暴力の50年

1999年
ギャリー・リーチ
コロンビア・ジャーナル原文

もくじ

はじめに
ラ・ビオレンシアと国民戦線
ゲリラの増殖
FARCとコカ・ブーム
準軍組織の増殖
米国と準軍組織
米国と麻薬戦争
終わりに

はじめに

コロンビア内戦は大規模な人権侵害を伴ってきた。人権侵害は過去20年に劇的に悪化した。国際人権組織は、繰り返し、人権侵害に対して最大の責任を負うのは極右の準軍組織であると指摘してきた。

準軍組織は、ゲリラに対してのみでなく、労働組合のメンバーとか、農業組合、人権活動家、宗教関係者など、ゲリラに共感をしていると疑いをかけた者に対する戦争を、コロンビア軍と密接な関係を維持しながら行なっている。準軍組織の指導者の中には、さらに進んで、麻薬中毒者やアルコール中毒者、売春婦、小犯罪者、ホームレスなどをゲリラへのシンパとみなし、コロンビア社会を「浄化」しようとするものもいる。

過去何年もの間、何人かのコロンビア大統領が、農業改革や社会正義といった問題---これはゲリラが、内戦の主要な原因であると主張するものである---に対処しようとしてきた。しかしながら、こうした努力は、繰り返し、米国とその「麻薬に対する戦争」や、人口の大部分を周辺化する「民主主義」を維持しようとする、政治・経済・軍事エリートにより阻害されてきた。

メディアが伝える一般的な記事では、対立を「35年にわたる内戦」と呼び、その起源を1960年代にいくつかのゲリラが公式に結成された時期においている。けれども、コロンビア第一のゲリラであるコロンビア革命軍(FARC)の起源は、ラ・ビオレンシアとして知られる1948年から1958年の時代に生まれたカンペシノたちの自衛集団にまでさかのぼる。

ラ・ビオレンシアと国民戦線

19世紀及び20世紀初頭には、コロンビアの政治は自由党と保守党という二つの政党により支配されていた。その影響は、ボゴタから、基本的には国のすべての村々にまで及んでいた。自由党と保守党エリートのイデオロギー上の相違は、コロンビア社会の隅々にまで及び、しばしば、忠実な自由党員と保守党員との間で、エリートのあいだでもカンペシノの中でも、暴力的な対立が起こった。

1940年代末の選挙では、自由党と共産党員が進めた農業労働改革運動から出た自由党の反対派、ホルヘ・エリエセル・ガイタンが大統領の第一候補であった。けれども、1948年4月9日、ガイタンはボゴタ路上で暗殺された。それにより、自由党下層階級による民衆蜂起ボコタソが起こり、首都で大規模な暴力と略奪が引き起こされた。

自由党系のカンペシノたちによる同様の蜂起が国中で同時的に発生し、地方の自由党支持者と保守党支持者がお互いに戦うこととなった。暴力が大衆の支持を得た社会蜂起につながることを恐れた自由党指導者たちは、自由党と保守党による寡頭政治体制を維持するため、蜂起を弾圧する目的で保守党政府が採用した抑圧的な手段を支持した。自由党と保守党のゆるやかな連合にも関わらず、1949年には2名の自由党高官が暗殺された。このため、自由党は1950年の大統領選参加を拒否し、そのため、このときは、保守党候補ラウレアノ・ゴメスが対立候補なしで当選した。

ボゴタでは抵抗は鎮圧されたが、いくつかの州では、散発的に武装農民蜂起が続いた。自由党系農民を共産主義者と同様と見なしたゴメス大統領は、こうした蜂起に暴力的弾圧で対処した。国家警察隊から自由党員の多くが解雇され、その地位にチュラビタの保守党基盤であるボヤカ地方の農民がつくこととなった。このチュラビスタは、まもなく、自由党支持者や共産主義者の反逆に対する残虐な弾圧で悪名をはせることになる。

1950年代前半、蜂起の標的となった教会及び冷戦を通して共産党が農民を支援すると見ていた米国とに支持されたゴメス政権は、弾圧をさらに激化させた。地方の自由党支持者と保守党支持者との間での収集つきがたい戦いが生じ、また、寡頭特権階級と土地を求める農民との戦いも起こった。この結果、多くの大土地所有者が自らの土地を捨て、比較的安全な都市に避難した。

1953年に、ゴメスは軍事クーデターにより失脚し、グスタボ・ロハス・ピニージャ将軍が権力を握った。ロハス・ピニージャは、すぐさま、都市へ逃げた大土地所有者の土地を奪回するために軍隊を送り込んだ。それに対し、武装農民集団は農地改革を求めた。1953年6月、暴力を終わらせようと試みたロハス・ピニージャは、すべての武装農民に特赦を与え、農地改革の要請に対して「社会復帰・救済局(Office for Rehabilitation and Relief)」を設置した。この組織は実際には農業問題解決のためにほとんど何もしなかったが、自由党と保守党のエリートたちは、ロハス・ピニージャが、これを、大衆の支持を得るために使っているのではないかと疑念を持つことになった。1954年6月に、ロハス・ピニージャは特赦の範囲を広げ、ゴメス政権のためにテロ行為を行なって投獄されていた者たちにも特赦を与えた。

