ベトイェスの虐殺

エリック・フィチトル
2003年8月4日
コロンビア・ジャーナル原文


毎日のようにコロンビア地方部のコミュニティが経験している不安は、ボトイェスの先住民居住区で最近起きた出来事に最も典型的に示されている。ボトイェスは、東部アラウカ州の南西角にあるタメ近くにあり、小さな村がいくつも集まって構成されている。今年2003年5月上旬、ボトイェスの先住民グアヒボのコミュニティを、ある武装集団が襲撃した。グアヒボの少女3人---11歳、12歳、15歳---が襲撃者に強姦された。16歳の妊娠していた女性オマイラ・フェルナンデスも強姦され、それから襲撃者たちは彼女の子宮を切り開いて胎児を取り出し、胎児を山刀で切り裂いてから、彼女の遺体と胎児とを川に棄てたと報じられている。同じ日に、3人の先住民男性が撃たれて失踪した。残ったグアヒボの約327人が、居住区を逃げ出し、アラウカ州の北西角にある都市サラベナに向かった。サラベナに到着したグアヒボの人々は、廃棄された学校に居を定め、教会を占拠して自分たちの強制追放に抗議した。

グアヒボの人々を攻撃し、拷問し、殺し、強制移送したのは誰であろうか?ほとんど全ての情報は、コロンビア軍大18旅団とそのナボス・パルド大隊の兵士たちが、恐らく準軍組織と共同でこれを行なったことを示している。5月14日、コロンビア全国先住民機構(ONIC)に参加しているアラウカ地方の先住民組織であるアラウカ地方先住民評議会(CRIA)は、ベトイェス虐殺の生存者の多くが、襲撃者は、準軍組織の腕章を付けた軍の兵士であると確認したと報じた。アラウカの人権団体であるジョエル・シエラ委員会は、いくつもの地域NGOが署名した5月14日の記者会見で、同じ主張を行なっている。

6月4日の発表で、アムネスティ・インターナショナル(AI)は、4月後半のゲリラとの衝突の際、ベトイェス先住民居住区を構成するいくつもの村に対して、軍のヘリコプターが、地上掃射と爆撃を行なったと報じている。AIの情報源によると、ヘリが軍の兵士とともに準軍組織の戦闘員も地域に運んできたという。そして5月1日、AIによれば、第18旅団の兵士たちがコロンビア自警軍連合(AUC)とカサナレ自警軍(ACC)の腕章を付けてベトイェスの村々に入り込んだ。ACCは、政府とAUCの交渉に参加を拒んでAUCから離脱したことになっている準軍組織である。2003年1月のベトイェスにおける武装集団による同様の襲撃の際、目撃者たちは、ある襲撃者が付けていたAUCの腕章がずれ落ちて、下にある制服に印刷されていた「ナボス・パルド大隊」という文字が見えたと述べている。

襲撃が準軍組織の独自行動により行われたとう証拠はほとんど得られていない。サラベナからの報道で、ロイター通信の特派員ジェイソン・ウェッブは5月のベトイェス襲撃の生存者とインタビューしているが、この生存者は、次のように述べている。「準軍組織は、我々に、町を出ていかないならば、我々をひざまづかせ、虐殺し、強姦すると言った」。けれども、軍がカモフラージュのためにAUCの腕章を使っているとする報告が多数あることを考えると、この目撃者の話は、襲撃者が実際にはコロンビア軍の兵士であった可能性を否定するものではない。

5月の襲撃の際、アラウカ地方先住民評議会(CRIA)の議長だったダリオ・チュリビラによると、AUCの腕章を付けた襲撃者の何人もについて、村人たちは、コロンビア軍の兵士として知られている者たちであることを確認している。目撃者たちは、名前を挙げることさえできた:エラン・アルフォンソ・リオス・モンテレイ、リサンドロ・カマルゴ・アセベド、ディエゴ・ムニョス・ウスキアナ等々である。チュリビラは、ベトイェス虐殺の責任者をはっきりと批判している:「準軍組織ではなかった。軍であった。軍が自ら無秩序を作り出しているのだ」。

