アルト・ナヤでの虐殺

パトリシア・ダール
2004年2月23日
コロンビア・ジャーナル原文


以下の話は、コロンビアのナヤ川地域出身の先住民男性が私に語ったものである。この男性はナサ人。彼の言葉で、ナサは「人間」を意味する。スペイン人たちがやってきてナサの人々をパエスと名付ける前、自分たちを呼ぶ名前はナサであった---今も、ナサである。スペイン人がやってきたときが、「最初の絶滅」時代だったと、その先住民男性は語る。今回、「第二の絶滅」時代に、私も、スペイン人たちと同様、彼を別の名前で呼ぶことにした。とはいえ、理由は異なる。彼はふるさとを暴力により追放され、避難しており、自分の話を他人に告げてなおかつ生きていようとするならば、匿名でなくてはならない。私は彼を、友人の名を取ってフアンと呼ぶことにした。フアンは小柄で筋肉質であり、頬骨は広がり大きく、その上にとても特徴的な目を持っている。彼の目と底に宿る無限の人間性が、私に強い印象を与えた。

隣接するバジェ・デル・カウカ州からナヤ川で隔てられているコロンビア南西のカウカ州には、コロンビア全体で最も多くの先住民人口を擁する。スペイン人征服者がナサの土地に侵入したとき、村人たちは、外国人襲撃者たちの捕虜となるよりも、集団自殺を選んだ。人々は、抗議のために自らを生き埋めとした。ゆっくりと徐々に腐って土に混ざる方が、スペイン人たちが企てたどんな罰よりも好ましかったのである。生き延びた人々は谷の土地を放棄し、アンデスの高地に避難した。アルト・ナヤと呼ばれる地帯である。

ナサの人々が伝統的に育てていたのはコカ、ナサの言葉で言うとエシュである。スタミナを保ち、薬用として使われていた。エシュという言葉は口からすぐに逃げ出さず、口にとどまり、それから消えていく。エシュを利用するために、ナサはマムベアル、すなわち「葉を噛ん」だ。先住民にとって、マムベアルは、精神と物質の世界について考え思考するために必要であった。それは、母なる地球とその子供たちの均衡を見つけだす行為であった。

25年以上前、自給自足のコカ栽培が「生産物」となったことは、当時生まれつつあった貿易の転回点であったとともに、きたるべき苦悩の前触れでもあった。当時、コロンビア革命軍(FARC)の第6前線のゲリラが、2〜3カ月にわたってこの地域にキャンプを設営していた。ゲリラがいなくなってから2週間して、軍がやってきた。軍は農民と先住民に嫌がらせと脅迫の作戦を行なった。先住民は当時1000人程しかいなかった。

1990年代前半、ペルーとボリビアのコカ栽培はコロンビア南部に移動していた。これによりコカという新たな作物を栽培するために、多くの人々がこの地域に移住した。フアンによると「FARCとELN[民族解放軍]の一部が、政府のために諜報活動をしていると言って、先住民と農民を殺しはじめた」。

また、この頃、1983年に水力発電増強のために建設されたサルバヒナ・ダムが環境と経済とを大規模に変えていた。ダムは環境を劇的に変え、まともな作物を栽培するには土が冷たすぎることとなった。ダムが引き起こしたダメージの大きさを知った人々は、抗議のために、サンタンデルからカウカの首都ポパヤンまで行進した。ナサは、ナヤ川のほかの民族とともに、ダムへの抗議者と同盟を組んだ。ナサの人々は、政府が合法作物を大規模にかつ費用対効果高く運ぶための道を建設するならばコカ栽培を諦めると提案した。自分たちの身に降りかかる暴力が不法作物と関係していると理解していた人々は、不法ビジネスから身を引きたがったのである。

政府の代表カルロス・オッサ・エスコバルは段階的な道路建設を提案した。「段階」は、毎年たったの5キロというものであった。それでも抗議者たちは政府との合意書に署名したが、これは何の結果ももたらさなかった。この地域の問題は、1989年、コーヒー市場が国際的な操作の被害を被ったために悪化した。コーヒー価格は40%下落し、地域で活発だったコーヒー産業は衰えた。絶望状態の中、人々はヘロインに使うケシの栽培をはじめた。