このとき釈放されたゴメシスタの多くは、釈放後すぐに罪のない農民を殺し始め、それに対して、特赦を受け入れた農民たちも再び武器を取ることとなった。1955年、ロハス・ピニージャは、再武装した農民に対して大規模な軍事攻撃をしかけた。これがビジャリカ戦争として知られるものである。この攻勢の中で、トリマ州で武装自衛運動が結成された。これが、後にFARCとなる。自由党と保守党のエリートたちは、ラ・ビオレンシアの再発に関してロハス・ピニージャを非難し、1957年に首都でゼネストと路上抗議行動を組織し、ピニージャを退陣に追い込んだ。

ロハス・ピニージャが失脚したのち、保守党と自由党のエリートたちは、権力を共有するために国民戦線と呼ばれる協定を取り結んだ。1958年からは、それに従い、この2党が4年ごとに大統領を交代し、すべての政府関係職を2党で公平に分けることとなった。国民戦線の結成により、ラ・ビオレンシアに見られた19世紀的側面、すなわち、支配階級内での対立という側面はなくなった。けれども、新政権は、武装農民に対処せねばならなかった。

ゲリラの増殖

多くの農民---そのほとんどは自由党系か共産主義者であった---は、1950年代の軍事攻勢を、武装自衛運動に守られ、メタ州とカケタ州の人が住んでいない場所に「長征」することにより、生き延びた。農民は新しい土地を開拓し、その地域を「独立共和国」と宣言した。「社会的・経済的偏向に関する個人的経験と支配階級が掲げる二重価値体系に気付いた」ことにより信用できなくなった政府の支配から、自らを開放しようという試みであった [1]。

けれども、入植者たちはすぐに、深く求めていた自治を得たわけではないことを知った。大土地所有者が、自らの土地を拡大しようとして、新たに開墾された土地の所有権を主張し始めたのである。さらに、政府にも、入植者を放置しておく意図はなかった。「入植者たちの共和国を共産主義者のギャングと規定することにより、政府は彼ら/彼女らに対して軍事攻勢を仕掛け、政治的に非難し、経済的に封鎖することを正当化した・・・・・・その結果は戦争であった。こうした共和国は一つずつ軍の手に落ち、そして政府の統制下に入ると、土地は大土地所有者の手に渡されることとなった」 [2]。

ジャングルのさらに奥へと追いやられた農民たちは、社会正義を達成するために残された唯一の道は全国的な反政府戦争を行うことにあると自覚した。この結果、武装自衛運動は、統一的な指令系統のもとで軍と複数の戦線で同時に戦うために、部隊をコロンビアの様々な地域に分散した。1964年7月20日、武装自衛運動の諸前線は農業改革プログラムを発表した。その2年後、この運動が公式にFARCとなったのである [3]。

1960年に、独立した政党である国家人民連合(ANAPO: National Popular Alliance)がロハス・ピニージャの支持者により結成され、議会選挙に参加することになった。ANAPOは、国民戦線同盟から除外された人々の多くにアピールしたため、その人気は1960年代を通して着実に上昇した。1970年4月19日、ロハス・ピニージャはANAPOの大統領候補として立候補し、最初リードしながら、結局僅差で国民戦線の候補ミサエル・パストラナ・ボレロに破れた。多くのANAPO支持者が、政府が投票集計を操作したと非難し、選挙のごまかしに対して、ANAPOの社会主義的なメンバーは、1972年にM−19ゲリラ運動を結成した。

M−19は、大胆な都市部の攻勢によって悪名を馳せた。例えば、1980年のボゴタにあるドミニカ大使館占拠や、不幸な結末に終わった1985年の法務省乗っ取りである。後者の事件では、2日間の戦いで、11名の最高裁判事を含む百人以上の死者が出、この戦いで軍は荘厳な法廷をぺしゃんこに破壊した。1989年、M−19ゲリラは、政府の全面的な恩赦と引き換えに武器を置くことを決めた。元ゲリラたちは次に控える選挙に参加するために、民主同盟M−19という政党を結成したが、右派準軍組織は同党の指導者の多くをすぐに暗殺した。この中には、大統領候補で元M−19の司令官だったカルロス・ピサロも含まれていた。

M−19は、保守党と自由党エリートの間で権力を保持することに成功した国民戦線体制への対抗として生まれたものである。国民戦線という「制限された民主主義」は、他にも、1960年代にゲリラ運動を生み出した。これには別の要因もある。キューバ革命がラテン・アメリカの急進主義者の多くに影響を与え、エルネスト・チェ・ゲバラの武装蜂起が見習うべき革命の道と見なされた。また、コロンビア共産党がソ連共産党第20会大会における革命への平和的道を支持したことにより、多くのコロンビア人青年たちが党を離れキューバのモデルを歩むこととなったのである。

1960年代半ばにアンティオキア州でEPL(人民解放軍)が結成されたのは、こうした要因によるものである。ソ連と中国の対立の中で、EPLは「持久的人民戦争」という毛沢東主義を採用した。けれども1980年以降は毛主義とは距離を置き始め、1990年8月にはメンバーの多くが武器を置いて政治的プロセスへの参加を決断した。少数のグループはコロンビア北部で武装活動を継続している。

1964年、キューバから帰国したばかりの大学生たちが、コロンビア第二のゲリラ勢力である民族解放軍(ELN)をサンタンデル州で結成した。ELNは厳密にゲバラの都市ゲリラ戦という原則に従い、M−19やEPLと対照的に、これまで武器を捨てて政治プロセスに参加することを拒んできた。社会学者のエデュアルド・ピサロは次のように述べている:「最近、ELNはほとんど全面的に石油産業を妨害し破壊することに活動を集中させ、北部のパイプラインを攻撃して大きな成功を収めている」 [4]。

