「芳しくない輩」の新規訓練

ウィリアム・ブルム
ローグ・ステート
『アメリカの国家犯罪全書』2003年3月刊行
第7章


二四年間議員をやっていて、その間、米軍が他国の軍に関与したことにより、 他国の軍隊がその国の人々に対する残虐行為を停止したという証拠を一つも 目にしたことはない。一つもない。ゼロである。 トム・ハーキン上院議員(民主党・アイオワ選出)一九九九年[1]


スクール・オブ・ジ・アメリカズ

ジョージア州フォート・ベニングの軍事学校スクール・オブ・ジ・アメリカズ(SOA)は、 何年も前からスクールに抗議する人々に取り囲まれてきた。 卒業生の多くがラテンアメリカで拷問や殺害などを含む非常に重大な人権侵害を 犯してきたからである。SOAは、生徒たちに人権と民主主義を尊重するよう 教えていると主張する。この主張を検討するに際には、ラテンアメリカでは 国家間の戦争が非常に稀であることを踏まえておく必要がある。ここで当然、 他国の軍隊と戦うのでなければ、いったい誰と戦うためにこれらの軍人たちは 訓練を受けるのだろう、という疑問が起こる。その国の市民に対してでないならば、 誰に対して。

長年にわたり、SOAは、何万人ものラテン・アメリカ軍兵士と警察官に、対ゲリラ作戦、 白兵戦、軍事諜報活動、対麻薬作戦、特攻などを教えてきた。生徒たちはまた、 「共産主義」、のちには「テロリズム」といわれるものを憎み恐れるよう教え込まれてきた。 両者はほとんど区別されず、それにより、自国民を弾圧し、反対派を鎮圧し、 社会改革を求める運動らしきものをすべて弾圧することが正当化されてきた。 兵士たちは気付いていないかも知れないが、そうした社会運動が、ワシントンの世界戦略の 邪魔になるかも知れないからである。

反共政策の中で処罰を受ける立場の人々は、SOAの授業で教えられる次のような哲学が 自分たちのことを指しているのだと理解するのに困難を覚えるだろう。 「民主主義と共産主義は、自らの伝統的生活様式を維持する西洋諸国の強い決意のもとで 衝突する[2]。」 あたかも反対派はどこか遠くから、まったく耳慣れない価値観をもってやってくるのであり、 「西洋」の心にとって正当と思える不満の理由など持っていないとでもいわんばかりである。

一九九四年元旦に、メキシコでは、チアパス州の農民たちが、サパティスタ民族解放軍のもと、 近隣のコミュニティを無血のまま制圧した。サパティスタが指摘したように、それは、 北米自由貿易協定(NAFTA)の発効と同じ日だった。メキシコ軍はこれに対し 残忍な対応をとった。ワシントンのNAFTA権力筋にとって、長びく対立は、 NAFTAの平和的適用に対する予想外の障害となった。

偶然の一致かもしれないが、 サパティスタの反乱が今日まで続く中、メキシコ軍兵士のSOA参加は次第に 増えてきた。一九九四年一五人、一九九五年二四人、一九九六年一四八人、一九九七年 三三三人、一九九八年二一九人。おそらく、一九九八年に人数が減ったのは、そのときまでに 十分な数のメキシコ軍兵士が訓練を受けたためではないかと思われる。その 一九九八年でさえ、最も参加者数が多い国はメキシコなのである。こうして新たに 訓練を受けたSOAの「専門家」たちは、「占領軍」を構成し、チアパス州を 軍事化し、軍事キャンプを設けて、先住民を殴打し、暴行し、ときに殺害し、 強制移送し、また、道路封鎖により住民の自由な移動を妨害している。

一九九六年九月、宗教団体と草の根団体の長年にわたる働きかけにより、ペンタゴンは、 一九九一年までSOAで使っていたスペイン語の訓練マニュアルを公開した。 ニューヨーク・タイムズ紙の社説は、これについて次のように述べている。

