母なる地に自由を! 

エクトル・モンドラゴン
2006年1月9日
ZNet 原文


コロンビアの地方部で過去20年間に犯された何百もの虐殺の犠牲者、そして1946年から1958年のあいだおよびそれ以前の暴力の波の時期に犯された虐殺の犠牲者に、正義と補償がありえたならば、それをはかる基本的な指標は、繰り返し繰り返し母なる地から血と銃によって追放されてきたカンペシノたち、先住民たち、アフリカ系コロンビア人たちに、土地を返却することにあるだろう。

2005年9月2日の夜明けが訪れる中、ナサ・デ・ウエラス先住民保護区の200人のコミュネロ----コミュニティ活動家----たちが、米州人権法廷の決定を実施した。同法廷は、1991年9月19日に、先住民が占拠したニロ・アシエンダ----大農場----で準軍組織が犯した虐殺の犠牲者に対する総合的な補償の一環として、コロンビア政府は犠牲者に土地を返却すべきであると判断したのである。子供を含む、先住民20人が、このとき暗殺された。

補償のために14年も待ち疲れたコミュネロたちは、「ラ・エムペラトリス」アシエンダを占拠した。彼らはまもなく弾圧されることになるが、結果は予想外のものだった:警察が攻撃し、ガス弾を発砲し、軍が姿を見せ、人々に発砲し、発砲で多くの人が負傷したにもかかわらず、人々は恐れなかった。恐れるどころか、ますます多くの先住民の心に、市民的レジスタンスの精神を燃え上がらせたのである。占拠者たちを追い出すことはできず、日々、さらなる先住民が姿を現した。9月13日、内務相がナサの人々と交渉したとき、占拠していた人々は3500人にのぼっており、さらに他の人々が「グアヤバル」というなのアシエンダを占拠していた。

この出来事は、歴史的な変化を記すものだった。コロンビアで、地主たちの手から土地を解放しようとする直接行動を麻痺させてきたテロが敗北した最初の瞬間だった。ニロ虐殺は、支配者たちに挑戦した者は誰であれ死をもって罰せられることを示していた----カンペシノや先住民、アフリカ系コロンビア人に差別なく適用される判決であった。

2003年11月2日から6日には、カハマルカのSINTRAGRITOL(トリマ農業労働者組合)の組合員たちにテロが向けられた。これらの組合員たちは、コロンビア大使の所有する「ラ・マニグア」と呼ばれる農園を3月に占拠していたのである。カンペシノ5人が残忍な拷問を受けたうえで殺され、18人が「失踪」した。同じ場所で、2004年4月10日、コロンビア軍はさらに3人のカンペシノと、赤ちゃん1人、子供1人を殺した。

土地を解放しようとした人々すべてに向けられるこうした残虐行為は、巨大な反土地改革を構成している。今日では、人口のたった0・4%が登録された地方の土地の61%を所有している。0・4%というのは約1万5000人で、その一人は、コロンビア大統領アレバロ・ウリベ・ベレスである。議員の70%近くも、この選民グループに加盟している。この選民グループは、コロンビア支配層が自由貿易協定(FTA−TLC)と米州自由貿易協定(FTAA−ALCA)、石油や林業、水資源等々をめぐる法の変更に献身する見返りに、現状維持のためにデザインされたプラン・コロンビアを通して合州国の後押しを受けている。こうした取引はまた、多国籍企業の投資先や巨大プロジェクト先に近い地域の土地価格から大土地所有者が巨額の利益を得ることを確実にするものである。

これによりラティフンディスモ----大土地所有制----が強化される。それは農業生産ではなく投機に基づくものである。プランテーション----とりわけアフリカヤシの----や森林の伐採、牛の大放牧は、すべて、生産というよりも土地の支配を保証するためのものである。ウリベ政権は、追放された300万人の人々が土地から隔離されることを合法化するために必要な法律を採択しようとし始めた。この法律は、新たに入手した土地を登記するために必要な時間を短縮するものである。ここには総合的な開発計画がある。最近の議決により、アフリカ系コロンビア人のコミュニティに属する土地で、人々が土地から追放されたらすぐにアフリカヤシを植え付けることが合法化された。これは、暴力的な土地の収奪を永続化させる方略の一部である。そして政府と準軍組織との合意(正義と平和法)は、略奪者の土地と金を浄化する最後の仕上げである。

