東ティモールのために正義を遂行することは未だ実現されぬ国際社会の義務である
2009年8月30日
La'o Hamutuk原文


ラオ・ハムトッック・ブリーフィングペーパー(2009年8月)

東ティモールを不法に侵略し占領したインドネシアは、1975年から1999年までに15万人以上の人々を東ティモールで殺した。国連総会は8度にわたり、この残忍な軍事占領を非難したが、オーストラリア、米国、英国をはじめとする大国が軍事的・政治的にインドネシアを支援したため占領は続いた。Chega!報告書に記録されているように、インドネシアは東ティモールで膨大な数の人道に対する罪、戦争犯罪およびその他の普遍的管轄のもとでの犯罪を犯した。

東ティモールの人々が勇敢かつ平和的に独立を求めて投票を行ってから10年たった今日、これらの犯罪に対する不処罰がいつまでも続くことが東ティモールの人々に取り憑き、東ティモールの将来に問題を引き起こしている。主な実行犯は誰一人裁判にかけられておらず、「大物」は犯罪行為の責任を問われないというモデルが東ティモールに染み込み、処罰されないという見込みによって助長され促された暴力と報復をしばしば引き起こしてきた。

確かに、「和解」「恩赦」「前向き指向」を強調することで、重要な中期的目標の達成が促された。例えば、1999年以降の民兵/TNI(インドネシア軍)による越境攻撃の防止、1999年から2001年にかけてのインドネシアからの難民の帰還、その後の東ティモール・インドネシア両政府間での良好な外交関係の樹立などである。占領が終わってから10年たった今、東ティモールは西の隣国インドネシアに経済的に依存している。昨年、東ティモールの輸入の42%はインドネシアからのものだった。

インドネシア指導者との関係を固めようと東ティモールが努力を払うことから、インドネシアと東ティモールの人々は自分たちの名のもとにあるいは自分たちの家族に向けて犯された犯罪を理解したりそれと折り合いをつけることが困難になっている。そのため、インドネシアでは人権と民主主義の発達が阻害され、一方、東ティモールの犠牲者たちはトラウマを克服して人生を続けていくことが阻害されている。

さらに、国連といくつかの国連加盟国の指導者たちは偽善的な立場を取ることになる。これらの指導者たちは東ティモールの人々に向かって不処罰の蔓延を許すわけにはいかないと繰り返し述べてきたにもかかわらず、正義を実現するための実効的な機構を実現できずにいる。この例----指導者たちが約束しながら実行しないこと----は、我々東ティモールの新たな民主主義にとって有害である。

過去10年、インドネシアと東ティモールの政府は繰り返し、人道に対する罪を犯した高位高官レベルの実行犯たちの不処罰を終わらせるに十分なほど強力な司法手続を樹立するためには、インドネシアや東ティモールだけでは不十分であることを示してきた。インドネシアと東ティモールの人々は、正義を確実に実現するために人類の支援を必要としているしそれを受けて当然である:国連は国際法廷を設置しなくてはならない。

過去を尊重する

1975年10月、インドネシア軍兵士たちがオーストラリアのメディアで働く5人の外国人ジャーナリストを殺害した。兵士達はその2カ月後の侵略時に6人目を殺し、その際にはティモール人文民数万人を殺した。これらの犯罪を皮切りに、インドネシアは、その後25年にわたり残虐行為、虐待、虐殺をはじめとする人権侵害を加え、東ティモールの不法軍事占領を続けた。これらの犯罪を計画し命令した政治指導者や軍事指導者は誰一人として責任を問われていないばかりか、その多くが今もインドネシアをはじめ各地で権力と影響力を行使する地位を保っている。

1999年4月、国際社会はリキサ教会虐殺とディリのマヌエル・カラスカラン邸虐殺という残虐行為に衝撃を受けた。それまでの23年間にインドネシア軍はその数千倍もの人々を殺してきたにもかかわらず、4月の虐殺は、予定されていた住民投票の準備のために東ティモールに来ていた外国人に目撃されたのである。これら2つの虐殺は、インドネシア軍と軍が操る民兵による体系的なテロ・暴力・脅迫作戦の一部であり、住民投票を頓挫させて阻止しようとするものだった。この作戦は失敗したが、これにより東ティモール人1500人の命が奪われ、全土で建物とインフラの4分の3が破壊された。