実際、1986年から1997年の間に、ELNは636回パイプラインを爆破し、国営石油会社Ecopetrolに15億ドルの損失を与えている [5]。長年にわたり、FARCとEPLは、ELNが経済サボタージュにより大衆の支持を得ることに失敗してきたと批判している。けれども、1990年代末には、FARCもまた、内陸奥地の油田から沿岸の港に石油を運ぶ多国籍企業の石油パイプラインを標的にしている。

コロンビアで国民戦線とキューバ革命以前の農民に起源を持つゲリラはFARCだけである。これに対して、ELN、EPL、M−19はすべて都市部の知識人階級に率いられたものであり、1960年代に発達したラテン・アメリカの多くのゲリラと共通している。つまり、キューバ革命に影響された、国内の政治的・社会的・経済的状況に対する武装反対活動なのである。

FARCとコカ・ブーム

1974年の大統領選で、自由党と保守党候補が再び対立候補としてたったため、国民戦線の同盟関係は終わりを告げた。16年間に及ぶ国民戦線支配は、殺害の数を減らした---ラ・ビオレンシアの時代に死亡した20万人のコロンビア人と比較してはであるが---が、農業問題と劇的な貧困の増大に対処しなかった。

国民戦線期に、コロンビア就労人口の中で絶対的貧困生活を送るものは25%から50.7%と、2倍以上となった。地方部では、さらに悪く、25.4%から67.5%へと増大した [6]。こうした貧困が背景にあったことを考えると、1970年代後半にコカ・ブームが始まったとき、麻薬利益の誘惑に惹かれて、都市部の失業者と土地無し農民たちが、大部分FARCの制圧下にある入植地域に大量に流れ込んだことは不思議ではない。

当初、FARCは、新たな大量移民が、自らの支配地域における政治的・社会的現状に悪影響を及ぼすことを懸念した。けれども、同時に、社会秩序を保つおかえしの課税収入は急激に増加した。この新しい収入によりゲリラの武器を近代化し、兵士の生活水準を上げることができたため、軍事力が大規模に増加した。さらに、FARCは、「貸付、教育、保健、司法、登記、公共事業、環境と文化プログラムの領域」で社会経済的サービスを提供することができるようになった [7]。

コカ・ブーム初期には、ゲリラと麻薬支配者たちは一緒に活動した。ゲリラがコカ栽培地域の多くを支配し、カルテルがコカイン製造と取引を扱った。けれども、この非公式な同盟は、メデジンとカリの麻薬カルテルの指導者たちが、新たな富を大規模な牧場をはじめとする財産に投資し始めたため、ゲリラの伝統的な敵の側に属することとなったことで解体した。この新たな麻薬=土地所有者たちは、ゲリラ及びゲリラのシンパと見なすものと戦うために、自ら準軍組織を結成することとなった。

準軍組織の増殖

麻薬土地所有者との戦いの中で、ゲリラは、コカへの課税を補う、もう一つの儲かる収入源を発見した。麻薬土地所有者とその親類を誘拐することである。このゲリラの戦略に対し、カリの223名の麻薬商人たちが、1981年12月、「誘拐者へ死を」(Muerte a Secuestradores: MAS)という準軍組織を結成した。過去10年の間に、MASをモデルとした準軍組織が何百も結成された。

国際的な人権団体であるヒューマンライツ・ウォッチは、オスカル・デ・ヘスス・エチャンディア大尉の軍人市長を擁するサンタンデル州のプエルト・ボヤカで結成されたバルブラ部隊について次のように述べている:「1982年にエチャンディアは地元の人々の会議を開催した。参加者には地元の自由党及び保守党の指導者たち、ビジネスマン、牧場主、そしてテキサス石油会社の代表が含まれていた。これらの人々は、自分たちの目的がゲリラの要求から人々を守ること以上のものであることに気付いた。反対派を地域から「浄化」したかったのである」 [8]。

この会議の結果、軍から装備の支援を受けて武装した男たちが雇われて「浄化」を行うこととなった。この新しい準軍組織は、カリの組織の名を取ってMASと名付けられた。MASという略称は新たな武装集団の非常に多くに使われたため、すぐに「準軍組織」と同義語になった。

プエルト・ベリオのボンボナ部隊の準軍活動のために訓練された市民の2名が、フィデル・カスタニョとカルロス・カスタニョ兄弟であった。彼らの父はFARCに誘拐され殺害されていた。兄弟はまもなく自らの準軍組織を結成し、コルドバとウラバの農民自衛団(ACCU)と名付けた。「80年代末には、『ランボー』として知られたフィデル・カスタニョは、有力な麻薬商人であると同時に準軍組織の指導者たちの頂点に立った」[9]。

一方、1985年には、ラ・ウリベ協定によりゲリラとベリサリオ・ベタンクル大統領が停戦合意を結んだあと、1985年に、FARCとも関係を持つ政党愛国同盟(Patriotic Union: UP)が結成された。社会学者のリカルド・バルガス・メサは次のように言う。「FARCの社会・経済的要求の一部を組み込み、停戦を広げたことで、協定は内戦を政治的に解決する可能性を開いた。ベタンクルの立場は彼の前任者たちの立場とは大きく異なっていた。というのも、彼は、ゲリラの暴力が現実の社会的状況の産物であることを認め、こうした状況とゲリラたちの要求との間に関係があることを理解したのである」[10]。

