アイダン・デルガドとのインタビュー

デモクラシー・ナウ!原文
2004年12月17日


2001年9月11日の朝、ニューカレッジの学生だったアイダン・デルガドは、フロリダ州タンパの軍リクルート・センターにいて、軍予備兵への登録に必要な書類手続きを終えるところだった。

その同じ朝の少し後に、リクルート・センターで、デルガドは世界貿易センタービルに二機目が突入するのを目撃した。1年半後、米国がイラク侵略を全面展開する中、デルガドはイラクでの戦闘に送り込まれた。イラク南部の都市ナシリヤに着いてすぐ、デルガドは、戦争への参加を望まないと決め、良心的兵役拒否の資格を申請して武器を置いた。

6カ月後、彼は悪名高いアブグレイブに配置換えされ、そこで車両整備士として残りの軍務期間を勤めた。そこにいた間、デルガドは、イラク人被拘留者に対する沢山の虐待、暴力、殺害を目にしたと語る。イラクに到着してからちょうど1年後の2004年4月1日、アイダン・デルガドは帰国した。ようやく6月には良心的兵役拒否資格が認められ、名誉除隊となった。アイダン・デルガドが我々のファイアーハウス・スタジオで話をした。

以下、フアン・ゴンサレスとエイミー・グッドマンはデモクラシー・ナウのスタッフ

フアン・ゴンサレス:デモクラシー・ナウ!へようこそ、アイダン。

アイダン・デルガド:やあやあありがとう。来れてよかった。

フアン・ゴンサレス:あなたの決断についてまず少し聞かせて下さい。つまり、軍の予備兵となること。何をきっかけにそうして、どうしてイラクに行くことになったのですか?

アイダン・デルガド:皮肉なことに、私が軍に登録したのは2001年9月11日だったのですが、9月11日の事件とは何の関係もなかったのです。私は学生でした。あまりうまく行っていませんでした。行き詰まっていたんです。変化を求めていたので、軍は若者にとって何か有意義だろうと思いました。ちょっと旅行して、ちょっと別のことをするという感じです。軍に署名したあと、予備兵であることはそんなに大きなことではありませんでした。重大な軍事的献身ではなかったのです。けれどもそれから、9月11日の朝以降は、すべてが変わりました。だから、軍務に付くことにした理由は、個人的なものだったのです。ちょっと目先の変わったことをやろうと。そうして軍務につくことになりました。

フアン・ゴンサレス:登録してからどのくらいでイラクに行くことを知らされましたか?

アイダン・デルガド:それについて聞いたのは事前訓練から戻ったあとで、2002年か3年の8月でした。予備兵となってから派遣されるまで約1年半あり、その間たぶん3、4回の教練を受けました。ある週末はここ、別の週末には別の場所で、と言った感じで、月に一度です。ですから、派遣されたときにほとんど軍経験もなく、訓練も積んでいなかったのです。

エイミー・グッドマン:ナシリアはどんな状況でしたか? まずナシリアに行ったのですよね?

アイダン・デルガド:そうです。私たちが派遣されたのは、いわば第二波でした。第三歩兵大隊が先に行っており、大規模な戦闘のほとんどをやっていたのです。私たちがナシリヤに行ったときには、戦争が始まって3週間か4週間経っていました。ナシリヤを移動し、南部のタリルというイラク空軍基地を爆破したりといった任務を行なったのです。当時まだ戦争が続いていました。多くの戦闘があり、ゲリラやサダム軍の残党がいました。私たちに対する脅威のほとんどは、不発弾、そしてときおりの爆撃や迫撃砲でした。ナシリヤについたとき状況は混乱していて、供給もなかったのです。兵士のためのインフラもありませんでした。最初は砂漠で荒れた状況でした。それから、米軍がバグダードを制圧して私たちは何とか落ち着き、状況が安定し、ナシリヤは常駐基地のようになったのです。

フアン・ゴンサレス:放送前に、早いうちからイラクの戦闘状況にいたいかどうか自分で疑問に感じ始めたと言いました。それについて、どうしてそんな考えが出てきたか教えてもらえますか?