あれから10年。これら虐殺の犠牲者と生存者たちが追悼のために集ったが、各国・国際社会の代表や東ティモールの指導者たちはほとんどそれに注目しなかった(東ティモール大統領と首相、UNMIT代表は出席を約束はしたが)し、インドネシアは完全にそれを黙殺した。最近、2006年の危機で犠牲になった人々には大きな注目が集まった一方、不法占領下でインドネシア軍の犠牲となった人々はほとんど忘れ去られ、子どもや文民の犠牲者も「英雄」と呼ばれるだけで、民族自決こそが唯一必要な正義であると諭されてきた。

東ティモールが法の支配にもとづき統治される平和的で民主的な国家として成功するためには、とりわけ正義の実現に関して、国際社会からの継続的な支援が必要である。東ティモールだけでは、巨大な隣国に庇護されている犯罪者たちを処罰するための政治的な力も人材上の力もない。

1975年から1999年に東ティモールで犯された人道に対する罪は、国連安保理と総会の諸決議を完全に侵害するものである。1999年5月以降に犯された人道に対する罪もまた、住民投票に際してはインドネシア警察に治安の責任を任せるとした国連仲介のもとでの合意に抵触する。犠牲者の中には国連スタッフもいたが、こうしたことが二度と起きないようにするためにこれらの犯罪を処罰する責任は人類全体が負うものである。

これらの犯罪が犯されたときに国際刑事裁判所が設立されていたならば、インドネシア政府高官たちは被告席にいただろう。けれども実際にはまだ設立されていなかったため、国連と国際社会は東ティモールの犠牲者たちに対して、そして全人類に対して、正義を実現する機構を創設する責任を負っている。

これまでになされたこと

1999年後半にインドネシア軍が東ティモールから撤退する際引き起こした騒乱のあと、国連は調査委員会を設置した。当時の国連事務総長コフィ・アナンが述べたように、「収集した証拠は、東ティモールで基本的な人権法と人道法に対する重大な侵害が体系的に犯されたことをはっきりと示している。[これらの侵害は]国連安保理の決定に反して行われたもので、安保理の決定を実施するためにインドネシアが国連と結んだ合意に違反している。この事実のため、実行犯の責任を追求する必要性はますます高まる」。

同時期に、インドネシアは東ティモール人権侵害調査委員会(KPP−HAM)を設置した。この委員会はインドネシア軍・警察そして民兵が広範にわたって結託したと判定し、人道に対する罪に関与した容疑者30名以上の名前をあげている。KPP−HAMは、インドネシアの検事総長にさらなる調査を行うよう勧告している。2000年4月、インドネシアと国連東ティモール使節団は証拠、証人、容疑者の交換に関する協力協定を締結したが、インドネシアがその協定を尊重することはなかった。

2000年、国連委員会もKPP−HAMも、インドネシアと国連、東ティモールの対応で不処罰を終わらせることができない場合、国際法廷を設置すべきであると勧告している。それから9年、依然として不処罰が蔓延しており、その帰結が様々なところに見られる。以下にこれまでになされた対応を概観するが、いずれも責任を追求できずに終わっている。国際社会が延び延びにしてきた責任を実行し、国際法廷を設立する時が来ている。

国連東ティモール重大犯罪部(SCU)と特別パネル

国連安保理は2000年、東ティモールにSCUと特別パネルを設置した。重大犯罪プロセスとして知られているこれら二つの機構は、2002年に東ティモールが独立してからは東ティモールと国連の共同で行うものとなった。東ティモールで犯された重大犯罪の調査と起訴、裁判は重大犯罪プロセスの管轄下に置かれることとなった。インドネシアが証拠についても証人についても身柄引き渡しについてもSCUとの協力を拒否したため、重大犯罪プロセスの実効性は大きく制限されることとなった。SCUは当初、1999年以前に犯された犯罪についても調べていたが、まもなく占領の最終年である1999年に範囲を絞ることになった。