一九八〇年代に米軍がスクール・オブ・ジ・アメリカズで何千人ものラテンアメリカ軍と 警察士官に教えていた有害な授業の一部を、今やアメリカ人も読むことができる。 ペンタゴンが最近公開した訓練マニュアルは、拷問や処刑、脅迫や尋問を受けるものの 親戚の逮捕といった手段を含む尋問技術を推奨している[3]。
SOAの卒業生たちは、数多くの軍事クーデターを引き起こしてきた。一九六八年に、 ワシントン・ポスト紙が、SOAは「ラテン・アメリカではクーデター学校として 知られる」と報じたほどである[4]。卒業生たちはまた、特に一九八〇年代に、 何千人もの人々を虐殺した。コロンビアのウラバ虐殺、エルサルバドルでの エル・モソテ村虐殺、オスカル・ロメロ大司教の暗殺、米国人修道女の強姦と殺害、 イエズス会士虐殺、ペルーのラ・カントゥタ虐殺、チリでの国連職員に対する拷問と 殺害などをはじめとする何百もの人権侵害を犯してきた。

エルサルバドルのエル・モソテ村では、一九八一年一二月、七〇〇人から一〇〇〇人 が殺害されたと言われている。そのほとんどが、老人や女性、子供で、殺害は極めて 残忍でおぞましい方法で行われた[5]。虐殺を行った一二人の兵士のうち一〇人までが SOAの卒業生だった。一九八九年一一月に六名のイエズス会士を含む八名が殺害された 事件について、国連真実委員会は、これに関与した二六名のエルサルバドル軍士官の うち一九人がSOAで訓練を受けていたことを明らかにした[6]。

ラテンアメリカにおいて軍は一般に超法規的存在であるため、SOA卒業生が犯した 残虐行為の全容が知られることはないだろう。軍による犯罪が調査されることは珍しく、 容疑者の名前が公表されることはさらに稀である。

SOAが、拷問をはじめとする人権侵害の方法を生徒に教えてはいないと主張するのは いつものことである。訓練マニュアルが公開され真実が明らかになったときには、SOAは、 訓練内容は変更されたと主張した。けれども、一九九六年の授業一覧において、四二の 授業のうち民主主義と人権に関するものは「民主主義の維持」ただ一つである。 一九九七年にこの授業を受講したのはたった一三名だった。一方で、「軍事諜報」 の授業は一一八名が受講している。ほかのコースにおける「必須の人権科目」は、 全体の時間のなかでほんのわずかである。SOAの元人権担当講師チャールズ・コールは、 SOAは人権訓練をまともに取り扱っておらず、生徒たちへの訓練のなかではまったく 些末なものとみなされていたと述べている[7]。


アクセス

悪評もひどく、抗議行動もますます戦闘的になり、そして議会の支援も急減しているなかで、 ペンタゴンがスクール・オブ・ジ・アメリカズに固執するのはどうしてだろう。 軍にとって何がそんなに大切なのだろう。答えは次のようなものと思われる。すなわち、 SOAとその生徒たちは、世界中に提供される米国の軍事装備とともに、 ある特別なかたちで米国の外交政策に奉仕するパッケージの一環だということである。 これは「アクセス」と呼ばれる。装備とともにアメリカの技術者や指導員、 部品などが送り込まれる。米国中央軍司令部(CENTCOM)総司令官 ノーマン・シュワルツコフ将軍は、一九九〇年に議会で次のように証言している。
治安支援はただちにアクセスにつながる。われわれの友人によるアクセスが提供されないと、 一定の期間にわたってその地域に米軍を派遣し駐屯させることができない・・・軍事援助 プログラムがなくなると、影響力も低下し、武器の使用や紛争の激化を統制できなく なってしまうだろう・・・われわれの戦略における第二の基本はプレゼンスである。 プレゼンスは、その地域の安定に対する米国の関心とコミットメントが続いていることを 示している・・・CENTCOMの戦略の第三は共同軍事演習である。その地域 に対するわれわれの決意とコミットメントを示すものである。さらなる協力関係をはぐくみ、 われわれの友人たちと共同の活動を促すことになる[8]。

つまり、軍事援助や軍事演習、軍港訪問などは、SOAとともに、アメリカ軍兵士と 外国の軍兵士とのあいだに緊密な関係---同志としての関係---をつちかう機会であり、 同時に、何千人もの外国人についての情報ファイルを作成し、言語能力を身につけ、 その地域の地図や写真を手に入れる機会でもある。要約すると、人間関係、 個人情報、国に関するデータベースなど、クーデターや反クーデター、革命、 反革命、侵略などの際に必須となる財産を手に入れるのである。