アイダン・デルガド:そうですね。本当のところ、8月に整備士としての事前訓練から戻ったとき、担当軍曹に良心的兵役拒否の可能性について話をしました。そのとき既に軍にいるのが良いと感じなくなっていました。以前より真面目な仏教徒になっていた私はそれについてよく考え、軍と私は上手く合っていないのかも知れないと考えたのです。残念ながら、すぐにイラクに派遣されたので、それをもっと突き詰める時間がありませんでした。イラクにいて、2、3カ月占領を過ごしてみると、事態はもっと個人的なものになります。以前は兵役拒否という考えは抽象的なものでした。というのも、週末の教練に出るだけで、本当の兵士ではなかったからです。けれどもいざ戦争に参加してそれを直接面と向かって見てみると、問題ははるかに身近で緊急のものとなり、もはや無視できなくなります。私はひどく居心地が悪くて紛争の中で自分のしなくてはならないことをするのがとても惨めだったので、結局、武器を置いて、もうやめだ、良心的兵役拒否者となりたいと言ったのです。

エイミー・グッドマン:武器を使いましたか?

アイダン・デルガド:ありがたいことに、使いませんでした。使いたくもなかったのです。ですから武器を放棄したことに後悔は感じていません。それが、良心的兵役拒否者になるための、とても長くて苦いプロセスの第一段階となりました。司令官はものすごく敵対的でした。

エイミー・グッドマン:護身装備も放棄したのですか?

アイダン・デルガド:いいえ。弾丸を止めるためにベストの前後につける弾道板を支給されました。それのないベストは実際のところ無意味なのです。私はそれを一式受け取りましたが、良心的兵役拒否資格を申請したあと、彼らはそれを取り上げました。十分な数がないのだから戦闘員でないならばいらないだろうというのです。ナシリヤではその通りでした。脅威は大きくなかったのです。けれども、アブグレイブ収容所に行ったときには、毎晩30発から40発の迫撃砲を受け、基地にも日常的に砲弾が撃ち込まれました。弾道板がないことを強く感じました。

フアン・ゴンサレス:部隊の同僚兵士たちはあなたの決定にどう反応しましたか?

アイダン・デルガド:軍には近しい友達が何人かいたので何とか救われましたが、一般に兵士たちは私にとても敵対的でした。兵士たちは、私の背景、エジプト出身で、少しだけアラビア語を話すと言ったことを知っていました。私がアラブ人に同情的で占領にとても批判的なことを知っていました。ですから、大体のところ、彼らは私を裏切り者と呼びました。私と一緒には座りたがりませんでした。食事をともにすることもさけ、私が兵務を続けることも望みませんでした。私は信頼できないと考えていたのです。それにはとても傷つけられました。イラクに兵士として駐留し、仕事をし整備士として働いていたのに、彼らは私を裏切り者と呼んで後ろでそう囁くのです。私の人柄と私が誠実だということを知っていて、支えてくれたのは、モータープールで一緒に働く近しい友人たちだけです。司令部自体、私に反対で、懲罰的措置をたくさん加えました。そこにも、彼らがどれだけ敵対的かを示すことがありました。

エイミー・グッドマン:たとえばどんなことですか?

アイダン・デルガド:まず私は基地から出ることを禁じられました。街に出てイラク人と話すことができなくなったのです。仕事の中で私が喜んでできた数少ないことの一つ、人道活動をしたりイラク人と話したりすること、アラビア語を練習し地元の人々を知り合うことなどができなくなったのです。それはまあ何とか我慢できました。というのも、戦争はひどくグロテスクになっていたので、外出できないことをそんなに悲しみはしなかったのです。けれどもそれから司令部は、休暇帰国もさせないと言いました。良心的兵役拒否資格を申請したので戻ってこないことを恐れたのです。逃走の危険があると言うのです。単に誰一人として殺したくないと言ったという理由で。8カ月イラクにいたあとでこれは極めて気の滅入ることでした。とてもとても家に帰りたかったのです。結局、私は司令部を悩ませあまりにそのことで邪魔になったので、9カ月かおそらく10カ月たったときに、ついに司令部も心を変え、私は2週間の帰国休暇を取ることができました。

フアン・ゴンサレス:あなたはアラビア語を知っており、エジプトで過ごしたと言いました。それについて少し説明してもらえますか?どうやってアラビア語を学んだのでしょうか。

アイダン・デルガド:父は外交官で、諸外国に勤務しました。私が米国にきたのは2000年で大学に行くためでした。その前はいろいろな国で暮らしていたのです。タイやセネガルです。それから、中学高校の8年間をエジプトの学校で過ごしました。ですから、流暢にではありませんが、アラビア語のスラングを覚え、人々とやっていくに十分な言葉を覚えたのです。皮肉なことに、少しでもアラビア語を話すのは、部隊に私ともう一人しかいませんでした。ですから部隊はナシリアで行動したり何かするときに私をある種通訳として使うことになったのです。話せるのはほとんど私だけだったので。

