アラウカで誘拐されて

スコット・ダルトン
2004年1月26日
コロンビア・ジャーナル原文


ルス・モリスと私がトラブルに巻き込まれたのは、ロサンゼルス・タイムズ紙との契約で仕事をしていた1年前のことだった。2003年1月23日、アラウカ州のサラベナとタメを結ぶ基幹高速道路を旅していたとき、ゲリラの検問に出くわした。武装したものたちの一団が車に近づいてきて、窓から親密そうに握手し、自分たちは「FARCの第45前線とELNのドミンゴ・ラティン戦線である。車から降りて欲しい」と言った。

それから、彼らは、司令官が我々に会いたがっていると告げ、30分のドライブの後、4X4ピックアップ・トラックのそばに立つ重武装した数人のELNゲリラのところで車を止めた。司令官は木陰に立っていた。我々は記者であると自己紹介した。彼は聞いてきた:「貴方たちがゲリラに誘拐されたとき、誰が面倒を見ることになっているのか?」 我々は驚いた。彼がまじめに言っているのかどうか確かめるのに少し時間がかかった。ルスは手帳を取り出して、司令官に一連の質問をし始めた。司令官は、伝統的なコロンビア・ゲリラのレトリックを使って答えていた。彼が質問に答えていることから、私は、誘拐に関する彼の言葉はジョークだと確信した。

ルスがガムフットという戦闘名で知られるELN司令官との30分にわたるインタビューを終えるとすぐに、我々は、丁寧に、彼が我々を解放する許可を得る間、待つように求められた。ガムフットはゲリラの側近たちとその場を立ち去り、我々はタクシー運転手および2名のゲリラ守衛とともにその場に残された。

1時間後、一台のジープ・チェロキーが止まった。二人の怒った男が車から降りてきた。二人とも文民の服装で、AK−47を手にしていた。彼らは、我々を呼びつける前に、ゲリラ守衛の一人と手短に話をした。二人のうち一人は、自分のことをジェロニモと紹介し、FARC第45前線の政治司令官であると言った。彼は、我々に、「貴方たちはFARCの第45前線に拘束された」と告げた。我々二人は、信じられない声で「そんなことができるわけはない。我々は記者だ。記者を拘束するなんて」と述べた。「何でダメなの?」彼は聞いた。ルスは、それに対して「海外の記者を誘拐したら、影響が出る」と言った。彼は笑って尋ねた:「どんな影響?」と。

状況はあまり芳しくなかった。ELNに誘拐されることはそれとして、FARCは、最上の状況のもとでさえ、最も友好的な人々とは言い難い。そのとき、ELNの司令官が再び姿を現した。ガムフットはFARC司令官と二人きりで話をした。私はほっとした。ガムフットがFARC司令官に、我々は記者であり、我々が立ち去ることを証人したと思ったのである。短い会話ののち、二名のFARCゲリラは自分たちの車に乗って立ち去った。ガムフットはそれから我々の所にやってきて、とても冷静にかつリラックスして言った:「私は貴方たちを拘束するよう命じられた」。

彼らは我々を、アラウカの裏道を何十年も走ってきたような古いトラックの前席に座らせた。でこぼこ道を30分も揺られはねられた後、トラックは止まった。そのときは既に暗くなっており、ガソリンが切れたのである。ゲリラが「ここからは歩くんだ」と言ったとき、我々は「OK」と答えた。彼らは銃を持っていたのである。会話を制限し抗議を抑えつけるために銃は強力である。

かくして我々は歩いた。30分ほど暗い田舎を歩いて、小さな家にたどり着いた。そこで我々は夕食を取り、寝場所を示された。35歳の母親っぽい女性ゲリラが言った:「心配することはない。我々に拘束されて幸運だった。FARCが拘束していたら、貴方たちを殺していたかも知れない。FARCは前にもそうしたことがある。我々は貴方たちの面倒はきちんと見る。食べたいものや飲みたいものがあったら、言って欲しい。それから、そう、ところで、夜通しここには守衛が見張っているから、逃げないようにして欲しい。逃げようとしたら我々は撃たなくてはならない」。

翌朝、ガムフットが戻ってきた:「悪いニュースがある」と彼は言った。「貴方たちがELNに拘束されたのは政治的理由による。我々は、貴方たちを山中の安全な場所に移さなくてはならない」。1時間ほど歩いた後、我々は木の小屋に到着した。歩いている間は重武装したゲリラが我々に随行していたが、小屋についてから、我々は、文民の服装をしてピストルを携行した人々に引き渡された。これらの人々は、正規ゲリラとしての任務を終えて今はある種の予備任務についているELNの民兵たちであることがわかった。そのときの彼らの任務は、誘拐を扱うことだった。

ガムフットは、我々の釈放にあたっての条件の一つは、コロンビア軍が最近この地方で開始した攻撃を停止することであると述べた。約4000人からなる軍兵士が、我々がアラウカに到着する数日前からこの地域に移動していたのである。ELNは我々にラジオに出て、ゲリラが我々を釈放するために軍に攻撃を止めるよう呼びかけることを求めた。ルスと私はこの要求について話し合い、それはできないことで合意した。新聞が金を出したり、ゲリラが我々を軍の作戦を止めさせたり変えさせたりするために使うことができるならば、コロンビアではすべてのジャーナリストが軍事標的になってしまうことになる。これは受け入れがたかった。幸い、彼らは軍に要求を出すようにという求めをごり押ししなかった。

我々の護衛をしているゲリラは、我々を丁寧に扱うよう命令を受けていた。我々は好きなように日中過ごすことができた。とはいえ、逃げ出すという選択肢はなかったが。持ってきた本を読んだり、川辺に出て過ごしたりして日々が過ぎていった。川は我々の必要の多くを満たしてくれた:水浴や飲み水、洗濯、そして我々が置かれた状況という現実からの逃避場所。夜には、ろうそくが燃え尽きるまでジンラミーをして時間をつぶし、それから寝た。