1993年、飛行機が山頂周辺にやってきて、畑に白い物質をばらまいたとき、人々はそれについて何も知らなかった。そのすぐあとで、「馬やろば、豚や鶏が病気になり死んだ。魚は水の中でも干涸らびた。コーンも豆もえんどうも芋も、実を結ばず、茎と葉を出すだけだった。現地の果物ルロは緑に健康そうに育ったが、それ以来、白いコケか茸をつけるだけとなった。そして」とフアンは胸に手を当てそれを喉もとにあげながら言った。「子供たちは、何かが体の中で爆発でもしたように、咳き込みはじめた」。28人の子供たちが死んだ。

検察局と保健省のカウカ局長がやってきた。検事とともに科学捜査医もやってきた。死んだ子供全員の遺体が研究室に移された。子供たちが倒れてから20日後、コミュニティのメンバーたちが調査結果を聞きに出かけた。保健省の局長は、調査結果を公表した。その2週間後、別の地域出身の一人の男性が公開された結果について疑問を持ち始めたところ、保健省の職員がやってきて、「家族はいるか?家族がいるならば、静かにしていたほうがよい。家に帰った方が良い」と言った。

死亡した子供たちの家族をはじめとする事態を憂慮したコミュニティの人々は、自ら調査を開始した。一人の弁護士が支援に訪れた。彼女はビデオを撮影したが、当局職員は、薬剤散布が子供の死の原因であることをビデオは示していないとしてそのビデオを却下した。人々は、検死解剖を行うことを求められ、薬剤散布の正確な日付を提出するよう求められ、子供たちの法的な登記簿を提出するよう要求された。けれども、子供たちは政府が見捨てた地域で生まれたのであり、出生登記に従う慣例はなかった。

フアンによると、「ある指導者が土地の法的所有権を求めるという考えを思いついた」のはこのときである。この指導者はエリアス・トロチェス、アルト・ナヤの州知事だった。彼の計画は、中央政府及び地域に60万エーカの所有権を主張するカウカ大学の反対を受けた。エリアス・トロチェスは、それから、虐殺が迫っているという噂を耳にするようになった。2000年12月11日、トロチェスはこの噂を報告するためにコロンビアの首都ボゴタを訪れた。そこから戻ったとき、準軍組織が彼に自分たちの集会に出るよう命令した。彼が準軍組織と共謀していると考えたゲリラが、彼を暗殺した。

ナヤではゲリラ勢力が圧倒的だったので、住民達は、ほかの武装グループが地域に入ってくるとは考えなかった。けれども、2001年の4月、「我々は過信していたことを悟った」とフアンは言う。人々が村々を訊ねて物を買う習慣のある聖週のとき、準軍組織が村の唯一の入り口を風さしていることに気が付いた。その日、準軍組織は現地の人々から金や宝石、コカを盗み取り、地域を出た人々が戻れないようにした。

フアンが準軍組織に始めて出会ったのはその火曜日だった。ゲリラのような服装をしていたので、フアンは彼らがゲリラだと考え、彼らが「ゲリラはどこにいる」と聞いたとき混乱した。さらに60名の準軍組織兵士が地域に侵入してきた。その一人は次のように宣言した:「我々はカリマ前線である。みんなを守るためにここにきたが、軍かゲリラに関係しているものは皆殺しにする」。

ELNはその当時、近くの教会で礼拝する人たちを拉致し、史上最大の大量誘拐を行なっているところであった。それについて、準軍組織は、村人たちがゲリラを支援しているとして避難していた。準軍組織は道路封鎖を設け、身分証明書を示すよう要求した。それから、ゲリラを支援している疑いがある人々のリストと証明書との名前を照合した。