エイミー・グッドマン:イラク人はどんなことを話しましたか?それをどう通訳したのでしょうか。

アイダン・デルガド:最初は、単にものを買ったり、同僚が町中を歩き回るのを助けていただけでした。次第にイラクの人々が私が少しアラビア語を話すと気づき、心を開いて、米軍はいつ撤退するかとかここで何をしているか、何人いるかといった質問をしてくるようになりました。私が答えられないような質問です。当初、人々はとても友好的でした。道に花を掲げて迎えられるというのに近いものでした。神の祝福を、ジョージ・ブッシュは大好きだ、ありがとう、サダム追放、といった感じです。戦争の最初の数カ月はそうでした。けれども、占領が続いて、イラク人の態度は確実に不機嫌になりました。6カ月たったときに私が受けたイラク人の対応は、ほとんど、ありがとう、神の祝福を、ところでいつあなたたちは撤退するのか、というものでした。まもなくだと思う、としか答えられませんでした。私もアメリカに戻りたかったのです。それからおしまいの頃アブグレイブで、イラク人の電気技師や収容所で働く人々とときおり会ったときに、彼らは、我々は帰国すべきだと言いました。

フアン・ゴンサレス:アブグレイブでの経験について、そしてますます強く軍を除隊すべきだと確信するようになった出来事について教えて下さい。

アイダン・デルガド:アブグレイブに派遣される頃までに、私は司令部に、私はこの戦争にはとても批判的で、自分は実質上平和主義者であり、ここで米軍がしていることをすることに関心がないことをはっきりさせていました。ですから、私が彼らの期待通り行動しないだろうことを知っていました。公式見解に従わないだろうことも。だから被拘留者や収容所の活動からできるだけ私を引き離しておこうとしました。結局、彼らは私を部隊の本部勤務という非常に好ましくない任務に左遷しました。勤務時間が長く、同僚たちから遠い勤務でした。けれども、そこで、収容所運営について内部からの視点を得ることが出来、何が起きているかについて多くを知ることができたのです。私は司令部で一群の士官と重要な書類仕事をしていました。私が本当に気の滅入る事実を知ったのはそのときです。たとえば、アブグレイブに収容されている人々の大多数はゲリラでさえなかったこと。被拘留者の多くは、連合軍への犯罪で収容されていたわけでさえなく、窃盗や公共の場での飲酒といった軽犯罪で収容されていたのです。そしてアブグレイブは恐ろしい、極めて危険な収容所でした。これは大変なことだ、自分がこんなことに参加していることさえ信じられないほどだ、と感じ始めたのはそのときです。それから、アブグレイブの状況、寒さと食糧不足、食料の貧しさに対して被拘留者から一連のデモや抗議が起きました。それに対する軍の対応は、極めて過酷なものだと感じました。不法だとはいいません。というのも法的告発を行うほど法律をよく知らないからです。けれども、対応する軍の武力行使は、はっきりと不道徳ものだったと言えます。殺される寸前まであるいは殺されるまで殴打された被拘留者の光景を見ました。私が知っていた被拘留者5人が、せいぜいが石を投げただけのデモで殺されたのです。あまりに過酷な対応でした。軍が抗議を扱うやり方に大きく幻滅しました。

エイミー・グッドマン:ここで一休みしなくてはなりません。番組を再開したあとも、イラクで何が起きたかについての話を続けたいと思います。アイダン・デルガドは2004年4月まで現地にいたのですから。当時アブグレイブ収容所スキャンダルが米国で知られ出したときでしたが、デルガドさんは数カ月前からそれを知っていたことになります。それについてお聞きしたいと思います。ゲストはアイダン・デルガドで、彼はイラクで軍務についていました。良心的兵役拒否資格を申請し、ようやくそれを得たところです。

[一休み]

