エル・モデロという地獄

フィニアン・マグラス
2003年12月8日
コロンビア・ジャーナル原文


我々は、訪問許可の確認がなされるのを待つあいだ、刑務所の向かいにあるカフェに座っていた。エル・モデロはボゴタの非常に貧しい地域にあり、我々のまわりにいた人々は、コロンビアという分断された危険な国で周辺化された人々であった。地方部から何千人もの人が強制追放されてこの地域に流入した。800万人の人口を擁するボゴタは過密状態にあり、コロンビアは石油資源を豊富に有する国であるにもかかわらず、失業率は高い。追放された人々は、路上で物を売ったり物乞いをして生活の糧を得ている。そうした状況にもかかわらず、いったん刑務所に入ると、貧困と窮乏に満ちた路上から数メートルしか離れていないのに、守衛たちは一財産分もしそうな武器で武装して我々を出迎えた。

持ち物検査を受けて指紋押捺したのち、我々はセキュリテイ・チェックを通って刑務所の内部に入った。鈍い、灰色の、陰気な場所であり、緊張が感じられた。有罪判決を受けた囚人や拘留中の人々が、鉄格子越しに我々を無表情で見つめていた。我々がアイルランド人たちが拘束されている建物、つまり檻、に行きついたとき、3名の顔が我々を出迎えた。「彼らを帰国させよ」キャンペーンのポスターでお馴染みの3人である。彼らは、我々が来たことでとても高揚していた。我々を出迎えるためにシャツとネクタイを身につけたマーティン・マコーリーと冗談を言い交わした。3人とも、自分たちの状況よりも我々の安全について心配しているようだった。

そのとき、私は、旅行を決意したことが正しかったと知った。これについては、私がオブザーバとしてコロンビアに行くことを、あらゆる議論もどきを使いまた政治的な得点稼ぎのために止めようとした、メディアやアイルランド下院の人々について考えていた。我々がコロンビアの牢獄にいる3人に提供している支援を彼らは受ける資格がある。人々の心配、同じアイルランド人市民の心配、彼らの安全と彼らが公平な裁判を受けるよう憂慮している人々(コロンビア・スリーの裁判を参照)。

刑務所の状況は酷かった。3人は、定員14人の棟に40人の他の囚人とともにいた。そのほとんどは、FARCゲリラ運動に所属している囚人たちだった。その上には、右派準軍組織が占める層があり、昨年、FARCの囚人に武装攻撃を仕掛けたばかりだった。私が立っていたのは、囚人が撃たれ殺されたその地点であった。

我々は白いプラスチック製の椅子に座り(数カ月前まで3人にはほとんど家具が無く、床で寝なければならなかった)、30分ほど話をした。ラジオが背景で流れていた。他の囚人たちは、アイルランドから来た異邦人に向かってうなずき、我々に暖かく微笑んだ。我々はコーヒーを手渡された。囚人たち座って話をしていた。昼食の準備を始めた者たちもいた。我々のために特別に豆と芋を料理してくれた。囚人たちは待つ以外他に何もすることがなかったのだ。私は10年間、一度も裁判にかけられないまま拘留されていたある男性にあった。私は、元ベイルートの捕虜ブライアン・キーナンの言葉を思い起こした:「人権に焦点を当てることは、犠牲者がこれ以上顔のない状態に置かれないことを確実にする。犠牲者には名前と住所と家族と親類がいて、自ら自由で教育を受け情け深いと称する人々の助けを待っている。そして、みなさん全員が、そうであることを望む」。

話しているとき、囚人の一人が我々が立っていたマンホールの蓋を指さし、それが、準軍組織が犠牲者の一部を棄てたところだと説明した。まず、死体を切り刻んで。その事件で、32人の囚人が殺された。その後に起きた事件でも、10人が志望した。そのほとんどは、3000人を擁する右派準軍組織の囚人の手により殺された者である。

コロンビアの弁護士や労働組合員、学生の代表、農業労働者たち、アムネスティ・インターナショナルなどの人権団体は、世界に向けて、コロンビア内戦の真実を伝えようとしてきたが、ほとんどの政府が目を背けていた。1986年以来、3800人の労働組合員が暗殺された。刑務所での死だけでなく、外の世界ではさらに恐ろしい出来事が起きてきた。