それに対して、「ラ・エムペラトリス」におけるナサの行為は、この醜悪な帝国の犠牲者にとって「正義と補償」というスローガンの真の始まりである。ナサの人々は、この呼びかけを実現した最初の人々である。というのも、2004年9月にグランド・ミンガ----大集会----を開催し、はるばるカリまで行進した先住民6万人を集めたのは彼らだったからである。人々は、ウリベの憲法改変計画と暴力に反対し、FTAに否と言い、生きることそして人々による自治のプロジェクトに是と言った。ナサはまた、カウカの6市部で行われたFTAに反対する民衆協議の屋台骨を担ってもいた。この民衆協議で人々は、投機的な農業反改革および国内農業の破壊と断ちがたく結びついた合州国との「自由」貿易という怪物に断固とした拒否票を投じたのである。

「ラ・エムペラトリス」におけるナサの人々のレジスタンスの成功により、人々の心を破壊しようとするテロは屈した。カンペシノたちやミサク(グアンビアノ)、ココヌコス、そしてナサ先住民のすべてが、はっきりと、「夜明けのように、夜、一条の光がともされた」のを目にした。彼らの内部でも多くの違いはあるものの----これによりこれらの人々は永年にわたり団結してこなかった----、皆が同じ結論に到達した。土地の解放を再会するときがやってきたのだ。

各グループは、自ら、その日は10月12日、レジスタンス開始513周年記念日と決断した。この日は、労働組合が全国ストを実施した日である。カウカ州のカンペシノと先住民たちは15のアシエンダを占拠した。その中には、3000人のカンペシノが土地への権利を主張して占拠したコリントとミランダも含まれていた。古いコクヌコ・アシエンダは4つの農地に分けられ、パレテラ、プラセ、ココヌコの先住民たちと農民たちに占拠された。カロトのエル・ハピオはカルドノのナサ先住民に、シルバのロス・レメディエスはキスゴの人々に、ミサクスはアマバラの人々に占拠された。

これらの出来事ごとに、ラ・エムペラトリスで起きたことが繰り返された。何度か、警察は、テレビやラジオ、日刊紙で、占拠者たちを撤去したと発表したが、そのたびごとに、テレビの映像は、占拠者たちが農地にとどまっている光景を示していた。初めて、何百万人ものコロンビア人が、土地をめぐる対立を直接目にしたのである。合意が成立した場合にのみ、占拠者たちは自らの意志で撤退した。エル・ハピオのように合意が成立しないところでは、占拠を続けた。

中央政府もカウカ州政府も、占拠しているのは先住民だけであると言いたがり、マスメディアを通して、インディアンたちは、「カンペシノや黒人を犠牲にして」たくさんの土地を手にしていると非難した。けれども、占拠は、カンペシノと先住民が同盟している事実を示していた。先住民の「たくさんの土地」はカウカにはない。カウカでは、わずか800人の土地所有者が20万人の先住民が持つ土地と同じ広さの土地を所有している。アンデスの他の地域でもそんなことはない。わずかに、政府が遙か太古からのアマゾニアの人々の土地所有を認める以上のことをしなかったアマゾンで成立しているだけである。サンタンデル・デ・キリチャオで開催された民族間会議で、アフリカ系コロンビア人は、先住民を批判せず、自分たちを土地から追放した政府を批判し、ナサとの同盟関係を強化した。先住民に対抗してラティフンディスタのカウカ州知事が組織したデモ参加者は少なく、都市の「農民」と公務員が参加しただけだった。