エイミー・グッドマン:デモクラシー・ナウ!戦争と平和レポートへようこそ。こちらはエイミー・グッドマン、そしてフアン・ゴンサレスです。今日のゲストはアイダン・デルガド。彼は元軍予備兵。2003年4月からイラクで軍務に就き、最初の6カ月をナシリヤで、次の6カ月をアブグレイブで過ごしました。彼は武器を置いて良心的兵役拒否資格を申請し、イラクから米国に戻ってようやく資格を手にしました。そしてこの番組をラジオで聞いているだけではなく映像で見ている人々、全米のパシフィカとNPR局、パブリックアクセスTVとPBS、そして衛星ネットワークを通してデモクラシー・ナウ!にアクセスしている人々に注意したいと思います。アイダンはイラクで多くの写真を撮りました。その中のいくつかをお見せする予定です。中には恐ろしいものもあります----彼がイラクで見て撮したものです。見たくない方々は顔を背けて聞くだけにしてください。

それでは、アブグレイブについて教えて下さい。それから、これらの写真を写した状況についても。

アイダン・デルガド:アブグレイブの状況は一般に極めて酷く極めて劣悪でした。被拘留者は人間としてほとんど最低限の基準で扱われていたというのが私に強く残った印象です。有刺鉄線に囲まれ、泥の上に置かれた木の板のうえにいました。長い間寒い季節向けの服もありませんでした。バグダードでは過酷な寒さだったのです。そして兵士たちは野蛮行為を続けまた見下していました。

エイミー・グッドマン:アブグレイブで行われている被拘留者への拷問について知り始めたのはいつ頃ですか?

アイダン・デルガド:CNNで報じられてスキャンダルとなった被拘留者への拷問のことでしょうか?それについては12月後半、それから2004年1月上旬に聞いていました。詳しいことは知りませんでした。私自身----虐待の性格については驚きました----、何が起きていたかは前から知られていたことです。収容所で「おふざけ」が行われており、いくつかの部隊が関与していて、不満を抱いた一人がテープをCNNに送ったことは耳にしていました。「我々皆がこれから問題を抱える」と思い私たちは苦笑いしました。それから残念なことに、司令部のメンバーが我々のところに来て、ちょっと話をしてこう言いました。「回りでは色々起きているが、ここで我々は皆、汚れた服をともに洗う家族だから、CNNに持ち込まれる必要はない。これについて誰一人知る必要はない」と。ちょっとしたギャグがあり、起こっていたことを隠そうとするものでした。

エイミー・グッドマン:彼らは写真があったことを認めていましたか?

アイダン・デルガド:最初はビデオテープだと思いました。私たちはそう聞かされたのです。それがポイントでした。CNNにテープを送ったと。

フアン・ゴンサレス:米軍兵士はアブグレイブに全部で何人くらいいたと思いますか?

アイダン・デルガド:数千人といったところだと思います。

フアン・ゴンサレス:数千人?

アイダン・デルガド:そうです。数千人。

フアン・ゴンサレス:ところであなたの部隊は、具体的には収容所で何をしていたのですか?

アイダン・デルガド:私は概ね自分の専門、つまり整備士として、ハムヴィーを修理したりといったことをしていました。ほとんどの時間そうしていたのです。けれども約2カ月間は、私は部隊の無線勤務となり、そこでは基地の声の役割を担当しました。ラジオ操作と調整です。私が収容所内部の出来事について多くを目にしたのはそのときです。自分の部隊の外、モータープールの外に出た機会はそれだけでした。

エイミー・グッドマン:囚人が射殺されたこと、囚人が拷問されたことについて、実際には何を目撃したのですか?

アイダン・デルガド:アブグレイブ収容所に行って二カ月のうちに、被拘留者たちが不満を持っていることが全くはっきりしました。多くの騒動があったのです。毎晩のようにデモがあり手製のバナーが掲げられ、被拘留者たちが庭を進行し、タバコを吸うことが禁じられていること、そして寒さや食事などについて抗議がありました。軍事警察はそうした騒動に対処する経験があり、比較的穏健にそれを鎮めました。けれども、ある日、全員防弾ベストを来て武器をとり、基地----収容状のキャンプ----に行くよう命令が出ました。私は武器を持っていなかったのでむろん行きませんでした。

エイミー・グッドマン:武器を放棄していたのですか?

