遙かな旅

2002年6月17日
サラ・キャメロン
コロンビア・ジャーナル原文

フアニタに起きたことを理解するのに2週間かかった。彼女は、自分の身に何が起きたかを一度に話すことができなかったのだ。とぎれとぎれの話だった。彼女の心はうつろい、ときに彼女はひどく泣いたため、中断する必要があった。私が彼女に会ったのは、コロンビア北西部のアパルタドの一区画、ラ・チニタで開催された「幸福への帰還」ワークショップである。私は数名のボランティアとともにそれを運営していた。ボランティアは皆、13歳か14歳だった。そこに集まる子供たちのほとんどは10歳以下で、まわりの村から暴力により家を無理矢理追い出されてきたのである。子供たちの家族が安全を求めてラ・チニタに逃げてきたのは大きな皮肉だった。この場所では、内戦下最悪の虐殺がいくつか起きていたのだから。

フアニタは7歳くらいで、褐色でふっくらした、きつい巻き毛の黒髪である。彼女がラ・チニタに来たのは最近で、苦痛の症候をたくさん示していた。他の子供が皆走り回ってゲームをし、歌を歌い、絵を描いているときに、フアニタは一人で座り、そうした光景を見ていることもあったがほとんどの場合地面を見つめていた。表情のない顔で、感情を押し殺していた。麻痺し、世界から隔絶されたようであった。

「幸福への帰還」プロジェクトは、ユニセフとカトリック教会により1997年に、この地域の暴力により何千もの家族が家から逃げ出したあとに始まった。このプロジェクトでは、何百人もの十代の若者や大人を、ボランティアの「遊び」セラピストとして訓練し、そうしたボランティアが、家を追放された子供たちのためのワークショップを運営する。各ワークショップは基本的に同じ形態をとる。まず、ゲームと歌、そして絵描き、それから、おもちゃでの遊びである。通常はグループで遊びをするが、フアニタのように、極めて深刻な悲しみを抱えた子供とは一対一で遊ぶ。

私はフアニタと並んで地面に座り、彼女に、ボルシジョ−ボランティア全員が持っている、中に色々なものが入ったナップザック−を見せた。「中に何が入っているか見てごらん」と私は話しかけたが、彼女には関心がないようだった。私はぬいぐるみや人形、ロバ引き二輪車やヘリコプター、オートバイ、船といった木製のおもちゃを取りだした。私はそれを使って遊びはじめた。男の人の人形を二輪車に座らせ、押しはじめた。ヘリコプターをとばせ、ぬいぐるみの母親お子供をくっつけ抱き合わせた。それから、ぬいぐるみの家族を彼女に見せた。

しばらくそれを眺めていたフアニタは、それから、ぬいぐるみの男を手にとって、ロバの二輪車に座らせ、押した。そして、泣き出した。「気にしないで、遊ぶのは後でもできるから」と私は言った。彼女はそれに答えず、私が「幸せな猿」という物語を読み上げている傍らで静かに座っていた。このお話は、勇敢で強くありたいと願いながら、そうあるために自分が知っている唯一の手段が攻撃的であるという猿についての話である。誰もが彼を嫌っていたが、インコの助けで、他の動物を信頼することにより本当の友人になることを学んでいくというものだ。

お話を読み聞かせながら、私は猿と賢いインコの人形を使ってその役を示していた。私は、インコを、秘密を話すことができる特別な友達としてフアニタに紹介した。実際の人に話すよりも人形に話しかけるほうが簡単だと考える子供もいるのである。

最初、私は、フアニタが私の話した半分も受け取ってはいないのではないかと思う。けれども、この仕事で最初に学ばなくてはならないことは、子供に時間を与えることだ。その後、ラ・チニタのワークショップで、私はいつもフアニタと一緒に座った。はじめのうち、彼女は全く話さなかった。それから、おもちゃを使って少しずつ小さな声で話し始めた。しょっちゅう中断し、続けることはできなかったが。そして、何週間も遊んだあと、とうとう、私は、彼女の家族に起きた苦痛に満ちた出来事を理解した。