11日の間に我々はキャンプを6回移動した。夜、しばしばヘリが上空を巡回している音を耳にした。通常、そうしたことが起きた後、我々は、さらに山の上へと移動したのである。奥へ行けば行くほど、釈放から遠ざかるように思われたため、気持ちが沈んだ。ゲリラたちが適当な場所を見つけだすまで、我々は河床の滑りやすい石の上を歩いた。ゲリラたちは山刀を取り出して我々のために空間を作り、料理のためのスペースと自分たちの寝場所を作った。彼らは我々の寝床を準備した。彼らがキャンプからキャンプへと持ち運んでいるもので、地面から30センチ程の高さの鋸台2台からなっていた。その上に4つの細長い板を乗せ、そこに折り畳み式のマットを置いて、蚊帳と防水シートをかぶせた。蚊帳のおかげで、密林の虫たちからの攻撃を一時的に逃れることができた。

私はゲリラの一人に、コロンビアのジャングルでエコ・ツアーを企画すればどうかと言おうとした。ペルーやエクアドル、ボリビアといった近隣諸国では、ジャングルで1週間過ごすために観光客は大金を支払っていると説明した。そうしたエコ・ツアーは自発的になされるべきで、拳銃の携行は禁止されるべきであるとも。そして観光客が帰りたいときには、自由に帰ってよいようにすべきとも。私のユーモアも考えも、ゲリラには届かなかったようである。

ルスも私も防水シートの上を流れる雨の音を寝床の中で聞いていたある朝、ガムフットがやってきて、我々の釈放について無線で司令官と話をするよう言った。その司令官は翌日我々は釈放される予定であると述べた。翌朝10時頃、ゲリラの一団がやってきて、我々は荷物をまとめ、山を下り始めた。この何日かに通ってきたすべての場所を通過した。

我々は、山裾の開けた場所でガムフットに会った。落胆したことに、彼は、我々は釈放されないと述べた。地域は「熱すぎ」るため、我々を釈放するのは危険すぎる、と。我々は放心して山を再び上り、それから4日間、ガムフットからの連絡はなかった。守衛の民兵たちが我々を慰めようと言葉をかけてきたのはそのときだった。一人は、心配すべきではないと言った:「経験はすべて良いものだ。悪いものでさえ・・・」。

それから、ある朝、ガムフットがやってきて、荷物をまとめるよう告げた。我々は釈放されることになったと。前と同じ道を我々は再び通った。2時間程歩いた後、ガムフットは我々を、残りの道を随行する予定の別の司令官に引き渡した。ガムフットは、面倒をかけたことについてルスに謝罪した。私には、ただ「さよなら、ご老体」と言って手を差し出しただけだった。そのときどうしようか迷った。我々を捕虜としていたこの人物と仲良く振舞う気分ではなかったが、結局、握手をしてさよならを言った。

我々は4ドアSUV車の後部座席に入れられ、たくさんの小さな町にとまりながら2時間進んだ。人々が車に近寄ってきて、司令官に話しかけ、頼み事をしたり情報を交換したりした。政府にとっては難しい仕事が待っているように思われた。これらの地域をゲリラの制圧から奪い取るためには、ここに住んでいる人々の信頼を勝ち得なくてはならない---警察や軍と接したこともなく、政府を全く信頼しておらず、いつもゲリラに助けを求めてきた人々の信頼を。

ようやく、我々は日差しの照りつけるサバンナの木陰で止まった。30分程待ってから、藁葺きの小屋に連れていかれ、ELNの東部戦線指導者であるパブロ司令官に紹介された。ELNと武装闘争の歴史について我々に語った後、話題は我々の釈放へと移った。我々は、直ちに国際赤十字に我々を引き渡すよう求めた。また、司令官に対して、丁寧に、プロパガンダのために利用されたくはないこと、報道陣にさらされたくはないことを伝えた。彼は、ELNの最高指導者の一人アントニオ・ガルシア司令官と話をしなくてはならないが、その際我々の意向を伝えると述べた。翌朝、答えを持ち帰ってくると。

立ち去る前、彼は何か欲しいものはないかと尋ねた。この機会を無駄にはしないと決めていた私は、「司令官」、「我々は11日間山中で過ごし、その間、全くアルコールを飲まなかった。私はビール、冷たいビールをいただきたい」と言った。彼は5万ペソ---約20ドル---の厚い札束をポケットから取り出して、手下を店に走らせた。数分後、私は冷えたビールを手提げ一杯受け取った。とても美味しかった。

我々はその夜を農家で過ごした。翌朝、パブロ司令官は夜明けにやってきた。写真を撮っていいか私は司令官に聞いた。拘束されていた間、毎日、写真を撮る許可を求めたが、いつも答えは「ダメ」だった。このときには、ゲリラの写真を撮ることが許され、ルスはパブロ司令官にインタビューした。インタビューを終えたあと、ルスは私の所にやってきて、赤十字が数時間のうちに到着する予定であると述べた。

ELNとの別れは淡々としていた。パブロ司令官は我々を赤十字の人々に手渡す公式書類に署名し、我々は車の後部座席に乗った。1時間半車に乗ってサラベナ空港に到着した私たちは、ボゴタ行きの飛行機に乗った。

スコット・ダルトンは4年にわたってコロンビアで活動していたフォトジャーナリスト。


「ジャーナリストを誘拐するなんて」といった記者たちの言葉がちょっと印象的です。

「イラク復興支援」を偽る侵略占領支援について、こんな情報がありました。このページは、更新頻度も高く、タイムリーで参考になります。
益岡賢 2004年2月4日

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