軍は全く別の立場を取っている。「テロリストたちがやったことを、実際にはテロリストの装いをした軍がやったと宣言するのは恥ずべきことである。ここにいない者たちが、そうした中傷を繰り返すのは簡単だ・・・・・・それは嘘である。アムネスティ・インターナショナルが嘘をついたのではなく、アムネスティ・インターナショナルに話をした者たちが嘘をついたのだ。アムネスティ・インターナショナルは、現場でそれを確認しに来ることができない」と、ナボス・パルド大隊基地に駐屯する軍第5機動部隊のクルス大佐は、はっきりと動揺を示しながら述べた。彼の言葉は、軍の立場を簡潔に示している:準軍組織が4月半ばベトイェスに到着し、そこにいたFARCとELNの部隊と対立した。同地域から武装グループを追放するために、ナボス・パルド大隊がコロッソ作戦を展開し、「素晴らしい成果を収めた」。

コロンビアの主要日刊紙の一つエル・ティエンポは、ほぼ軍の見解を反復し、5月15日の記事で、強制移送が起きたのは、準軍組織とゲリラが対立したからであり、これらの武装集団の「交戦」の中で民間人の死者が出たと報じている。けれども、クルス大佐はこの事件の説明についてもっと具体的である。「FARCとELNというテロ集団が、この数週間、様々な先住民居住区があるベトイェス地域から、先住民と農民を大規模に強制移送している。そして、サラベナ市の非常に困難で非人間的な状況に無理矢理送り込んでいる」。クルス大佐は、軍の第18旅団と彼の第5機動部隊が共同で、ベトイェスの安全を確保し、移送されたグアヒボの人々が帰還できるようにしているところだと述べる。

けれども、入手できる証拠は、出来事の公式バージョンと矛盾しているようである。軍の主張に空いた最も大きな穴は、ゲリラに強制移送されたとされるグアヒボの人々が逃げたサラベナは、アラウカ州の中で最もゲリラの統制が強い都市であるということである。襲撃者がゲリラであるならば、サラベナは襲撃者を避けて逃げていく場所ではほとんどあり得ない。タメ市長のホルヘ・ベルナルは、ベトイェス虐殺の直後、強制移送されたグアヒボの一部は避難しにタメ市に北が、すぐさまサラベナに向けて立ったという。それというのも、「グアヒボの人たちは、タメでは十分な安全の保証が得られないと述べた。私は彼らにタメにいられるよう支援を提案したが、彼らはサラベナに行くことを決め、タメを去っていった」。軍と警察の治安部隊が大規模に駐留し、アラウカ州で準軍組織が最大のプレゼンスを誇っているタメ市でグアヒボの人々が自分たちの安全は保証されていないと感じ、紛争地帯を数時間行ったところにあるゲリラ支配地域サラベナの方が、避難する場所としては安全であると感じたことは、示唆的である。

さらにまた、コロンビア軍第18旅団のモントヤ・サンチェス大佐のコメントも注目に値する。彼は、サラベナの教会を占拠したグアヒボの人々と強制移送された他の農民たちが「ELNの傾向」に従っている、と述べている。ONICはコロンビア国防相マルサ・ルシア・ラミレスに宛てて、この主張を激しく批判している:「[大佐の発言は]強制追放された人々の要求を非合法なものとし、人々を自動的に軍の標的とするという明確な目的を持っている」。ONICの批判はさらに、CRIAが人権団体ジョエル・シエラ委員会(軍とアラウカの公務オフィシャルたちはしばしばジョエル・シエラ委員会をゲリラの前線であるとして非難している)に操作されているとうモントヤ・サンチェス大佐の主張を反駁している。

