コロンビアの中のアフリカ:米州初の自由な黒人コミュニティの闘いは続く
2009年8月24日
ギャリー・リーチ
ColombiaJournal原文


400年前、コロンビアのカリブ海岸沿いに住んでいたアフリカ系コロンビア人たちは、子供が生まれる度に涙を流したものだった。若者たちはスペインによる植民地支配下で、奴隷として苦しむ一生を送らなくてはならない運命だったからである。死んだとき、アフリカ系コロンビア人は、9日夜に及ぶ徹夜祭を行って、死者がアフリカに戻ることを祝った。その当時はどうやら、解放を手にする唯一の道は死だったようである。けれども今日、僻村サン・バシリオ・デ・パレンケに住む親たちは、子どもが生まれてももう涙を流さなくてよい。勇気と強さを備えた先祖たちが、1603年にスペイン王室からの自由を手にしたからである。現在、サン・バシリオ・デ・パレンケ----住人は単にパレンケと呼ぶ----の人々は、自分たちは米州で最初に自由となった黒人コミュニティに暮らしていると主張し、バラク・オバマ大統領に手紙を送り、アメリカ合衆国最初の黒人大統領としてパレンケを訪れるよう招待した。「私たちはバラク・オバマを招待しました。彼の訪問を期待しています」。コミュニティの指導者エンリケ・マルケスはこう語る。「彼に何かを求めようというのではない。彼に、そしてすべての黒人に、さらに世界中のすべての人々に、パレンケについて知ってほしいのです」。

実際、パレンケから学ぶことは多い。大雑把に翻訳すると「壁で囲まれた都市」といった意味を持つ「パレンケ」という名は、17世紀に逃亡奴隷たちが作った数百という僻地のコミュニティに冠せられている。これらコミュニティには村人をスペイン人から守ろうとして、長い棒を使った円形の壁が作られたことに由来する。それゆえ、パレンケの名そのものが抵抗と孤立を象徴しており、それゆえにサン・バシリオ・デ・パレンケでは、数世紀にわたる植民地支配者からの弾圧とコロンビアで現在も続く暴力に抗して固有の文化----特にアフリカ起源の言語---- が維持されることになったのである。

1500年代に植民地都市カルタヘナに来た黒人奴隷の多くがアフリカ西岸、とりわけコンゴ地域の出身だった。「その中には王子や指導者たちもおり、そうした黒人は奴隷の状況を決して受け入れませんでした」とマルケスは語る。自殺した人々 ----結局のところ殺されたということだが----も多いし、団結してカルタヘナから逃亡した人々もいる。「1500年代後半から1600年代前半には、ベンコス・ビオホという名のアフリカ系レジスタンス指導者が多数の逃亡奴隷を率いてカルタヘナを繰り返し攻撃しました。1619年、ベンコス・ビオホがついにスペイン人に殺されるまでこれは続いたのです」。

サン・バシリオの先祖たちがカルタヘナから比較的近いマスナにパレンケを創ったのはこの時期だった。けれども、スペイン人がすぐに後を追ったため、人々はさらに内陸部へと移動し、結局、現在のボリバル州にあるサン・バシリオに落ち着くこととなったのである。サン・バシリオの村人たちは、自分たちのコミュニティを創ったのはベンコスであると主張しており、中央広場にはベンコスを讃える銅像が建っている。

その後スペイン人たちはパレンケのほとんどを破壊した。サン・バシリオは破戒を免れた数少ないパレンケの一つだった。サン・バシリオは「小さな山脈に囲まれた戦略的な場所に位置していたため、村にやってくる者たちを容易に見つけることができたのです。スペイン人が山を下って村に近づいたとき人々は太鼓で連絡を取り合いました。スペイン人がパレンケに到着したときには、家はあっても黒人はすでに避難していました」とマルケスは言う。スペイン人たちが家に日を放っているあいだ、村人たちは山に隠れていた。スペイン人がいなくなってから再び姿を現わし、家を建て直して生活を続けた。このプロセスが何度も繰り替えされたのち、ついにスペイン人は、サン・バシリオの逃亡奴隷に自由を提案したのだった。