家族はロバの二輪車に乗っていた。フアニタの父と母、フアニタ、そして妹である。ヘリコプターが一台やってきて、家族のまわりを、大きな音をたてて飛び回った。木のヘリコプターを飛ばせながら、フアニタはブーンという音を漏らしていた。家族は、大きな音と、ヘリコプターが頭上を旋回していることで恐怖に陥った。父親が二輪車を止め、家族全員が近くのバナナ畑へと逃げ込んで隠れた。フアニタは母親と妹と一緒だった。父親は道の反対側にいた。

ヘリコプターは少し離れたところに着陸した。男達が出てきて、そのうち一人がフアニタの父を見つけだした。フアニタと母と妹は隠れていたが、そこからすべてを見ることができた。男達は父親を畑から連れだした。小さなぬいぐるみの腕を頭の後ろに曲げた。ちょうどフアニタの父の腕がそうなっていたように。武装した男達の司令官がやってきて、フアニタの父親を道にうつぶせに押し倒した。それから拳銃を取りだし、父親を三度撃った。ぬいぐるみの男が拳銃を「パン」と発射するたびに、その反動で体が飛び上がった。残りの家族は、なすすべもなく、隠れていた場所からそれを見ていた。

武装した一団が行ってしまったあと、フアニタはぬいぐるみの人形を自分と妹と母のように一緒にし、父親の人形まで走らせた。父の横にひざまずき、泣いて、泣いて、それから母親が、行かなくては、逃げなくてはと行った。彼女たちは、すべてを後に残して逃げ出し、まず船で、それからトラックの後ろに乗って、ラ・チニタにたどり着いた。

彼女と遊び、彼女に注意を払い、他の子供たちと遊ぶよう奨励する以外に、できることはあまりなかった。私は、彼女の遊び方、何を言っているかについて、そして彼女のムードについてメモを取るよう訓練を受けていた。これを、プロジェクトの心理学者に提出したが、心理学者は忙殺されていた。あまりに多くの子供たちが戦争の影響を受け、中にはフアニタよりもひどいショックを受けている子供もいる。

心理学者が彼女を扱い始めるまでに長い時間がかかった。そのときには、フアニタの状態は良くなっているように見えた。私たちのゲームに参加するときすらあったのである。それから、ある日、彼女は家族とともにいなくなった。他の町に行ったのかもしれないし、あるいはどこかの都市に行ったのかも知れないが、誰も確かなことを知らなかった。このところ、こうしたことは頻繁に起こる。今日ここにいた人々がいなくなり、いったい何か起きたのか決してわからない。

この仕事にはとても悲しいことがたくさんある。子供たちの状態が少しでも良くなっているかどうか見るのは難しい。私たちがやっていることが何かのためになっているのか知ることも難しい。私自身、時々、自分の勉強にもっと時間を使いたくて、この活動をやめてしまおうかと思うこともある。私の家族も貧しく、だから学校に必要なものを買うために私がお金を稼がなくてはならない。けれども、同時に、私や他の若い人たちがこの仕事をしないと、子供たちがどうなるかも心配だ。心理学者や社会学者のほとんどは、アパルタドには来たがらない。危険すぎるというのだ。

先週、私たち10人が相談して、誘拐に反対する子供たちの行進を計画した。3百人以上の子供と十代の青年達が参加した。私たちは交通の流れを止め、アパルタドを、生きる権利を尊重するよう求め、子供を戦争に巻き込まないよう求め、平和にそして自由に生きる権利を求めて行進した。すばらしい日だった。

この記事は、サラ・カメロンの著書Out of War: True Stories from the Front Lines of the Children's Movement for Peace in Colombiaからの抜粋である。カメロンはUNICEFの招待でコロンビアにおける子供平和運動について調査するためにコロンビアを訪れた。彼女は何百人ものコロンビア人にインタビューした。そのうちの一人が、16歳のホヘミル・ペレスで、この記事は彼の経験を語ったものである。

コロンビアの子供の状況については、他に、以下を参照。
http://www.saracameron.org/
http://www.unicef.org/children-in-war/out-of-war/


  益岡賢 2002年6月18日

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