米軍の駐留は、実質的に「下見」の役割を果たしている。また、SOAに送るラテン・アメリカ 人候補を選ぶためにも役立つ。ほかの大陸でも、何十もの軍学校で訓練するために米国に送りこむ 軍兵士や警察官を選ぶ役割を果たしている。アクセスのプロセスは循環する。 ワシントンと相手政府の関係が冷え込んでいるときでも、軍と軍の関係はうまくいっている ことが稀ではない(最近では、アルジェリアやシリア、レバノンなど)。これもまた、 軍事的な接触が何を重視しているかを示唆している[9]。

本章やほかの章で示すように、歴史的に、特にラテン・アメリカでは、 強固な軍と軍の関係が文民組織を妨害し、人権侵害を促してきた。これらの国では、 現在、生まれたての民主主義が軍人たちを兵舎にとどめておこうと努力してはいるが。

アクセスとともにやってくる潤沢なドルもまた悪くない。


スクール・オブ・ジ・アメリカズ改訂新版

一九九九年秋、議会がSOAへの予算を廃止しかけたとき、国防省はようやく 悪い前兆に気づき、その一一月に、SOAの大規模な改組を二〇〇〇年春に予定していると 発表した。軍事的性格を弱めて学術的性格を強めるとともに、軍人だけでなく文民も 受け入れ、民主的な原則を教える、名称を汎米治安協力センター (Center for Inter-American Security Cooperation)に変更するなどである。

それにしても、そもそもなぜスクールを残すのかという疑問が残る。十分な数の 学術機関が米国内にもラテンアメリカにもあるのではないだろうか。アメリカ人の 大学教育は無料ではない。外国人に対して無料にする理由は何だろうか。

その答えは、改組によっても変わらない要因である「アクセス」にあるようである。しかも、 軍人だけでなく、現在および将来の政治指導者や文民指導者を生徒として受け入れることにより 実現される、新たな、改善されたアクセスである[10]。

いずれにせよ、米国内には外国人向けの軍事訓練施設がほかにも多数ある。 さらに、ペンタゴンは外国でも包括的な訓練を行っている。


公安局の学校

一九六〇年代前半から一九七〇年代半ばまで、米国公安局(OPS:米国国際開発局USAID の一部)は、当初はパナマで、ついでワシントンで、国際警察アカデミーを運営していた。 SOAが軍人に対して行うことを警官に対して行う学校である。OPSは第三世界の警察官 一〇〇万人以上を外国で訓練してきた。このうち一万人がワシントンで上級コースを受講するために 選ばれた。SOAを卒業した軍人よりもOPSの警察学校生のほうがいっそう 重大な人権侵害を犯してきたかもしれない。警察のほうが軍人よりも一般の人々と よく接触するからである。また、訓練のほとんどが外国で行われるため、教官は、 ワシントンやジョージアにいるときよりも自由かつ戦闘的に「共産主義者の脅威」について 講義でき、それと戦うためにどんな手段でも用いることができる。しばしば教えられていた 手段の一つは拷問である(第五章「拷問」を参照)。

OPSは、武器や弾薬、ラジオ、パトカー、催涙ガス、ガスマスク、警棒などの群衆統制 用装備を警察に与えた。また、暗殺用の武器に関する授業---OPSはこれを「暗殺者が利用するかも しれない様々な武器についての討論」と名付けていた---を開講し、テキサス州 ロス・フレスノでは、爆弾や火器の設計や製造・利用に関する指導を行った。 爆弾に関する授業について、OPSは、テロリストが仕掛けた爆弾を扱うために警官には こうした訓練が必要であると説明したが、授業の中で、爆弾の解除についての説明はなく、 説明されたのは爆弾製造についてだけだった[11]。

一九七五年にアメリカ外交政策の暗黒面に対する批判が高まり、議会が公安プログラムを 廃止したとき、FBIと国防省の助けを借りた麻薬取締局が秘密裡にあとを引き継ぎ、 プログラムを続けた[12]。プログラムは、何度も装いを変えながらその後も続いている。 SOAが二一世紀まで続いているのと同様に[13]。