「彼らは私を通し、私と一緒にいたほとんどの人も道路封鎖を通った」とフアンは回想する。彼は村へと歩き続けた。「町はずれに、パティオ・ボニト[美しい中庭]という名のカフェがあった。その前に、私は少年を認めた。17歳くらいだった。裸にされ、首を棒にくくりつけられていた。一人の準軍組織兵士が、少年の首にナイフをあてて動かし、「お前を最初に殺そう」と言っていた。少年は泣いていた。それから彼は私を見た。「フアン、友達だろう。殺させないでくれ。たのむから、殺されないでくれ」。

「私は、準軍組織兵士に、「この少年は潔白だ。精神障害があるんだ。武器を手にしていたこともないし、町を出たこともない。逃げ出したとすると、単に、あなたが怖かったからだろう」」。フアンは準軍組織司令官のところに連れてイカレタ。司令官の顔には斜めの大きな傷跡があった。傷の付いた顔が口を開いた:「この少年はゲリラだ。彼は死ぬことになる。お前もまた、死ぬことになる」。

けれども、フアンは殺されなかった。司令官のところから解放されたあと、彼は狭い小道を歩いていた。「そのとき別の準軍組織兵士が近づいてきた。彼が私を殺すために送り込まれたことは確かだった」とフアンは回想する。この兵士は若いアフリカ系コロンビア人で、地元の人間だった。フアンは彼に対峙した:「なぜこれに関与しているんだ?家族のことを考えるべきだろう。同じことが、家族に起きるかも知れないんだ」。彼は答えた。「母がお腹をすかせている。今、私には仕事がある。準軍組織は私に高い給料を払ってくれる」と。

さらに行ったところに、準軍組織の検問が設けられていた。準軍組織は、一人の若い男の子と一人の女性をバスから降ろし、縛り付けていた。人々が止めるよう叫んだとき、ある準軍組織兵士が叫んだ。「ここでは誰も何の権利も持たない!こいつらの母親が声をあげるなら、母親も殺すぞ!」。フアンとほかの人々が検問を通過した後で、彼らは、検問の後ろに取り残された家族の多くが殺されたと知った。「カリマ前線は我々を守ってくれるのではなく、邪悪だということを知った」とフアンは語る。

絶望の中、1時間しか離れていないところにあるコロンビア軍第三旅団の基地に行った者たちもいた。彼らは準軍組織がまさに今アルト・ナヤで虐殺を行なっていると訴えたが、兵士たちは「それについては既に聞いたが、それは嘘だ。何の命令も受けていない」と答えた。

誰も、村に戻る勇気はなかった。「人々は山の上へ上へとよじ登っていった。子供を連れていた人たちもいたが、食べ物も毛布もなかった。妊娠していた女性は流産した」とフアンは語る。「赤十字に援助を求めた。誰もが、親類の安否を知ろうとやっきになっていた。私も弟のことを心配していたので、彼を見つけるために遺体を発掘する委員会に参加した」。この委員会は検察局と、コミュニティの唯一の代表であるフアンとから構成された。人々は外部の当局に猜疑的になり、お互いに信じなくなったとフアンは言う。「我々を欺いた者がいるのだ」と。

委員会は捜索のためにヘリコプターを使った。「死体が谷底に投げ捨てられ、洋服が近くの灌木に散らばっているのが見えた。身分証明書が至る所に散らばっていた。着陸してから、準軍組織がドラッグを使っていたことを示す証拠を手に入れた。対人地雷が設置されているのではないかと恐れたので、安全かどうか確認してゆっくりゆっくり歩いた」。カフェ・ボニトでは、「6人の死体があった:オーナーと3人の職員、2人の客---ダニエル・スアレスとその妻ブランカである。ブランカは性的攻撃を受けた形跡があった。撃たれている犠牲者も、刺し殺されている犠牲者もいた。一人はばらばらに切り刻まれ、焼かれていた」とフアンは語る。