SCUは、インドネシア軍元司令官ウィラント将軍を含め391人を起訴したが、裁判にかけられたのはわずか87人であり、そのうち有罪判決を受けたのは84人である。起訴された者の75%以上----東ティモール人でない者は全員----がインドネシアで自由の身にあり、中には権力の座にいる者もいる。起訴された者の中でつかまっていない303人について逮捕状が発行された。2009年8月、スアイ教会虐殺の罪でSCUに起訴されていた民兵指導者マルティヌス・ベレが西ティモールから東ティモールを訪問したとき東ティモール警察に逮捕されたが、それは2003年以来初めてのことであった。

2005年5月20日に重大犯罪プロセスが終了したときまでには1999年の殺人469件を、まったく調査できなかった事件としてリストしていた。重大犯罪プロセスの書類はニューヨークと東ティモールに保管されている。ただし、2006年以降、何件かの調査が再開された(下記参照)。

2007年と2008年、ジョセ・ラモス=ホルタ大統領は、恩赦・減刑を与える大統領権限を使って、重大犯罪パネルが有罪とした者の多くを釈放した。有罪判決を受けた84人のうち、未だに服役しているのは一人だけである。

インドネシアの特別人権法廷

インドネシアは、国際法廷を求める声をかわすために、東ティモール特別人権法廷を設置した。この裁判は2002年にジャカルタで始まった。このプロセスはごまかしであると大きな批判を浴びた。1999年に東ティモールで犯された人道に対する罪を阻止できなかった(人道に対する罪を命じたというのではなく)として18人が起訴されたが、占領開始以来1998年までの23年間については無視された。一審で12人が無罪となり、有罪となった残り6人もインドネシアの控訴裁判所で逆転無罪となった。最後に釈放されたのは東ティモール籍の民兵司令官エウリコ・グテレスだった。彼は最近行われたインドネシアの選挙で国会議員に立候補した。

国連専門家委員会(COE)

2005年2月、コフィ・アナンはCOEを指名し、現在の司法プロセスの評価および1999年に東ティモールで犯された重大犯罪の責任者の責任を追求するための次のステップを提案するよう求めた。1999年に限定されたのは、国連加盟国にそれ以前の犯罪を考慮する政治的意志がなかったからである。著名な国際法学者3人からなるCOEは、それまでに行われた2つのプロセスを検討した。COEは2005年5月に報告書を提出し、安保理は事務総長に「現実的にできる」勧告を提供するよう求めた。事務総長がそのような勧告を出したのはそれから1年以上後のことだった。

COEはインドネシアの特別人権法廷について「明らかに不十分」であるとし、「関連する国際的な基準をほとんど尊重せず従っていない」と述べた。報告は、国連が支援するSCUと特別パネルのプロセスは「責任追及をかなりの程度」達成したが、不十分な資源、東ティモール政府からの支援の不足、インドネシアの協力拒否により妨害されたと述べている。SCUは、1999年に東ティモールで犯された人権侵害に対して「最大の責任」を負う者たち----それにはインドネシア政府と軍の高官が含まれる----を裁判にかけることができなかった。

COEは、上級実行犯を真剣に起訴することがわかるまでインドネシア政府に6カ月の時間を与えるよう勧告した。インドネシアが対応できない場合には、国際刑事法廷の設置を考慮するようCOEは安保理に求めた。COEはまた、SCUと重大犯罪特別パネルを一時的に復活させ、控訴を扱うとともにケース・ファイルを保護し、また、明確な戦略に従ってそれらの機能を東ティモールの機構に移行させるよう勧告した。

東ティモール受容真実和解委員会(CAVR)