ブラジル

一九四九年リオデジャネイロに設置された高等戦争学校(ESG)は、SOA同様、 米軍とブラジル軍兵士の関係をはぐくみ、SOAと同じ政治的心情を教えた。 ラテン・アメリカ史家のトマス・E・スキドモアは次のように言う。

一九五〇年代前半の米=ブラジル間軍事協定により、米軍は、ESGの組織と活動に 対する包括的な助言権を手にした。ESGのモデルはワシントンの国立戦争学校である。 ブラジルの戦争学校が文民ポピュリスト政治家に対する軍内反対派の集結場所になった という事実を考えると、政治を忌み嫌う態度と紙一重の強硬な反共イデオロギーが、 米軍士官たちとの頻繁な接触によりどれだけ強化されたか(あるいは穏健化されたか?) 調査する必要があろう[14]。

これに加えて、当時、米国の軍事支援プログラムも続けられていた。 米国大使リンカーン・ゴードンは、一九六四年三月に国務省に送ったケーブルの中で、 これを、「軍の兵士たちと緊密な関係をうちたてるための重要な手段」であり、 「ブラジル軍を親米にするために極めて重要な要素」と述べている[15]。

このケーブルが送られて数週間もたたないうちに、ブラジル軍は、ワシントンが標的と していたブラジルの文民政権を転覆した。


  1. New York Times, September 20, 1999, p. 6.
  2. SOAがパナマ運河地域にあったときに教えられていたコースO−一四七。 Document 5489, p. 5, February 3, 1977. これは Penny Lernoux, Cry of the People: The Struggle for Human Rights in Latin America --- The Catholic Church in Conflict with U. S. Policy (Penguin Books, NY, 1982), p. 167n; ほかのコース記述 については、p. 180-1, 471-3 を参照。
  3. New York Times, September 28, 1996, p. 22.
  4. Washington Post, February 5, 1968.
  5. Mark Danner, The Massacre at El Mozote (Vintage Books, 1994).
  6. Washington Post, November 16, 1999, p. 31. レオ・J・オドノバン・SJによる 論説コラム。
  7. スクール・オブ・ジ・アメリカズ・ウォッチのウェブサイトhttp://www.soaw.orgを参照。 ほかに、Covert Action Quarterly (Washington, DC), No. 46, Fall 1993, p. 15-19.
  8. 一九九〇年二月八日、兵役に関する上院委員会で。
  9. さらなる議論としては、Latin American Working Group (Washington, DC), Just the Facts: A civilian's guide to U.S. defense and security assistance to Latin America and the Caribbean を参照。この報告は、米国内と国外におけるラテン・ アメリカの軍隊に対する訓練について、基地や軍事演習、人権の制限などのあらゆることが 網羅されている。http://www.ciponline.org/factsから全文を入手できる。 また、Washington Post, July 12-14, December 13-14, 1998は優れた連載記事を掲載している。
  10. New York Times, November 18, 1999.
  11. Michael Klare and Nancy Stein, "Police Terrorism in Latin America," NACLA's Latin America and Empire Report (North American Congress on Latin America, NY), January 1974, p. 19-23. この記事は、ジェームズ・アブーレスク上院議員が一九七三年 に入手した国務省報告に基づいている。Ibid., July-August 1976, p. 31; ほかに、 Jack Anderson, Washington Post, October 8, 1973, p. C33; A. J. Langguth, Hidden Terrors (New York, 1978), p. 242-3.
  12. New York Times, January 23, 1975, p. 38; January 26, 1975, p. 42; NACLA, op. cit., July-August 1976, p. 31-2; Langguth, p. 301.
  13. Lawrence Rockwood and Amelia Simpson, "Training the world's police," Foreign Policy in Focus Report, Institute for Policy Studies (Washington, DC), July 2000.
  14. Thomas E. Skidmore, Politics in Brazil, 1930-1964 (Oxford University Press, New York, 1967), p. 330. カリキュラムの強固な親米反共的偏向を巡っては、 James Kohl and John Litt, Urban Guerrilla Warfare in Latin Americas (MIT Press, Cambridge, Mass., 1974), p. 39.を参照。
  15. Phyllis R. Parker, Brazil and the Quiet Intervention, 1964 (University of Texas Press, Austin, 1979) p. 98. 一九六四年三月四日付け国務省へのケーブル。


益岡賢 2002年12月24日

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