コムーナ13:コロンビア都市の戦場

フォレスト・ヒルトン
2002年10月28日
コロンビア・ジャーナル原文


今や、このシーンは、お馴染みのものである。2002年5月21日の早朝、700人の兵士たちが戦車の援護をうけて侵入してきた。これに対し、近隣の武装民兵は、マシンガンで侵入を阻止しようとした。ブラックホーク・ヘリコプターからは、無差別に近隣地域に雨のように弾丸が発射された。捜査状もないまま、銃口を突きつけて玄関口で宣言される家宅捜索が行われ、それは略奪へと変わった。若者たちは路上へ引きずり出され、縛られ、殴打され、そして、子供たちが見ている中で殺害された。近隣の住人たちは、勇敢にも、怪我人を助けようとし、国家機関が発射する銃弾の中で、医療処置を施そうとした。人々は、停戦を望む意思を示すため、白いシーツやタオル、シャツを窓から下げた。棒や石だけを手にした子供たちが、兵士や警察に対峙し、近所から撤退するよう求めた。「僕らは平和を望むのだ。僕らは平和を望むのだ」と叫びながら。包囲攻撃は12時間以上も続き、終わったときには、3名の子供を含む9人が死亡し、37名が怪我をし、55名が拘束されていた。

ナブラスやジェニン、ラッマラーの出来事ではない。コロンビアはメデジン市中西部の丘にある、コムーナ13地区でのことである。この地区は、約10万人が住む20の町区からなっており、住人の多くは追放されたアフリカ系コロンビア人で、コミュニティを組織化した経験を有している。けれども、中東の出来事とは異なり、閉鎖されたこの地域に入ることを要求する国際的監視団は存在しない。反対に、コミュニティの指導者たちは、「国内外の公式NGOや人道組織が、この都市部での戦闘の重大さに対応すべきだったにもかかわらず、何もしなかったことに、無気力さ」が示されていると述べている。国家が自らの権力を都市周辺部の貧しいコミュニティで示したこのやり方を見るならば、コムーナ13のある住人が述べた次のような見解に共感を持つのは容易である:「私は子供も兄弟も友人も失わなかったけれど、いずれにせよ泣いた。国家当局は、我々の憎しみを買わないなどと思えるのだろうか」。

5月21日早朝に軍/警察の共同侵入作戦が行われて以来、コムーナ13は、止むことのない準軍組織の攻撃にさらされている。また、何度も繰り返し、警察と軍による侵入作戦が行われた。先週、5月21以来最大の残虐な侵入があった。今年に入ってから10月17日までに、コムーナ13では、450名の人々が暴力的な死をとげた。これは、世界的に最悪であるコロンビア全体の殺人と比べても6倍である。そして、過去6ヶ月のあいだに、500家族が追放された。けれども、国家機関が行った5月21日の虐殺とは違い、準軍組織によるコムーナ13への攻撃は、ニュースにはならない。低強度紛争という作戦の意図通り、準軍組織の残虐行為は、地方紙の後ろに埋もれているのである。都市部での戦闘が予想外に激化した最近になるまで、コムーナ13の未来について、公に議論されるそぶりすら見られなかった。無関心と冷淡さが広まっているのである。

今年(2002年)2月20日に、コロンビア革命軍(FARC)とパストラナ前政権との間の和平交渉が終了して以来、多くの分析家たちが、コロンビア人口の4分の3が暮らす都市部にも戦闘が広まると予測した。バランカベルメハを除いては、この予測はまだ現実かしていないが、ボゴタ西部の広大なサバンナ地帯の軍事化が強化されている兆しはある。けれども、メデジンでは、5月21日の事件が、左派ゲリラと地方政府、右派準軍組織、ストリート・ギャングのあいだの込み入った戦闘の新たな段階が始まったことをよく示している。しかしながら、新たな段階とはいえ、以前と同様、犠牲者の大部分は若い人々であり、中には戦闘員もいるが、ほとんどは一般市民なのである。

公式の諜報報告書によると、コロンビア最大の準軍組織であるコロンビア自衛軍連合(AUC)が、現在、メデジンの70%を支配している。まだ征服されていないのは、中西部のスラム街(ここはウラブへ抜ける道となっており、ウラブでは、FARCとAUCが、カリブ海とパナマ境界へのアクセス路を巡って戦闘を繰り広げている)と、中部及び北東部(ここからAUCが支配する重要な金鉱地帯への路が続く)のいくつかの地区である。AUCはアンティオキア州郊外で農民たちを虐殺してきたために大きな批判を浴びているが、メデジン市自体での準軍組織の拡大については、沈黙が広まっている。ウリベがアンティオキア州知事だった時代にウラブから国軍と準軍組織により追放された人々の胃痴愚は、ウリベが大統領の地位にあるあいだに、抹殺されることが予定されている。ウリベは、メデジン市を、コロンビア全体とともに「平定」するだろうという予測の中で、アンティオキア州の投票の7割を手にした。

最近まで、コムーナ13は、3つのゲリラ・グループの現実的な連合体制のもとにおかれていた。FARCと民族解放軍(ELN)とメデジンを拠点とする人民武装部隊(CAP)である。FARCとELNというコロンビアの2大左派ゲリラの関係は、よく言っても緊張を含むものであるが、コムーナ13では、FARCとELNとCAPは連合を構成していたのである。コムーナ13の住民はいうまでもなく、3つのゲリラ・グループにとって、将来は荒涼としている。10月13日と14日に、警察官1名と3名の市民(そのうち一人は9歳の少女ラウラ・セシリア・ベタンクール)がコムーナ13で死亡してから、ウリベ大統領は「オリオン作戦」を発令した。この作戦行動の中で、軍と警察、空軍と特殊部隊、そして諜報サービスのメンバーによる共同攻撃により、CAPの指導者とされる「マソ」が殺害された。