こうした非難や中傷キャンペーンは、コロンビアの「汚い戦争」では頻繁に起きている。タメの市長ホルヘ・ベルナルに我々がインタビューしていたとき、FARCのアルフォンソ・カステジャノス機動縦隊からファックスが届いたが、そこではホルヘ・ベルナルと何人もの地方オフィシャルを、「尊厳をもって生きることだけを求めている貧しい街に侵入してきた」「麻薬準軍組織」であると批判している。その数分後、私の同僚と私が、市役所は同地のジョエル・シエラ人権委員会に連絡したかと訪ねたところ、副市長はぶっきらぼうに言い返してきた。「これ[FARCからのファックス]は奴らからのものだ。これは不法集団、FARC−ELNからのものだ。それが、「人権団体」の正体だ」。

どのグループについて語っているかは特定せずに、軍第18旅団のパレデス大尉は同じような非難を繰り返した。「ここアラウカで、我々は、社会組織に対して、秩序を検討し、誤りがあるときには公共部隊に疑問を提起したり批判したりするよう求めた。・・・・・・けれどもこうした社会組織は秩序を求めてはおらず、無秩序を求めていることをこれまでに示してきた。そして、何らかのかたちで、こうした組織はゲリラ・グループに仕えている。・・・・・・旅団の司令官があたかも準軍組織であるかのように決めつけるといった無責任な批判を行なっている。・・・・・・我々が準軍組織と共謀して活動し、一つのグループを形成していると言い続けているが、それは大嘘だ」。

アラウカの地方部で激しく続いている戦争のため、事実を独自に検証することがとても難しくなっている。地方オフィシャルたちは、犯罪を調査するためにタメから地方に出かけていくことができない。武装集団から殺害脅迫を受け取った後、タメのジャーナリストは全てボゴタに避難した。そのため、タメに滞在して日々の虐殺をカバーし人権侵害を調査するジャーナリストは一人もいなくなった。タメ住人のほとんどが聞ける唯一のラジオ局は軍のラジオ局である。こうした状況で、ベトイェスの先住民コミュニティを襲撃した者たちを明らかにすることは、精密科学ではあり得ない。けれども、コロンビア軍自身が行なったとする襲撃の生存者の証言の他に、誰がベトイェスの虐殺を行なったかを決めるために我々が手にしている最も明白な証拠は、グアヒボのコミュイティが、準軍組織が大規模に駐留し、軍の実質的な要塞となっているタメ市で安全と感じずに、ゲリラが支配し、アラウカ州では国家の権威が最も弱いサラベナに逃げることを選んだという事実である。

強制移送されたグアヒボの人々が、軍が彼ら/彼女らのためにベトイェスの安全を確保していると主張しても、恐れてベトイェスに帰還したがらないことは確実である。6月にサラベナを訪れたフリーランスの写真家ジェイソン・ホウィは、川岸で服を洗っている強制追放されたグアヒボの人々と、ある朝彼と同僚が出会ったときのことを回想している。「故郷から絶望的な状況で逃げ出したため、人々は憔悴し恐れていた。ゆっくりと、私たちはあまり脅威に見えないようかがみながら近づいていった。顔が凍り付くまでは、笑いながら。ぼろぼろの服を着た8歳の少女が、裸の、泣いている赤ん坊を胸のあたりで抱きかかえ、危険を評価しようと鋭い視線を投げかけていた。我々の笑顔は戻らなかった。衣服と汚れた子供は急いで体を洗い、濡れた服がすぐに袋につめこまれ、小さな赤ん坊は母親の背中に縛り付けられ、後ろを振り返らずに、難民たちは急な川土手を上って、煙の立ち上る汚れたキャンプに戻っていった。我々がその後を付いていくことは、許されなかった」。


この記事は、エリック・フィチトルの特別レポート「Araucan Nightmare: Life and Death in Tame」からの抜粋。

エリック・フィチトルはコロンビア・レポートの編集員で、2003年6月、コロンビア・レポートの編集者ギャリー・M・リーチとともに、タメ、アラウカを訪問した。
益岡賢 2003年8月12日

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