けれども、多くの議員がベタンクルの和平政策に反対し、1986年、新たに大統領に選ばれたビルジリオ・バルコの助けもあって、寡頭体制を脅かすような交渉は終わりを告げた。停戦が終了したことに加え、「国家は、主に愛国同盟を標的とした汚い戦争を開始した。1988年だけで、愛国同盟の指導者が200名近く暗殺された」[11]。合計すると、結成から5年のうちに、1000名以上の愛国同盟党員が殺された。その中には、2名の大統領候補も含まれていた。

「汚い戦争」に手を染めた準軍組織は、コロンビア軍と緊密な同盟関係にあっただけでなく、合法的な民兵でもあった。暴力調査委員会は、1968年に採択された法律第48は、「軍に、組織的犯罪者や一定の農業地帯で活動する武装集団に報復できるよう「自衛」団と呼ばれる文民グループを組織して武器提供することを許可した」ものである [12]。

対ゲリラ作戦が禁止されていた、ラ・ウリベ停戦協定の間、軍は活発に法律第48を用い、地方の農民たちを標的とした「浄化」作戦を行う準軍組織を作りだしていた。汚い戦争に準軍組織を使うことにより、ある程度まで、軍は人権侵害に関わっていないともっともらしく言うことができたのである。

準軍組織の増殖にも関わらず、FARCは南部と東部を制圧下に収めつづけておくことができた。けれども、北部コロンビアの準軍組織は、テロを用いて、逆農業改革を攻撃的に適用するために地域の全人口を追放したりした。この作戦により、麻薬土地所有者が土地を拡大し、同時に、ゲリラへの農民支持基盤を攪乱できた。1980年代末には、麻薬商人がコロンビア最大の土地所有者となり、その結果「コロンビア地方部のかなりが、大規模な非生産的牧場となった」[13]。

1983年2月20日、ベリサリオ・ベタンクル大統領の命令のもとで調査をしていた検事総長が、MASによる活動に関する報告を発表した。報告書が名を挙げている163名のうち、59名は、警察と軍の現役であった。「超会派平和と正義」というコロンビア人権団体の総代表ハビエル・ヒラルド神父は、この報告に対して、軍と防衛省がクーデターが迫っているとほのめかした、と述べている。その結果、「最高検事庁自身が、それ以来、証拠集めを行わず、MASのメンバーに対する制裁手段を執らなくなって、準軍組織の存在に好意的な態度をとるようになった」[14]。

MASや軍人に対する訴訟が法廷に届いた希な機会には、判事が、殺されることを恐れて、訴訟を軍事法廷に引き渡すことが多く、軍事法廷では訴訟はいつも却下されることとなる。こうした不処罰により、軍と準軍組織は、応報を恐れることなくコロンビアの農民に対する戦争をしかけることができた。さらに、それまでの20年間、コロンビアはほとんど常に公式の「非常事態」下にあったため、その間は国内の対立は軍が実質的には独自に対処し、一方政府はほとんど完全に政府と行政問題を扱うだけであった。この二重制度によって、軍及びその同盟者である準軍組織は、ほとんど誰に対しても責任を負わずに活動を続けることができたのである。

1988年3月4日夜、アンティオキア州ウラバで、武装した一団が、ラ・オンジュラス農場の17名の労働者を虐殺し、さらに、隣接するラ・ネグラ農場の3名を殺害した。犠牲者はみな、その地のバナナ労働者組合の組合員だった。ヒューマンライツ・ウォッチによると、その後の虐殺に対する調べで、「その前の数週間に、軍が犠牲者となる人々の何人かを逮捕し、写真を撮り、また、別の人々を拘束して情報を提供させるために拷問を加えた。この情報は殺人者たちに伝えられた。虐殺のまえに、殺人者たちは、第10旅団の諜報部に属するルイス・ベセラ少佐によりメデジン・ホテルに集められた。そこでベセラは、自分のダイナーズクラブのクレジットカードで賃金を支払った」[15]。

1988年9月、マーサ・ルシア・ゴンサレス判事がベセラの逮捕状を発行した。この逮捕状は、「彼が中佐に昇進するために必要なコースを受講するために米国にいてコロンビアにはいない」ために執行されなかった [16]。マーサ・ルシア・ゴンサレス判事は殺害の脅迫を受け、国外に逃れた。ベセラへの告訴が取り下げられて間もなくの1993年10月5日、ベセラは、今度はリオフリオで、軍と準軍組織による13名の虐殺に関与した。リオフリオ虐殺により、ベセラは軍命令で退役させられた。彼への逮捕状が発行されたにも関わらず、彼は自由に暮らしている。

ラ・オンジュラスとラ・ネグラ虐殺に関与していたとして、準軍組織ACCUの司令官フィデル・カスタニョにも逮捕状が出た。カスタニョは不在裁判で有罪となり20年の禁固刑を宣言されたが、逮捕されていない。カスタニョは、1988年から1990年の間にさらに4つの虐殺に関与していたとされ、また、「カスタニョ自身が、1990年の愛国同盟大統領候補ベルナルド・ハラミヨ暗殺計画に参加していたことを認めている」[17]。

多くの準軍組織の結成と活動に軍が関与しているにも関わらず、いつも軍が準軍組織を統制しているわけではない。1989年までに、麻薬土地所有者は、準軍組織を使ってゲリラや地方の農民を標的とするのみでなく、麻薬商人の米国引き渡しを支持する政治家や判事などの政府関係者をも標的としだした。メデジン・カルテルの首領パブロ・エスコバルに率いられた麻薬商人の一団は自らを「引き渡されうるものたち」と呼び、政府による米国への身柄引き渡しを止めさせるためにコロンビアの諸都市で爆弾作戦を行なった。