この作戦の第一段階では、合計1000名の兵士が投入された。戦車とブラックホーク・ヘリコプターを利用し、銃をかかげて10月15日午前4時に侵入してきた国軍は、コムーナ13の中枢地域に2時間もたたずに到達した。そこで、部隊は一軒一軒家宅捜索を行った。41時間続いた作戦の第一段階が10月17日午後に終わったときには、別の2000名の兵士たちが一帯を封鎖しており、1名の軍士官、2名の兵士、1名の警官、1名の市民、そして10名のゲリラが死亡した。40人以上の市民が怪我を死、少なくとも176名のゲリラ兵士と疑われた人々が拘留された。けれども、これまでのシナリオを考えると、公式発表数値には疑問を付さなくてはならない。本当のところ何人が死んだのか、そのうちどれだけがゲリラ戦士でどれだけが若い一般市民だったのかはわからない。

準軍組織がメデジンの7割を支配しているにもかかわらず、軍による弾圧を加えて準軍組織を一掃しようとすることはまったくなされず、また、「オリオン作戦」で殺害された準軍組織兵士は一人もいない。コムーナ13が再び攻撃されたのは、まさに、準軍組織が、5月21日の虐殺以来も、自力ではコムーナ13を統制できなかったからである。それゆえ、「オリオン作戦」はまったく終わっていない。コムーナ13の8割は、現在、1500人からなる軍兵士の直接的な支配下に置かれており、兵士たちは家宅捜索を続け、目出し帽と迷彩服を着た通報者を従えて、容疑者を狩りだしている。これに対し、FARCは、軍と準軍組織が、サンタ・フェ・デ・アンティオキアとウラブへと続く戦略路を軍と準軍組織とが支配下に収めることを阻止するために、コムーナ13に南部のFARC拠点カグンから250名の戦士を送り込んだ。今や、メデジンの中西部でも中部・北部郊外でも、戦闘は日々の生活の一部となったのであり、当局筋は、こうした状況が続くだろうと見なしている。コロンビア国防相マルタ・ルサ・ラムレスは、オリオン作戦は「永続する」ものと述べ、コムーナ13を占領している部隊が、無期限にそこに止まるだろうと示唆している。

軍第四旅団の司令官であり2000年から2001年にプツマヨでの焦土作戦を指導したマリオ・モントヤ将軍は、5月21日のコムーナ13における作戦を、無条件の成功と述べている。「我々は、メデジンで活動する犯罪者の諸グループに対してすばらしい成果をあげた。我々はさらに続ける。」また、メデジン市警の総監でやはりプツマヨ焦土作戦に参加したレオナルド・ガジェゴ将軍は、5月21日に過剰な攻撃が行われたという批判を否定し、ゲリラこそが、軍と警察に対し過剰な暴力をふるったと述べた。メデジンの元市政府書記であり現在有力な市長候補であるルヘ・エンリケ・ベレスは、コムーナ13について、「カグンやスマパス(ともにFARCの拠点)のような戦闘地帯と見なす必要がある」と述べている。

メデジンの現市長ルイス・ペレスも、負けずに、さらなる作戦−おそらくは5月21日やオリオン作戦と同様の−が予定されていると発表した。「転覆活動のために立ち入り禁止となるような地域をこの町に望まないならば、多くの暴力行動を行わなくてはならないだろう」と。ベレスもペレスも、2000名の警察−ペレスによると「兵士でもあるような」警察−増強と、軍の都市機動部隊の創設、そしてメデジン中西部と北東部での軍基地建設を求めている。つまり、ベレスもペレスも、近い将来において、オリオン作戦の中枢部分をメデジン市レベルで制度化しようとしているのである。ペレスによると、当局の統制が及ばない、メデジンの貧しい周辺的な地域は、「除去しなくてはならない癌」なのである。

悲しいことに、オリオン作戦は、予告された殺人のまた一つの事件なのである。メデジン市政府書記官ホルヘ・レン・サンチェスは、市議会とコムーナ13の外出禁止令の利点について議論する中で、10月12日に、さらなる軍事作戦が進められつつあると述べていた。「コムーナ13において外出禁止令と軍部隊の駐屯を解除することはない」とサンチェスは述べた。「というのも、メデジン市政当局は、武器の合法的な独占を回復する決意だからだ」と。予想通り、10月18日金曜日に、ルイス・ペレス市長は、コムーナ13における外出禁止令と酒類販売消費禁止令、武器使用禁止を週末にも継続すると発表した。

コムーナ13における外出禁止令が発布される可能性を予期して、人民訓練機構(Popular Training Institute: IPC)が中心となり、NGOや人権団体から何百名もの人々が、オリオン作戦が実行される1週間前に、路上で抗議行動に出た。コロンビアのNGOであるCORPADES(平和と社会開発協会)の代表フェルナンド・クイハノによると、「外出禁止令は、メデジン市を「社会復帰地域」および軍事作戦地域とするための第一ステップであり、そうすると戦闘が悪化するだけである」。現在、ウリベ大統領が「国内(社会)動揺事態」宣言により、コロンビアの半分近くが、社会復帰地域/軍事作戦地域となっている。メデジン市が、地方部と同じ運命をたどることになる多くの都市の皮切りとなったとしても驚くことではない。コロンビアは、追放された人々が逃げ出す場所も隠れる場所もないような国になっている。


フォレスト・ヒルトンは、南アメリカを拠点とするフリーランス・ジャーナリスト。Against the CurrentLeft TurnAsi es Bolivia、コロンビアの雑誌Desde Abajo等に寄稿している。


  益岡賢 2002年10月29日

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