けれども、自由は条件付きのものだった。スペイン人は、サン・バシリオの住民に、カトリック名を採用し、カトリックの戒律を実行し、自分たちの宗教を放棄するよう求めた。マルケスによると、人々はそれに同意したという。「だから、私はエンリケという名なのです。これはアフリカの名前ではなく、スペイン名です。けれども、黒人の文化実践と宗教は空気のように軽やかで触れることができないものなので、それを続けるのは簡単でした。今日でもなお、私たちに押し付けられたものは根付いていません。日曜日にカトリック教会に行っても、誰にも会わないでしょう。パレンケの人々は自由に対する交渉を行う中でいくつかの条件を受け入れましたが、それに従ったことはありません」。

数世紀にわたり、パレンケは実質上孤立した存在だった。コミュニティに入るのを許されたのは黒人だけだった。孤立していたおかげで、宗教や音楽、ダンス、料理など、今日まで続く多くのアフリカ文化を維持することができたのである。パレンケの宗教はアフリカのものを反映しており、カトリックが崇拝する聖人よりも精霊を重視している。パレンケの音楽の中で最も重要な学期は太鼓であり、太鼓とともにダンスと伝統的なアフリカ衣装が結婚といった儀式で一般に使われている。

この小さな村----音楽の才能に特別恵まれた村のように思われる----出身の音楽グループで最もよく知られているのはセクステト・タバレである。その一人、エミリナ・レイエスは、木と泥で作られ、茅葺屋根を葺いた伝統的な小屋に住んでいる。その自宅から、彼女は、自分と別の地元歌手グラシエラ・サルガドの演奏を収録したCDを売っている。6月のある暑い湿った午後、レイエスが演奏した印象的なパレンケの歌のアカペラは、明らかにアフリカの影響を受けた旋律だった。「歌と音楽は、私たちの文化を維持し強化するためにとても重要なのです」とレイエスは言う。

村が孤立していたため、固有の言語も発達することになった。パレンケロとして知られるその言葉はパレンケ固有のもので、5000人の村人の約半数がこれを流暢に話し、残りの人々も理解することができる。この言語が生まれたのは200年前で、西アフリカのコンゴ語の影響が大きいほか、ポルトガル語とスペイン語の影響も受けている。アフリカ系言語の影響は、ングベ(ピーナツ)、チャンガマ(女性)、クミナ(食事)といった単語に見られるほか、クモ・ボ・アタ?(やあ、どう?)といった表現からも明らかである。確実に言語を維持するため、地元の学校は1980年代からパレンケロを教えている。

この数十年、外の世界がパレンケの孤立にますます侵入してきた。村人の多くは依然としてトウモロコシや米、ピーナツ、ユッカ、バナナなどの伝統的作物をコミュニティが所有する700万ヘクタールの土地で育てて生活しているが、他の地で職を得ようとする人々もいる。パレンケ出身者の約2万人がカルタヘナやバランキージャをはじめとするコロンビアのカリブ海岸都市で働いていると考えられる。その多くが定期的にパレンケの家族を訪れ、外の考え方や影響をもたらしている。

外部からの影響増大は、村から5キロのところを通る舗装道路の建設によっても増進されている。これにより、カルタヘナへの旅は、以前ならラバで3日かかったところが、バスで2時間ですむようになっている。さらに、1970年代、コロンビア政府はパレンケに電気を通した。パレンケ生まれのボクサーで、ウェルター級王者に二度輝きコロンビア・ボクシング界の栄勇となったアントニオ・セルバンテス ----キッド・ペンベルの名でも知られる----に敬意を表してのことである。さらに最近では、パレンケにインターネットが引かれ、地元の学校に通う生徒たちと全世界とをつなぐことになった。