FARC(コロンビア革命軍)の刑務所の司令官フリオ・セルパは我々に、彼の運動がコロンビアの政治に参加しようとしたとき、立候補者と党員のうち4000人が政府軍及びその代理で行動する右派準軍組織に暗殺されたと語った。それにもかかわらず、そしてその後戦争が続いている中で、それでも包括的対話と和平プロセスの展開を望むという。彼は、別の環境にいたなら、上級公務員か銀行の支配人あるいはアイルランド議会議員にでもなっていたであろう人物に思われた。けれどもここはコロンビアで、真ん中よりも左にいる者は誰もが「過激派」とされ、死の部隊の「合法的な標的」とされる。

時間はすぐに過ぎ去り、我々は立ち去らねばならなくなった。これほどの危険の中に彼らをあとに残す悲しみの中、さよならを言った。彼らのほほえみは、我々のために作ってくれたのではないかと思った。我々は立ち去り、彼らは刑務所に残る。右派準軍組織の棟を神経質に通り過ぎた。白状するが、神経がすり減る経験だった。一刻も早く出口にたどり着きたかった。けれども、我々はトラックに乗ったまま止められた。刑務所のガードがポール・ヒル(オブザーバの一人でギルドフォード・フォー[1974年ギルドフォードのパブ爆破実行犯とされたが1989年に無罪であることが明らかになり無罪確定した4人]の一人)に、アイルランド人がもう一人拘留されたと告げたのだった。

ポールは彼に会う決意だった。我々は最高治安棟から小犯罪向けの留置場に連れて行かれた。小さな牢獄の中をのぞき込んだ。50人近い囚人で一杯だった。一人のヨーロッパ人がすぐに目に付いた。彼は前に出てきて、ポールがアイルランド大使館に連絡して欲しいかと彼に聞いた。けれども、彼はベルギーから来たと述べたので、ポールはできる限りのことを約束すると答えた。立ち去りながら、ゆっくりと、50人の絶望的な人々の目線を振り返った。ぼろぼろの服装で十分な栄養がとれていない囚人たち。エル・モデロの地獄から離れたとき、ほっとした。

フィニアン・マグラスはアイルランド議会の議員で、FARCゲリラを訓練しているとされている3人のアイルランド人の裁判の国際オブザーバとして、コロンビアのボゴタを訪問した。この記事は、オブザーバの最終報告書「Colombia: Judge for Yourself」からの抜粋。コロンビア・スリーについての詳細は「Bring Them Home」を参照して欲しい。


「対麻薬戦争」から「対テロ戦争」へ。レトリックを変えて人権侵害が続けられます。「対麻薬戦争」と称していたときには、米国は、議会の人権関係制約を逃れて軍事援助を行うために、人権侵害や麻薬に手を染めていないコロンビア軍部隊を捜し出すのに苦労していました。そのためにわざわざ新しい部隊をコロンビアに創設したほどです。また、アメリカ合州国内の米軍基地に出入りするコロンビア軍の機から大量の麻薬が見つかったこともあります。

「対テロ戦争」という名目のもとでの最近の動きは、準軍組織・軍によるFARCやELNゲリラへの攻撃とそれに対する抵抗という暴力に典型的に現されていますが、そうした中で、多くの労働組合員や学生、人権活動家が、とりわけ準軍組織の標的とされ殺されて行きます。「対テロ戦争」という名のテロ支援。インドネシアで民主化や人権の分野で活動する多くのNGOが、共同で、米国議会にインドネシア軍への支援再開を阻止するよう手紙を書いたことがありました。その手紙には、「テロリストの定義に従うならば、インドネシア軍こそがテロリスト」と明記されていました。

そのインドネシア軍というテロリストは、アチェを封鎖し、ゲリラを掃討すると称して、そのための手段として民間人を狩り出し家々から追放しています。パレスチナでイスラエルが、そして今、イラクで米国がやっているのと同じ、ジュネーブ条約に完全に違反した、「集団的懲罰」(関係ない民間人をたまたまその社会・その場所にいたからということで投獄したり閉じこめたり移動を制限したり尋問したり・・・)が、まかり通っています。

サダム・フセインが逮捕されたとのニュースが駆けめぐりました。あるアラブ人ジャーナリストは、フセイン独裁の仲間だと思われる足枷がなくなったので、これから抵抗運動(日本では意図的に誤って「テロ」とか「暴力」とか呼ばれていますが、不法にイラクを占領している米軍をはじめとする軍隊・武装組織に対する攻撃である限り、これは抵抗運動です)がますます盛んになるだろう、と言っていました。それは一つの論理的な可能性です。

戦地イラクへの自衛隊派兵に反対する緊急署名が始まっています。
益岡賢 2003年12月16日

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