準軍組織はまた、それと戦おうとする勇気ある政府職員をも標的とした。1989年1月18日、準軍組織による一連の殺害を調査していた2名の判事と10名の調査員が、準軍組織による虐殺の犠牲となった。政府は、この恐ろしい統計をもはや無視することが難しくなった。1970年代に1053件だった政治的殺害は、1980年代には12859件に跳ね上がった。1988年1年だけで108の虐殺があったのである [18]。けれども、政治家にとってもっと重要だったのは、おそらく、準軍組織がますます多くの政府職員を標的とし出したことであった。

その結果、ビルジリオ・バルコ大統領は1989年4月の声明で準軍組織を批判した。「実際には、彼らの犠牲者の大多数はゲリラではない。犠牲者は、体制に対して武器を取ってはいなかった男性、女性そして子供なのだ。これらの人々は平和的なコロンビア人である」[19]。1989年5月25日、コロンビア最高裁は法律第48を違憲であると裁定し、その翌月にはバルコ大統領が大統領令第1194を発布して、文民や軍人が「自衛」団を作ったり援助したりそれに参加することを違法とした。

当然、準軍組織を違法としたからといって、その活動や軍との共謀が終わるわけではない。ヒラルド神父は、法律第48が廃止され大統領令1194が発布されてから1年もたたない1990年3月に起きたトルヒーヨ虐殺の場にいた軍への密告者の目撃証言を記述している。「31日の深夜より少し前、軍と準軍組織の連合が家から多くのカンペシノを引きずり出し、よく知られた麻薬商人のアシエンダに連れていって、拷問し、チェーンソーで手足を切断した。軍の少佐は、最も残忍な拷問を自らの手で行なった」[20]。

この虐殺の容疑者にコロンビア法廷は有罪判決を下さなかった。それゆえ、ヒラルド神父と彼の組織は、63名の犠牲者のために、訴訟を、米州機構の汎米人権委員会に持ち込むことを決めた。

2年間の議論の末、コロンビア政府は、政府と非政府の代表からなる超法規的な委員会の創設に合意した。この新たな委員会は、トルヒーヨ虐殺に参加していた軍人の行為につき政府の責任を認め、犠牲者の遺族に賠償が支払われた。けれども、虐殺に関わったものは、その前にコロンビア法廷で放免されていたため、処罰をうけることはなかった [21]。

米国と準軍組織

1990年2月、米国のジョージ・ブッシュ大統領がアンデス・イニシアチブを発表した。これは、コロンビア、ペルー、ボリビアに対する22億ドルの経済・軍事援助からなるものであった。援助の3分の2は、軍事援助と警察隊援助に充てられた。それは、一方でコカ生産の経済的原因(貧困)を無視しながら麻薬戦争を戦おうという米国戦略の一部であった。さらに、これらの国々は、経済援助を得たければ、まず軍事援助を受け入れなくてはならないと通告された [22]。

ブッシュの「ヒモツキ」アンデス・イニシアチブに対して、「軍事合意に署名するにあたって躊躇しなかったのはビルジリオ・バルコ政権のコロンビアだけであった。これにより、ブッシュのホワイトハウスは、西半球で最も残虐な将校部隊の一つと関係を深めることになったのである。この部隊は、警察や右翼死の部隊と同盟関係を結び、10年以上にわたり、メデジン・カルテルと緊密な協力関係にあったのだ」[23]。

米国政権は、米国の人々に信じ込ませたようにコロンビアで麻薬に対する戦争を強化しているだけでなく、コロンビアの対ゲリラ作戦にもさらに関与することとなった。1990年、コロンビア軍の諜報ネットワークを再組織するための助言を与えるため、米国は14名からなるチームを編成した。このチームには、「米国大使館の軍事グループ代表、米国南方軍、防衛情報局、CIAが含まれていた」[24]。1991年5月、再組織は完成し、コロンビア防衛省は指令200−05/91を出した。

ヒューマンライツ・ウォッチによると、「アンデス戦略が述べる目的とは逆に、指令200−05/91はほとんど麻薬撲滅の戦いとは無関係である」[25]。実際、16ページにわたる指令200−05/91は、ゲリラに対する戦争についてコロンビア軍を支援するための戦略を記述したもので、麻薬については一つも言及していない。

指令200−05/91の結果の一つは、文民や軍人が「自衛」グループを造り、支援し、それに参加することを禁止した大統領令1194を弱体化するものであった。ヒューマンライツ・ウォッチによると、指令200−05/91は軍に30の諜報ネットワーク創生を助言しており、「部隊と旅団の司令官に、『ネットワークの幹部に組み込むために、文民や退役軍人などの』候補を選ぶよう指示している」[26]。

30のネットワークのうちの一つは、マグダレナ川沿いのコロンビア最大の石油精製工場があるバランカベルメハのコロンビア海軍により造られた。このネットワークのメンバーであるフェリペ・ゴメスが減刑と引き換えに証言したところによると、このネットワークは軍のためにいくつかの準軍組織を結成したという。彼はまた、「海軍から武器と装備を受け取った」と述べている。この中には、「ボルト・アクション・ライフル、M16ライフル、ガリル・ライフル、レボルバー、ピストル、サブマシンガン、破砕性手榴弾、軍事教練指導書、そして海軍及び陸軍と通信するための高周波2−WAYラジオが含まれていた」[27]。