アイダン・デルガド:ずっと前に武器を放棄していました。私の部隊からも皆がそこに行きました。デモが収拾つかなくなっていたのです。人々はテントの支柱や石片や瓦礫を投げていました。兵士の一人に石が当たりました。大きな怪我をしたわけではないのですが、彼は苛立ちました。そして、対処策として致死的な武器を使う許可を求めたのです。のちに軍が行なったとても大雑把な調査では、実際に致死的な兵器を使う命令が出たかどうかははっきりしてません。曖昧なままです。こんなわけで兵士たちは重機関銃を発砲し、5人の被拘留者を殺しました。中には死ぬまで数日かかった人々もいます。戻ってきた兵士たちの口から次のような言葉を聞きました。「殺した奴らの写真を撮った。俺は三人殺した。俺は二人殺した。俺が殺った奴は死ぬまでに三日かかった。マシンガンで股間を撃ったんだ」。司令部は、そうした写真を本部に貼りあげさえし、残酷にもそれらを回覧しました。まるでトロフィーを勝ち得たような感じでした。私は次のような質問をしたことを覚えています:「石を投げただけの非武装の男を射殺したことを本当に誇りに感じているのか?」と。彼の答えは次のようなものでした:「任務を果たしているんだ」と。誰かを殺すというのは非常にマチスモなことです。この出来事について底知れない嫌悪と不快さを感じました。

エイミー・グッドマン:あなたか送ってくれた写真の中にはとても残酷なものがあります。人々が自分の血にまみれ、撃たれているところ。あれはどこで起きたのでしょうか?

アイダン・デルガド:それらの写真は最初の攻撃についてのもので、第三歩兵部隊からきました。第三歩兵部隊は我々より前に派遣されており、我々はその部隊に付随してそれを支援していたのです。非常に鮮明な写真はいずれも望遠レンズで撮影されたもので、第三歩兵部隊が撮ったものです。私は写真家ではありません。ボケた写真は私が撮ったものです。殺された被拘留者の写真はそこにいた兵士たちが撮ったものです。私はそれを、そこに参加した友人の一人からもらいました。

エイミー・グッドマン:あなたが写真を撮ることについて他の兵士たちはどう感じていましたか?

アイダン・デルガド:快く思っていなかったと思います。男たちのクラブみたいな感じで、我々は皆団結しているといった、お互いにかばいあう兄弟的心理がありました。いくつかの点で私はそれに同意しますが、このような明らかな不道徳行為については、声を挙げる義務があると思います。

フアン・ゴンサレス:実際の所、非常に多くの兵士たちがイラクにカメラを持って行ったのですね?私は写真を撮影した多くの兵士と話しましたが・・・・・・

アイダン・デルガド:何千もの写真が撮られているでしょう。

フアン・ゴンサレス:何千も何万も写真が撮られたに違いありません。それをコンピュータに入れて・・・・・・

アイダン・デルガド:似たような写真が何千枚も出回っているのは確実だと思います。私が指摘しておきたいのは、CNNが明らかにしたアブグレイブの出来事は何ら例外的なものではなかったということです。南部のナシリヤにいたとき、我々の部隊の兵士が子どもを襲ったり、人々の頭の上の瓶を壊したりといったことはしょっちゅうでした。議論にさえなりませんでした。あまりに当たり前だったのです。そうした残虐さをすべてアブグレイブにも持ち込んだのです。私の師団はアブグレイブの兵士たちの中で特に悪い例でもありませんでした。こうした残虐さのアウラと無関心のアウラに満ちていたのです。

フアン・ゴンサレス:司令官たちは、民間人や捕虜の取り扱いについてどんなシグナルを送っていたと感じましたか?

アイダン・デルガド:最良の場合でも、司令官たちは何が起きていたか知っていたのに完全に無視していました。司令官たちがそれを承認していたとまでは言いませんが、それを非難しないことで暗黙の承認はあったと言えます。我々の司令部は、捕虜が射殺されたことについて完全に知っていました。本部に写真を掲げたのですから。殴打される捕虜がいたことも知っていました。マチスモの雰囲気に包まれた看守といった感じでした。捕虜に過酷になればなるほど兵士としては優秀なのだとでも言うような。このように、少なくともまるで事態を憂慮しない雰囲気があったのです。

エイミー・グッドマン:そろそろ終わりに近づいています。アイダン・デルガド、こうした事態が明るみに出る中で、アブグレイブでは----兵士たちが写真を撮り、捕虜に向けて銃が発射されている中、捕虜たちが拷問を受けていたことは聞いていましたか?犬を使ったり、性的拷問を加えたりといった話は?