この委員会は、国連の支援のもとに創設され活動する独立組織で、ポルトガル語のアクロニムを使ってCAVRと呼ばれる。CAVRは、インドネシア占領期全期間を含む1974年から1999年の東ティモールについてこれまでで最も包括的な記録を作成した。CAVRは、3年にわたる集中的な調査----その中で犠牲者と目撃者数千人に対するインタビューも行われた----により2500ページからなる報告書を作成した。CAVRの最終報告書Chega!(ポルトガル語で「たくさんだ!」の意)は、1999年以前に犯された犯罪(殺害の99%は99年より前になされた)にももっと注目するよう主張している。それには、飢餓、拷問、強制失踪、超法規的拘束、殺害、体系的な性的拷問、奴隷化を戦争の武器として用いたことも含まれる。

多くの調査結果と勧告の中で、報告書はインドネシアの東ティモール侵略と占領を支持した国際社会を強く非難し、東ティモール侵略・占領を支持した政府と国連に対して同報告書を検討して侵略と占領の教訓を学ぶよう求めている。CAVRは国連安保理に対し、「他の手段が正義を実現できないと判断され、インドネシアが正義の実現を妨害し続けるならば、国際連合憲章第7章に従って国際法廷を設置することを予定しておく」べきであると勧告している。Chega!の勧告は、インドネシア政府、米国政府、英国政府をはじめとする諸政府およびインドネシアの犯罪を支援した西洋の軍需産業が謝罪し賠償すべきであるとも述べている。

Chega!とその勧告を公式に認めた政府は、東ティモール政府とインドネシア政府を含め、一つもない。東ティモール議会でも未だに勧告についての議論はない。

インドネシア/東ティモール真実友好委員会(CVA/CTF)

2004年後半、インドネシアと東ティモールの大統領が二国間の真実友好委員会の設置を提案した。これは、国連事務総長が専門家委員会を指名することを阻止しようと意図したものだった。CTFは2005年3月、東ティモールのカトリック教会司教たちおよび東ティモール・インドネシア両国の市民社会諸グループの反対を押し切って設置された。双方5人の委員からなる委員会は、1999年に行われた東ティモール住民投票の前と後に犯された人権侵害に関する「共通の歴史的記録」を樹立する任務をおっていた。委員会は恩赦や市民対市民の和解を勧告することはできたが、起訴をはじめとする司法的な手段を勧告することはできず、証言や協力を強いる権限も有していなかった。

国連の専門家委員会(COE)は、CTFに委託された事項は国際法とも国内法とも矛盾しており、重大犯罪を扱うメカニズムが何もないと述べている。COEは、真実友好委員会が国際的な支持を得る前提として、両国政府が委託事項を見直べきであると勧告している。その勧告が無視されたので、国連はCTFのプロセスに参加もせず、証言も行わなかった。

2007年、CTFはインドネシアと東ティモールで公聴会を開いた。インドネシア政府高官たちが既に十分確立した歴史的記録と矛盾する自己防衛的な証言を行い、ティモール人の証人たちは聴衆に紛れ込んだインドネシア軍に脅された。

2008年7月、CTFは東ティモールとインドネシアの大統領に報告書を提出し、その報告書は公開された。任務規程が非常に狭く制限されていたことから予想されるよりも、報告書の内容は悪くなかった。恩赦の勧告は出さず(全面的に協力した実行犯容疑者は一人もいなかったと報告書は述べる)、東ティモールで犯された犯罪に対してインドネシア政府は組織的な責任があると結論している。しかしながら、報告書に新たな情報はほとんどなく、勧告も非常に限定されていた。この報告書はインドネシア----インドネシアの人々のほとんどはインドネシア軍が東ティモールで何をしたかについてほとんど何もしらない----ではあまり受け入れられも広がりもせず、勧告の中で実施されたものはインドネシアにいる東ティモール人学生のビザ手続きを簡便化するといった通常の外交協定だけだった。両国の大統領はともに1999年の災厄に悔恨を表明したが、その実行犯を特定し起訴するための行動は何一つとらなかった。