これらの武器を文民が所有することは違法であるだけでなく、法律第48を違憲とした1989年のコロンビア最高裁決定があるので、軍がこうした武器を文民に提供することも違法である。バランカベルメハ・ネットワークの管理者であるカルロス・ダビド・ロペスはもまた文民当局に対する証言と自らの告白の中で、1992年の前半における46の殺人をネットワークが行なったものと述べている。そのあと、ゴメス、ロペスそしてバランカベルメハ諜報ネットワークについて証言した他の人々は、「失踪」した。

準軍組織の役割は、1994年12月13日、エルネスト・サンペル大統領が、監視と個人保安のための共同組合(CONVIVIR)と呼ばれる新たな政策を開始したため、さらにオーソライズされることになった。このプログラムのもとでは、「自分たちの地域の情報を軍部隊に提供するという意図で「地方治安組合」を設置する」ことが許された [28]。基本的に、CONVIVIRは、指令200−05/91と相まって、準軍組織をほぼ完全に再合法化するものであった。

コロンビア軍の諜報ネットワーク再組織化は、コロンビア軍による対ゲリラ作戦に対する米国の関与の一部に過ぎない。国際人権諸団体は、「1990年代の米国援助のかなりの部分がコロンビア軍部隊に与えられた。こうした部隊は、人権侵害の長い歴史をもち、また、その多くの基本的役割は、麻薬戦争ではなくゲリラと戦うことであった」[29]と報告している。

コロンビア軍とその準軍組織の同盟者による人権侵害への対応として、米国は1994年から1997年までコロンビアへの軍事援助を停止した。けれども、ワシントン・ポスト紙によると、1996年に26回米軍がコロンビアに派遣された。これは、「訓練が主として米軍部隊の利益になるなら、外国の地で米軍特殊部隊が訓練を行うことを許可する1991年の法律のもとで」行われたものである [30]。訓練があまりなされておらず、装備も意欲も不足しているコロンビア兵士と対ゲリラ訓練を行うことの第一の受益者が、どうして米軍特殊部隊であるのか理解するのは容易ではない。

援助が再開された後、クリントン政権は1991年の法律を使い続けた。というのも、海外作戦予算法のリーヒー修正の対象とならないからである。リーヒー修正においては、人権侵害について潔白であることが明らかにされたコロンビア軍部隊のみが米国支援を受け取ることを許される。このような矛盾する政策によって、クリントン政権は、コロンビアの抑圧的な軍に対する支援を減らすことなしに、自らを人権の強固な擁護者であるふりを人々の前ですることができたのである。

さらに、コロンビア人士官と兵士たちは、定期的に、ジョージア州フォート・ベニングのスクール・オブ・ジ・アメリカズで訓練を受けている。ヒューマンライツ・ウォッチによると、「こうした将校の一部は、スクールのカリキュラムに、兵士はゲリラに対する賄賂、恐喝、脅迫、拷問をつかうべしと勧告する訓練マニュアルが含まれていたときの受講生である」[31]。前述のラ・オンジュラス/ラ・ネグラ及びリオフリオ虐殺に関与したベセラ・ボホルケスを始め、多くの人権侵害に関与したとされる軍人は、スクール・オブ・ジ・アメリカズの卒業生である。

対立のもう一つの悲劇的な側面は、準軍組織による「社会浄化殺戮」が劇的に増えたことである。多くの準軍組織の使命には、今や、コロンビア社会の「道徳的」純化が含まれている。これは、「麻薬中毒者、元囚人、こそ泥や小犯罪者、売春婦、同性愛者、乞食とストリート・チルドレンを物理的に抹殺する」ことを通して行われる」[32]。

1989年から1993年のあいだに、死の部隊あるいは「シカリオ」として知られる暗殺者が行なった社会浄化が1926件記録されている。暗殺者の多くは、コロンビアの悪化する経済のために周縁化された都市部の失業者出身である。皮肉なことに、ボスたちが、こうした暗殺者が内情を知りすぎたと判断すると、新たに雇われたシカリオの標的とされる。

「平和の可能性」というエッセーの中で、アルチュロ・アラペは、今日のコロンビアにおける暴力の規模を検討している。「1997年の最初の11ヶ月で、23532名が殺された。1日平均70名である。1997年だけで政治的理由による虐殺が185件あるコロンビアは、人権諸団体により、地球上で最悪の人権侵害国の一つと名指されている」[33]。人権団体のコロンビア法律家協会(CCJ)によると、1997年の人権侵害の76%は準軍組織によるものであり、17%がゲリラによるもの、また、7%が軍によるものである[34]。

対立の悲惨な帰結は、政治的虐殺や社会浄化だけではない。コロンビアは誘拐数で世界第一位であり、1998年には1658件の誘拐事件が起きている。過去10年間で政治的理由で「失踪」した人の数は1500名以上と推定されている [36]。そして、現在、暴力により家を追われた国内難民が100万人以上いる [37]。

1998年のヒューマンライツ・ウォッチは、内戦に関与するすべてのグループが人権侵害に関わっていると非難している。報告書は、軍が「文民を戦闘員と区別できないかしないかする態度を一貫してとって」おり、また、虐殺の大部分を行なっている準軍組織に資材支援を行なっていると非難している。報告書はまた、文民に対する誘拐と虐殺を行なっているとしてFARCを非難している。ELNについては、ヒューマンライツ・ウォッチは、文民を標的とし、地雷を埋め、そして「石油会社から金をゆすり取るためにコロンビアの石油パイプラインを体系的に爆破している」と非難している。