アイダン・デルガド:いえいえ、そうした個別の出来事について詳しいことは一つも聞いていませんでした。私が目にしたのは、殴打や発砲といった看守レベルでの残虐行為です。誰かが足を撃たれて切り落とされ、その足を引きずられたといったことは耳にしていましたが、それは・・・・・・いえ、私はCNNが明らかにしたような創意に富む拷問については知りませんでした。

エイミー・グッドマン:帰国して良心的兵役拒否が認められた今、イラクで起きていることについてどう思いますか?

アイダン・デルガド:私は良心的兵役拒否者ですが、愛国者で、米国を愛しています。そして軍にとっての良心の声でありたいのです。兵士たちの名誉を侮辱しようとはしていませんし、モラルを低下させようとも思いませんが、こんなことが起こったときには、米国の人々は戦争支持について考え直して欲しいと本当に思います。そして検討もせずに戦争を支持する人々に対して、こうした恐ろしい忌むべき出来事が行われており、それが自分たちの名のもとで行われていることを知って欲しいし、それらすべてに責任があるという感覚を持って欲しいのです。イラクで学校を開設したり民主主義をイラクにもたらすといったことだけでなく。私が目指しているのはそういうことで、私はそのために話をしています。人々に、戦争を支持していることについてもう一度検討してもらいたいし、占領の本質的な要素であるこうした忌まわしいことすべてについて考えて欲しいのです。「戦争を支持するときには、そうしたことを支持してもいるのだ」と。

エイミー・グッドマン:最後に防弾装備ですが、アブグレイブでは外部から砲弾や銃で攻撃を受けていたにもかかわらず、それを支給されなかったと言いましたが・・・・・・

アイダン・デルガド:その通りです。アブグレイブは日常的に迫撃砲や8フィートロケットで外からゲリラに攻撃されていました。南部では重い弾道板を支給されていましたが、後に私が良心的兵役拒否申請をしたあと、司令部は私は戦闘員じゃないからもう弾道板はいらないだろうと言いました。ですから銃弾や砲弾片をくい止める板を身につけてはいませんでした。ですから、危険でしたが、何かできるわけでもなかったので、それについては考えないようにし、できるだけ危険を避けようとだけしていました。けれどもそれはもう一つの懲罰で、少なくとも私に対する弾圧だったと感じています。信念を表明したことに対しての。

エイミー・グッドマン:アイダン・デルガド、今日は出演ありがとうございました。デルガドは2003年4月から2004年4月までの1年間イラクで軍務につき、ナシリアとアブグレイブに派遣されました。ようやく良心的兵役拒否資格を認められ、現在はフロリダに暮らしています。出演ありがとう。


Falluja, April 2004」との同時掲載です。

当たり前のことですが、米軍のイラク侵略はそもそも国際法違反の犯罪です。その中で米軍が行う残虐行為はさらなる犯罪ですが、仮にそれがなかったとしても、米軍によるイラク侵略占領は国際法に違反した犯罪、ニュルンベルクでの判決によれば、「至高の犯罪」です。

「ファルージャへの戦争」を正当化し宣伝することになるだろう映画をハリウッドが作るかも知れないというニュースが英ガーディアン紙で報道されました。グロテスク、の一言です。『ファルージャ2004年4月』に描かれているような、白旗を掲げた老女への発砲、家の外に出ただけの老人の射殺、救急車の狙撃といった戦争犯罪行為が、正当化されることになることになりそうです。

こうした戦争プロパガンダに対し「ファルージャ」をどう伝えるかが大きな課題となっています。少しでも多くの人に、どう伝えていくか。

米国では、とても多くの人々にとって、行き詰まりを打開するための選択肢としてまずあるのは軍であり、軍のリクルータもそれを狙って行動しています。このことは、戦争を本質的に組み込んだ経済構造のグロテスクさをはっきりと示しています。

現在それが「世界化」(伝統的に侵略や植民地で稼いできた国々の間で)しているため、日本もそれに乗り遅れまいと必至になっており、自衛隊を積極的に侵略や攻撃に活用しようとする「大綱」が作られつつあります。

これに対して「核とミサイル防衛にNO!キャンペーン2004」などのグループが、12月10日、抗議声明を出しています。長いですが・・・・・・
 攻撃軍への大転換=新「防衛計画の大綱」の白紙撤回を求める

 本日12月10日、今後10年の軍事力整備の基本方針となる新「防衛計画の大綱」(以下「新大綱」)とそれに基づく中期防衛力整備計画(以下「中期防」)が「閣議決定」された。私たちは一片の正当性なきこの決定に強く抗議するとともに、その白紙撤回を求める。新大綱と中期防はその内容以前に、決定プロセスにおける民主主義を著しく欠落させたものだ。内外の民衆の平和と安全を左右する一国の安全保障政策は、情報公開と民主主義にのっとり、文民統制(シビリアン・コントロール)の原則のもとで決定されなければならない。