検事は決断を下した。捜索を続けるには、状況は危険すぎる。友人や親族の遺体は、ナヤの人々だけで捜し出さねばならないこととなった。5時間にわたり、人々は一帯を探し回った。フアンは知人の遺体を見つけた。「拷問を受けていた遺体の多くは首を切り取られていた。一人の遺体には手がなかった。喉を切り開かれ、そこから舌を引きずり出された遺体もあった。コロンビアでは「ラ・コルバタ」[ネクタイ]と呼ばれる拷問技術である。ホルヘ・エスタバン・レガドの遺体は、見つけたとき、動物に食べられていた。彼の遺体はほとんど残っていなかったので、私は彼を片手で拾い上げた。アレクサンデル・ケジマは動物や泥によって粉々になっていたので、いくつかの骨を拾うことができただけだった。ほかの死者たちと一緒に弔うために」。

目撃者によると、準軍組織は先住民の行政官カイェタノ・クルスを拘束し、チェーンソーで体を半分に切断したという。17歳のグラディス・イピアの頭と手も、やはりチェーンソーで切断された。準軍組織兵士の一人は、ある犠牲者の首を一週間、リュックに入れて運んでいたという。この準軍組織の襲撃で、140人が命を失ったとナヤの住人は考えている。けれども、政府は、23人の死しか認定していない。さらに、6000人が虐殺の際、地域を逃げ出した。そのうち5500人は安全の保障もないまま戻ってきたが、540人は今も追放されたままである。

「あの規模の虐殺が繰り返されることはなかった」とフアンは言う。「そのかわり、今は、あちこちで暗殺が行われている。人々は混乱しており、誰もが話すことを恐れている」と彼は説明する。「もう一つダムを建設して、電気をそこから売ろうという計画がある。水道も私営化し始めている。いくつかの町の人々に水を供給する場所があったが、今、人々はそれを使えなくなっている。多国籍企業の進出がますます強く感じられるようになっている。カウカ大学と宗教団体のいくつかは、土地所有権を主張しているが、大学の背後に多国籍企業がいると考えている者は多い。事態ははっきりせず、私たちは混乱している。私たちには支援が必要だが、どの道を歩めばよいか、わからない」。

1991年憲法は、コロンビアを主権を有する多元的な国と認定している。けれども、フアンは、政府は現在、先住民とアフリカ系コロンビア人、農民の権利は異なったものであり、それぞれに別の法令を適用しようと試みている。「私たち、これらのコミュニティに属する人々は、その考えを批判する。これは私たちを分断しようとするものだ。皆が平和的に生きてきた中で」とフアンははっきり述べる。「語られていない多くの真実がある。それを語り始めるときなのだ。沈黙の共犯でいつづけることはできない。たった一つの真実を伝えることで、多くの命を救うことができるかも知れない」。

パトリシア・ダールはコロンビア・サポート・ネットワークのニューヨーク支部メンバー。


平然と一方的に有毒物質を散布することは、規模や性質は異なるものの、イラクにおける劣化ウラン兵器の利用を思い起こさせます。人体や環境への害を無視する厚顔さも。準軍組織による虐殺のあと、多国籍企業が進出する。「イラク復興は私営化の隠れ蓑」でナオミ・クラインが明らかにした暴力と私営化の関係が、ここでもはっきりと観察されています。

日本国内でも、虚言と強弁にもとづくイラクへの自衛隊派遣と連動して、市民的自由への様々な抑圧が強まっています。反戦ビラ配布を理由とした不当逮捕。扇情的な拝外主義を煽る政治家。コロンビアは暴力的だ、と言うことはできるかも知れませんが、日本は平和だ、と言うことはできないでしょう。

ホルヘ・フランコ 『ロサリオの鋏』(河出書房新社、田村さと子訳、1600円)という、メデジンを舞台にした小説があります。暗くしたスクリーンにスポットをあてて焦点化し光景を映し出すような叙述の小説。G・ガルシア=マルケスが「私の文学の灯を託したい」と語った気鋭のコロンビア人小説家のベストセラー小説の翻訳です。別の目線でコロンビアを感じる可能性に触れるために、よろしければ読んでみて下さい。
益岡賢 2004年3月17日

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