UNMIT人権裁判部

2006年7月、国連安保理はCOE報告書を受けて、1999年の重大犯罪に対する調査と訴追に対する国際的な支援を再開するよう勧告したが、SCUの検察部門復活はそこに含まれなかった。事務総長の報告は安保理にCOEの結論を支持するよう求めたが、その勧告およびCAVRの勧告(下記参照)のほとんどについては対応しなかった。翌8月、安保理は国連東ティモール統合使節団(UNMIT)を創設した。安保理はCOEの結論に留意したが、勧告については数十のうち一つに留意しただけだった。

安保理はUNMITに1999年(それ以前は含まれない)に犯された重大犯罪のすべてに対する調査を終わらせるための支援を行うよう求めたが、起訴の権限も裁判を行う権限も与えなかった。起訴状の発行と起訴そして裁判の責任は、SCUが以前に起訴した容疑者のものも含め、東ティモールの司法機構が負うことになった。これまでのところ、UNMITの重大犯罪調査団(SCIT)は396の重要なケースについて86の調査を完了し、検察庁に報告書を提出して検討するよう求めている。検察庁では5000ケースが未処理のまま蓄積されており、東ティモール政府にこれらのケースを裁判にかける政治的意志がないため、このプロセスはもう一つの空約束となっている。

対話と和解のプロセス

最近、とりわけ2006年の危機以降、過去の暴力犯罪がもたらす紛争やトラウマ、有罪性などを対話、コミュニティ・ミーティング、全国フォーラムといったかたちで扱うことが流行している。その中で人々は苛立ちや反論を表明し、それから何らかの「和解」を行おうというものである。地域的な対立や軽犯罪を解決するためには有効かもしれないが、これらのプロセスは1975年から1999年に犯された人道に対する罪に関する最も重要な事実を無視している。すなわち、その犯罪は、東ティモールを不法に侵略し残虐な占領体制を布いた外国政府が行い指示したものだという点である。インドネシアはスハルト独裁体制の暗黒の日々からは進歩したが、インドネシア政府は依然として容疑者を裁判から匿い、そのため過去に終止符を打つどころか実情調査さえ不可能になっているのである。

東ティモール大統領をはじめ一部の人々は過去の傷を再び開くことに消極的であるが、東ティモールの人々の大部分が心的外傷後ストレス障害に苦しんでいる。普段は表面的な冷静さの下に隠れているが、予期しない形でそれは突発的に現れる。この腫瘍を取り除かなければ、人々は当たり前の安定した平和的な生活を送ることができないままである。

これからどこへ向かうべきか?

ディリでは、真の正義の実現に対する組織的・政治的抵抗に疲れ果てて、「伝統的正義」や「紛争解決」を受け入れ始めている人々もいる。政府が本気で約束を実行することはないと悲観的になったこれらの人々は犠牲者に「賠償」を支払う(東ティモール政府が支払う社会福祉)とかChega!勧告を国会で議論するといった短期的な対策を支持するようになっている。

これらにも利点はあるが、現在も続く不処罰の悪影響、実行犯の責任追求、犠牲者のトラウマ、国際社会の責任といった問題を扱うことはできない。時間はかかるかもしれないが、ラオ・ハムトゥックは2009年4月17日、その10年前にカラスカラン邸で起きた虐殺の犠牲者と家族が表明した目標を支持しつづける:


■ 「ニュースが伝えないパレスチナ」

日時:9月5日(土)17:30~20:40(開場:17:00)
場所:千葉市生涯学習センター地下1階 メディアエッグ
定員:70人(予約の必要はありません)
資料代:800円(高校生以下無料)
主 催:マルハバ!パレスチナ
e-mail maruhaba.palestine@ac.auone-net.jp

宇宙平和週間 首都圏イベント
 新政権で「防衛大綱」はどう変わるか(仮)


日時:9月26日(土) 午後2時~5時(1時30分開場)
会場:東京・アカデミー茗台
    7階学習室A(丸の内線「茗荷谷駅」そば)
   [TEL:03-3817-8306、文京区春日2-9-5]
講演:青井未帆さん(成城大学准教授)
   「武器輸出禁止三原則の緩和が意味するもの」(仮)

益岡賢 2009年9月3日

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