 しかし、新大綱の「たたき台」は恣意的人選による小泉首相の単なる私的諮問機関によって策定された。そして、それに基づく新大綱づくりに関与できたのは、「与党」たる自民・公明両党と防衛・財務官僚のみであった。とどめは、国会承認という最低限の文民統制すら経ることのない「閣議決定」である。民主主義なき軍事が軍国主義に直結することは歴史の教訓である。その意味で、新大綱の決定は「主権者不在のクーデター」とも呼び得るものだ。

 さらに、内容においても到底認められない代物となっている。そこに貫かれているのは、民間人虐殺をはじめとする戦争犯罪を繰り返す「ならず者国家」米国による「対テロ戦争」への惜しみない参加と協力の姿勢だ。それゆえ戦争の効率化をめざす米軍再編に連動したものとなっている。
恒久法制定による海外派兵の本来任務化は、イラク派兵延長の強行にも示されるように、国際法を無視した米国のグローバルな先制攻撃=侵略戦争への常連参戦国となることに道をひらく。ミサイル防衛(MD)導入と日米共同開発は、集団的自衛権に踏み込み米国の先制攻撃の敷居を下げるとともに、軍拡を誘発し、宇宙の軍事化に道をひらく。

 併せて、MDを突破口とする武器輸出解禁は、日本の軍民技術が米国の「軍事革命」(RMA)に組み込まれ、その殺人技術の高度化を支えるとともに、日米軍産複合体の更なる増長をもたらす。しかも、大綱本文への盛り込みを回避し「官房長官談話」という姑息な"解釈解禁"の手法によって兵器の国際共同開発や「対テロ」名目の輸出解禁にまで道をひらいたことは、私たちを欺くものだ。

 さらに中期防には、長射程ミサイルの研究開発こそ表向き先送りされたとはいえ、敵基地攻撃に不可欠とされる電子妨害装置の開発やC130輸送機への空中給油機能付加などが盛り込まれた。これらは、既に導入が始まったJDAM(GPS精密誘導爆弾)の能力強化も含めて、敵基地先制攻撃に公然と道をひらくものだ。もはや「専守防衛」原則は完全に放棄されたと言わざるを得ない。

 こうした大転換により浮かび上がるのは、「盾」と「矛」を備え「ミニ・アメリカ」化しながらアメリカと一体化する「攻防兼備国家」としての日本である。私たちは、こうした自衛隊の「多機能化」を図りながらの攻撃軍化を政府に委任した覚えは一切ない。憲法九条の明文改憲の動きも強まる中、新大綱は軍事の暴走を決定的に加速させようとしている。

 今、必要なのは新大綱とは百八十度異なる道、すなわち武力によらない紛争解決という困難ではあっても根本的かつ現実的な道を選び取ることだ。私たちは、巧妙に仕掛けられた軍拡のワナを断ち切り、絶えざる軍縮から非武装化に至るプロセスこそを探し出さなければならない。新大綱はそうした可能性に立ちはだかる最大級の妨害物であり、東北アジアひいては世界の人々の安全にとっての「脅威」そのものである。

 私たちはあらためて強く求める。政府は新大綱と中期防を今すぐ白紙撤回し、憲法九条の非武装理念の実現に向けた軍縮計画の大綱を作れ。

 2004年12月10日
 核とミサイル防衛にNO!キャンペーン2004
 新しい反安保行動をつくる実行委員会(第9期)
 グループ 武器をつくるな!売るな!
ちなみに、カナダは米国のミサイル防衛関係施設のカナダ国内設置を禁ずる決定をしました。

12月17日には、「反戦ビラ撒き」への無罪判決が出されました。検察側は控訴を検討中とのことらしいですが、これをめぐる説明やアクションが「反戦ビラ弾圧救援会・福岡」のホームページに整理されています。東京新聞17日付朝刊の「こちら特捜部」にもまっとうな記事が掲載されていました。

辺野古の状況については、パレスチナ状況とともに、なぜか「P-navi info」に素人にもわかりやすい情報が継続的に掲載されています。同ページ及びそこからのリンクもご覧下さい。
益岡賢 2004年12月19日

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