パレンケへのアクセスが容易になりパレンケの情報が知られるようになると、国内でも国際的にもパレンケ固有の歴史と文化により多くの関心が寄せられることになった。2005年、国連はパレンケを「人類の口承及び無形遺産の傑作」の一つに指定した。住民の中には、村をもっと有名にして観光客を集め、地元経済の改善と固有文化保存の動機付けにしたいと考える人もいる。村の若者の多くは、音楽とダンスの計画に積極的に参加し、カルタヘナの広場で観光客向けの演奏を定期的に行ってさえいる。けれども、別の住民たちは部外者の侵入に怒りを覚えており、訪問者の見せ物になりたくはないと考えている。

コミュニティが耐えなくてはならなかった別の侵入もある。コロンビアで続く武力紛争である。10年近く前に武装グループがこの地域に侵入したことで、パレンケ周辺の土地に暮らす多くの人々が追放された。「パレンケの住人である我々は、コロンビアで追放の苦しみにあってこなかった唯一のエスニック・グループなのです」とコミュニティの統治評議会委員であるヘルマン・アルトゥロ・エラソは言う。「けれども、2000年頃から、コロンビアの暴力と追放の被害を被るようになりました」。エラソによると、不法武装グループがコミュニティに来たとき、武装グループは「住民、若者、青年、成人たちの社会変革」を押し付けようとしたという。「それが問題をもたらしました」。

村人たちは不法武装グループによって苦しめられただけではない。政府がパレンケに派遣したコロンビア軍の行為も人々を苦しめた。それ以来、村人10人が殺された。「パレンケの住人を殺したのは政府、軍だという人も数多くいます」とマルケスは言う。

現在、パレンケは不法武装グループに苦しめられてはいない。パレンケには警察署も軍基地もない。「抗議したのです。この戦争に関与することを望んだのは私たちではない、私たちは中立の町だ、と」とエラソは説明する。「政府軍とも不法武装グループとも関係を持ちたくはありません。ここではパレンケの法が通用するのです。国の法律ではありません」。

サン・バシリオ・デ・パレンケの人々は400年間にわたる奴隷制と植民地主義、コロンビアで今も続く武力紛争を耐えて生き延びてきただけでなく、驚くほどの文化的一体性を保ってきた。21世紀に入り、コミュニティの指導者たちはパレンケ独自の方向を進みつづけようとしている。「私たちはアメリカの中にアフリカを作り上げるという未来像を追求し続けます。それゆえ、パレンケの文化を維持する戦略を創成しようとしているのです」とマルケスは言う。「現在、私たちには独自の言語があります。独自の聖歌、旗、私生活のあり方があります。特色のある地域を作り、独立州を実現するのが私たちの将来像です。容易な道ではありません。それはわかっていますが、不可能ではないということも知っています」。


■ 辺野古通信

辺野古通信ご覧ください。

■ 『冬の兵士』

岩波書店から、イラク・アフガニスタン侵略から帰還した米兵たちの反戦証言を集めた『冬の兵士』が出ました。2009年の今年は、2004年4月と11月に米軍がファルージャを攻撃し数千人の人々を殺してから5年目にあたります。『ファルージャ2004年4月』とともにお読みいただけると幸いです。

■ 希望の島・東ティモール ―有機農業と私たちの未来―

日時:2009年10月10日(土) (13:30~14:45)
会場:東京・新宿ハーモニックホール関交協ビルB1F
詳しくは、希望の島・東ティモール ―有機農業と私たちの未来―案内をどうぞ。

■ 韓国-女たちの510日の闘い 監督来日記念イベント
  『Weabak:外泊』 関西上映会 & キム・ミレ監督トーク

日時:2009年10月14日(水) 午後6時45分~9時
 (6:30 開場 / 6:45~ 上映開始 8:00~ 監督トーク )
場所:ドーンセンター パフォーマンススペース(1F)
 (大阪市中央区大手前1-3-49 京阪/地下鉄・天満橋駅より徒歩5分)
参加費:500円
益岡賢 2009年9月26日

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