さらに重要なことは、カウカで起きていることが、インディヘナたち、カンペシノたち、アフロたちの全国的な動員の一部であることである。カウカでと同様、隣接するナリニョとバイェでも、さらなる土地占拠が起き、2万5000人の人々が、自分たちが置かれている過酷な貧困をすぐさま解決するよう求めた。インサ(カウカ州)では、5000人のカンペシノとインディヘナが高速道路を封鎖した。ナリニョ州のマジャマとリカウルテのあいだでは、4000人のカンペシノとアワ先住民がFTAおよび「民主的治安」に反対し、また人権の尊重を求めて2日にわたり行進した。サン・ミゲルでは、2000人のカンペシノたちがラ・ベガ(カウカ州)とポパヤンを結ぶ道路を封鎖して全国ストへの支持を表明し、母なる土地の解放と農地法を求めた。ガブリエル・ロペスという場所では、1000人のカンペシノがウイラへ向かう道路を封鎖した。4000人の人々がカウカ州南部の「ミ・ボイオ」からポパヤンに行進し、ポパヤンで都市の行進と合流した。バルバコアス(ナリフィオ)では3000人のアフリカ系コロンビア人とカンペシノたちが中央広場を占拠し、飲み水と非合法作物への代替作物による解決を求めた。

5000人のアフロたちがブエナベンチューラを行進し、ストを支持し自分たちの権利を剥奪する政府決定に抗議した。カルダスとリサラルダでは、エムベラが、自分たちの領土を守るためのミンガに大規模に人々を動員した。政府は行進を禁止し、弾圧によりインディヘナ一人が死亡し数人が負傷したにもかかわらず、行進は最後まで行われた。トリマ州とウイラ州のカンペシノと小農家およびウイラ州の先住民2000人がネイバの町に集結し、FTAに反対した。フサガスガ(クンディマルカ)、トゥンハ、ヴェンタケマダ(ボヤカ)ではカンペシノたちによるデモが行われた。5000人の先住民がサムプエスとシンセレホ間を行進し、労働組合の行進に合流した。南ボリバルのサンタ・ロサでは、1000人の熟練鉱山労働者の行列が、アングロゴールド・アシャンティの子会社である多国籍企業のケダダに抗議した。ケダダ社は、サン・ルカス山脈の金採掘を支配しようと望んでいるのである。

10月12日の動員は、カンペシノとアフリカ系コロンビア人、インディヘナの闘争が新たな合意に達したことをはっきりとあかしている。これはすでに、その一カ月前のトリマでの先住民集会、カルメン・デ・ボリバルの2日にわたる行進、サン・パブロ(南ボリバル)での準軍組織に対する二件の蜂起、太平洋岸数カ所での市民ストにより示されていたことでもあった。

コロンビア政府は母なる土地の解放が広がることを恐れ、11月8日に装甲車と警察隊、火器によりエル・ハピオを占拠していたナサの人々を攻撃した。政府は闘争を粉砕しようとし、11月10日、16歳の先住民防衛印ベリサリオ・カマヨ・ウェテトを殺し、また、ヘルソン・メンサを射撃し負傷させ、ほかに数人の先住民活動家----コミュネロス----を拘束し負傷させた。ナサの人々がエル・ハピオで警察の攻撃に抵抗しているあいだに、11月9日、ミサクがピエンダモの「コラソン」を占拠した。モラレス市区そしてカウカでも、11月10日から数百人のカンペシノたちがインディヘナと団結して3つの農地を占拠した。

太鼓の音が鳴り響き、我々は皆それを耳にしている。土地が解放されるまで、その音が止むことはないだろう。

コロンビア連帯キャンペーンのアンディ・ヒギンボトムによる英語への訳から。


京都 2006年1月28日(土) ひと・まち交流館 京都
大阪 2006年1月29日(日) 阿倍野区民センター

『ルート181:パレスチナ−イスラエル 旅の断章』
(Route181 : Fragments of a Journey in Palestine-Israel)

監督:ミシェル・クレイフィ、エイアル・シヴァン
(2003年/270分/アラビア語、ヘブライ語/ビデオ)
日本語・英語両字幕 English Subtitles

詳細は、ルート181:関西上映 京都・大阪をご覧下さい。

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■核情報

核情報さんに、色々な情報があります。
益岡賢 2006年1月21日

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