米国と麻薬戦争

FARCが軍事力を過去10年間に増強したのに対し、準軍組織の活動も活発となった。1985年にFARCはコロンビアの1071の地方自治体のうち173を支配していただけだったが、1998年までには622の地方自治体をコントロールするようになっていた [39]。FARCの進撃と戦うために、フィデル・カスタニョが1994年に失踪して以来ACCUを率いていたカルロス・カスタニョは、1997年4月に準軍組織の活動を地方レベルから全国レベルに拡大した。ついで彼は、コルドバとウラバの農民自衛団(ACCU)という名称を、コロンビア自警団連合(AUC)と変更し、伝統的にゲリラの基盤であったコロンビア南部での攻撃を開始した。

1998年11月、アンドレス・パストラナ大統領は、FARCとの間の和平会談の準備として、コロンビア南部の16200平方マイルの地帯から、2000名の兵士と警官を撤退させた。和平会談と同時に行われた準軍組織の攻撃は、4日で、136名の市民の死者を生んだ。これに対して、FARCは、準軍組織が和平プロセスを妨害しているとし、政府が右翼死の部隊を解散する真面目な努力をするまで会談を続けることはできないと述べた。パストラナ政府は何名かの前任者と同様、平和の働きかけが寡頭支配層、軍、準軍組織により妨害されるという問題に直面した。というのも、こうしたものたちは、ゲリラが要求していることの中に正当なものがあることを認めたがらなかったからである。

さらに、米国政府は「麻薬に対する戦争」を軍事力で解決しようとし続けた。米国にとって、麻薬に対する戦争がゲリラに対する戦争とほとんど同義語であった。クリントン政権は、繰り返しゲリラを麻薬取引と結びつけ、「麻薬ゲリラ」と呼んだ。その結果、米国政府は、対立が、50年にわたり、コロンビア社会に大きく広まっていた政治的・社会的・経済的不平等に根をもつという点をひどく曲解して伝えたのである。米国麻薬局すら、次のように述べている。「FARCは国際的な麻薬商売には関与していない。そうではなく、麻薬取引に関与する多くの関係者の一つなのであり、関係者の中にはコロンビア軍と準軍組織も含まれる」[40]。

1998年、米国議会は、向こう3年間の予算として、コロンビア向けに対麻薬予算2億9000万ドルを割り当てた。この予算の大部分は、コカを根絶させるために使うヘリコプターや武器をコロンビア軍と警察が購入するためにあてられた。代替作物プログラムに割り当てられたのは、4500万ドルに過ぎない。また、1998年、米国政府はコロンビア政府に対して、Tebuthiuronという薬剤を使うよう圧力をかけた。これは、触れたものほとんどすべてを殺害する非常に強力な化学物質である。

製造者のダウ・アグロ科学すら、広範囲のコカ根絶にこの薬剤を使うべきではないと述べている。「Tebuthiuronは、コロンビアの作物にはいずれも使うに不向きであり、我々は、これが不法作物根絶に使われないことを希望する。これは、傾斜地で、降雨量が多く、残しておきたい植物や木が近くにあって、なおかつ理想的とは言い難い状況で使われるなら、非常に危険である」[41]。この状況は、まさに、多くのコカが栽培されているコロンビア山岳地の雨林地帯にそのまま当てはまる。そして、米国が望むような空中散布は、「理想的とは言い難い」状況での利用である。コロンビア政府は、環境に対する憂慮を理由に、米国によるTebuthiuron利用の圧力に屈しなかった。

現在の、ゲリラとコカ栽培者に対する戦争を行うために米国が西半球で最も激しい弾圧を行なっている軍に援助を与えるという戦略は、貧しい農民たちがコカの生産を行わざるを得ないという経済的現実を無視するものである。1999年のインタビューで、FARCの最高司令官マヌエル「必殺」マルランダは、FARCはコカを3から5年で根絶できると述べている。

マルランダは、それを証明するために、もし政府あるいは国際組織が経済援助を与えてくれるなら、FARC支配下の一地方自治体で代替作物に切り替えコカ栽培を根絶することを実際に示すこともできると述べた [42]。マルランダの主張が実現可能かどうかは別として、米国の、農民に代替作物計画を全く提供せずに、ただコカを根絶しようとする戦略は、失敗してきた。

終わりに

50年にわたり、FARCとその先行者たちは、コロンビアの農民層のために農地改革と社会正義を主張してきた。FARCは今や15000から2万の兵士を擁する強力な部隊となり、コロンビアの約40%を支配している。米国防衛情報局(DIA)が1997年に発表した報告は「コロンビアの政府が政治的権威を再獲得し、また、軍が大規模な再建をしないならば、コロンビア軍は5年で敗北する」と述べていた [43]。

米国の「麻薬皇帝」バリー・マッカフリー将軍もまた、コロンビアの民主主義がゲリラの軍事力の増大により深刻に脅かされていると述べたとき、DIA報告を繰り返していたに過ぎない [44]。マッカフリーのこうした言葉は、彼の言う「民主主義」が次のような要素を含んでいることを明らかにしている:軍事戒厳令下で社会秩序を「維持する」こと、一般市民を頻繁に虐殺する準軍組織への不処罰、保守党と自由党に対立する政治家候補者の恒常的暗殺、恐怖で麻痺した司法制度、そして、生存するための唯一の方法が不法コカ栽培である何千人もの農民。実際、もし政治・経済・軍事支配エリートたちが、準軍組織の協力を得て、真に民主的な改革を妨害し続けるならば、コロンビアの「民主主義」の崩壊は避けがたいかもしれない。

