダンに住むイラク人医師モハメッドさんに会いました。モハメッドさんがこの冬来日される機会に、年明けすぐですがお話を聞く機会を持てることになりました。清末さんによる解説つきです。

是非ご参加ください。

★今、イラクでは・・・〜イラク人医師モハメッドさんを囲んで★

1991年の湾岸戦争以来、イラクに対する経済制裁が続いてきました。これによって医療設備などへ投資ができず、今回のアメリカによるイラク攻撃では充分な医療サービスを受けることができずにいる負傷者がイラクには多くいると言います。テレビではイラク攻撃、自衛隊のサマワ駐屯のニュースが飛び交いますが、イラクの人々の日常生活が見えてきません。

ヨルダン・アンマン在住のイラク人医師モハメッドさんは、イラクで病院で臨床をしながら医療NGOで医者としてボランティア活動に関わってきましたが、現在ではアンマンで、戦火を逃れてアンマンに来るイラク人の患者の面倒をみています。お金がないので、アンマンで医療NGOを立ち上げたいと考えたりしています。

今回来日されるモハメッドさんを囲んで、イラクにおける医療事情について、また外国でイラク人であることが分かると「テロリスト」扱いをされる生活の困難さについてお話を聞きます。お正月が明けてすぐですが、貴重な機会です。是非お集まりください。

日時:2006年1月4日午後6時半〜8時半
場所:アジア女性資料センター211号室
(地図:http://www.ajwrc.org/modules/tinycontent3/index.php?id=8)
スピーカー:モハメッド・ヌーリ・シャキールさん(医師)
解説・通訳:清末愛砂さん(アジア女性資料センター運営委員)
参加費:無料(モハメッドさんへのカンパ大歓迎)

お問合せ・お申し込みはアジア女性資料センターまで。
E-mail: ajwrc@ajwrc.org


年末年始は、もしかするとしばらくネットへのアクセスができないところに行くかも知れません。年内あと1回は記事をアップしたいと思っていますが、それができないときのために・・・・・・皆さん良いお年を。
  益岡賢 2005年12月17日

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