米国はといえば、対立を「エルサルバドル化」する意図を持っているように思われる。1980年代のエルサルバドルと同様、コロンビアは現在、米国の軍事援助の西半球第一の受け手である。そして、ワシントンは、ゲリラの勝利を阻止するために、再び、右翼死の部隊と密接な関係を持つ抑圧的な軍を支援しようとしている。このような政策は、コロンビアの人々の苦悩を長引かせるだけである。今も多くの人々は、日常的な虐殺、拷問、失踪、誘拐、強制移送の犠牲になっている。

対立を平和的に解決できるかどうかは、政府とゲリラの交渉が可能であるような状況をつくりだすために、政府が準軍組織を解散できるかどうかにかかっている。そのとき、そしてそのときにのみ、対立の政治的・社会的・経済的原因に取り組むことが可能になるだろう。

注・参考文献

1. Alfredo Molano, "Violence and Land Colonization," Violence in Colombia: The Contemporary Crisis in Historical Perspective, Eds. Charles Bergquist, Ricardo Penaranda and Gonzalo Sanchez (Wilmington: Scholarly Resources, 1992), 199.
2. Ibid., 206-207.
3. Eduardo Pizarro, "Revolutionary Guerrilla Groups in Colombia," Violence in Colombia: The Contemporary Crisis in Historical Perspective, Eds. Charles Bergquist, Ricardo Penaranda and Gonzalo Sanchez (Wilmington: Scholarly Resources, 1992), 181.
4. Ibid., 178.
5. Steven Dudley and Mario Murillo, "Oil in a Time of War," NACLA-Report on the Americas, Mar./Apr. 1998, p. 42.
6. Benjamin Keen, A History of Latin America (Boston: Houghton Mifflin, 1996), 514.
7. Alfredo Molano, "Violence and Land Colonization," 214.
8. Human Rights Watch/Americas, Colombia's Killer Networks: The Military-Paramilitary Partnership and the United States (New York: Human Rights Watch, 1996), 17.
9. Ibid., 18.
10. Ricardo Vargas Meza, "The FARC, the War and the Crisis of State," NACLA-Report on the Americas, Mar./Apr. 1998, 24.
11. Ibid., 25.
12. Commission for the Study of Violence, "Organized Violence," Violence in Colombia: The Contemporary Crisis in Historical Perspective, Eds. Charles Bergquist, Ricardo Penaranda and Gonzalo Sanchez (Wilmington: Scholarly Resources, 1992), 268.
13. Mark Chernick, "The Paramilitarization of the War in Colombia," NACLA-Report on the Americas, Mar./Apr. 1998, 30.
14. Javier Giraldo S.J., Colombia: The Genocidal Democracy (Monroe: Common Courage, 1996), 85.
15. Human Rights Watch/Americas, Colombia's Killer Networks: The Military-Paramilitary Partnership and the United States, 23.
16. Ibid., 74.
17. Ibid., 75.
18. Ibid., 25.
19. Ibid., 23-24.
20. Javier Giraldo S.J., Colombia: The Genocidal Democracy, 49.
21. Ibid., 51.
22. James Petras and Morris Morley, Latin America in the Time of Cholera: Electoral Politics, Market Economics, and Permanent Crisis (New York: Routledge, 1992), 60.
23. Ibid., 60.
24. Human Rights Watch/Americas, Colombia's Killer Networks: The Military-Paramilitary Partnership and the United States, 27.
25. Ibid., 28.
26. Ibid., 29.
27. Ibid., 33.
28. Ibid., 44.
29. Coletta Youngers, "U.S. Entanglements in Colombia Continue," NACLA-Report on the Americas, Mar./Apr. 1998, 34.
30. "A Sensitive Role for U.S. Troops," Washington Post, May 25, 1998, Heraldlink, Online.
31. Human Rights Watch/Americas, Colombia's Killer Networks: The Military-Paramilitary Partnership and the United States, 93.
32. Javier Giraldo S.J., Colombia: The Genocidal Democracy, 23-24.
33. Arturo Alape, "The Possibilities for Peace," NACLA-Report on the Americas, Mar./Apr. 1998, 36.
34. Human Rights Watch, "Human Rights Watch World Report 1998" Human Rights Watch, 1998, Online.
35. "Colombia Leads in Kidnappings, with 1,678 this Year," Miami Herald, December 25, 1998, Heraldlink, Online.
36. "Lots of Colombians Disappearing," Miami Herald, May 12, 1998, Heraldlink, Online.
37. "Colombia War Displaces 241,312 People in 1998," Reuters, November 29, 1998, CNN Interactive, Online.
38. Human Rights Watch/Americas, "War Without Quarter: Colombia and International Humanitarian Law," Human Rights Watch, 1998, Online.
39. Mark Chernick, "The Paramilitarization of the War in Colombia," NACLA-Report on the Americas, Mar./Apr. 1998, 32.
40. Coletta Youngers, "U.S. Entanglements in Colombia Continue," NACLA-Report on the Americas, Mar./Apr. 1998, 35.
41. Tod Robberson, "Drug War Herbicide May Harm Environment," Dallas Morning News, May 2, 1998, Heraldlink, Online.
42. "Colombian Rebels Offer to Wipe Out Drug Crops," Reuters, January 17, 1999, CNN Interactive, Online.
43. "Multilateral Invasion force for Colombia?" NACLA-Report on the Americas, May/June 1998, 46.
44. "U.S. Drugs Czar Says Colombian Democracy Under Threat," BBC News, March 1, 1999, Online.


益岡賢 2002年3月12日

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