東チモール・テロリズム・国際社会

益岡 賢 (2001年9月25日)

 本稿では、2001年9月11日の「米国同時多発テロ」に対する世界の 対応と、1975年から続けられ1999年に大規模に行われた東チモー ルへのテロに対する世界の対応との対比から状況を分析している。

 その結果、米国をはじめとする「大国」の態度に見られる「ダブルスタン ダード」が強調されすぎてしまっている。一方で殺害に荷担し、他方で殺害 を非難している人/国があるとして、まず問題とすべきは、殺害に荷担して いるという事実であり、「ダブルスタンダード」は、副次的な問題に過ぎな い。改めて読み直して、この点が、本稿の弱点であると思う。


目次:
  1. 一九九九年九月、東チモール
  2. 二〇〇一年九月、米国
  3. 東チモールと米国の対応を巡って
  4. 舞台裏で:テロを巡る取引
  5. 二〇〇一年九月、東チモール

テロリズム:

「一定の政治目的のために、暗殺や暴行、粛正などの直接的な恐怖手段に訴 える主義」(『日本国語大事典第二版』 (2001), 第九巻, p. 744)。

「一定の政治的目的を達成するために、政府や公衆、個人に対して、恐怖手 段や予期できない暴力を、体系的に用いること」(Encyclopaedia Britannica --- Micropedia (1994), vol. 11, p. 650.)


1.一九九九年九月、東チモール

 国際東チモール連盟(IFET)投票監視プロジェクト監視員として一九 九九年八月に東チモール南西部の街スアイに滞在したロニー・ハンセンは、 九月六日、ノルウェイから、次のような電子メールを東チモール連帯運動関 係者に送ってきた。

 ・・・(スアイのアヴェ・マリア教会の)神父に電話することにした。 私はIFET投票監視プロジェクトで二週間前にスアイに滞在していた。 滞在中、教会に避難した二三〇〇人以上の難民が置かれていた状況にシ ョックを受けた。教会によると、さらに五〇〇〇人が国内難民としてス アイにいるとのことであった。私はスアイ滞在中、何度も神父と話をし てきた。彼は誠実で信頼できる人物である。

 たった今、彼、フランシスコ・ソアレス神父と話したところによると、 彼はひどい緊張と恐怖のもとにあり、民兵が教会を取り囲んで誰も逃げ 出せないようにしておき、教会を襲撃し、一〇〇人もの難民を殺害した という。彼は何度か、状況は非常に、非常に悪く、誰かがこれを止めな くてはならないと語った。

 スアイへの電話回線の状態は非常に悪く、会話自体もとても慌てたも のであった。私は、何度も、彼に、声を大きくし、繰り返すように頼ん だ。彼は、一〇〇人の人が殺されたと何度か繰り返した。私は彼に、一 〇〇人が殺されたのですか、と何度も確認し、彼はそれを肯定したが、 それでも聞き間違いの可能性はある[1]。

 ハンセンは、聞き間違えたわけではなかった。その後の調査で、アヴェ・ マリア教会では、インドネシア軍と警察が回りを取り囲み、人々を逃られな くした上で、「ラクサール」という民兵団が、神父三名を含む約二〇〇名を 殺害したことが明らかになった。神父一名を含む二五名の遺体は、その後西 チモール領内で発見された[2]。

「暗黒の九月」まで

 一九九八年五月、インドネシアで三〇年以上にわたり独裁体制を敷いてき たスハルト大統領が退陣した。後を継いだハビビ大統領は、程なくして、東 チモール独立を「容認」するかのような発言を行った[3]。これと前後して、 一九九八年後半から、インドネシア軍は、既存の民兵団に加えて新たな民兵 団を東チモールで組織し始めた[4]。

 こうした民兵団とインドネシア軍は、一九九八年から一九九九年に、残虐 行為をエスカレートさせ、独立派の中心人物たちやその家族への誘拐や拷問、 強姦、殺害、家への放火が続発した。また、多くの人々が、「併合派」民兵 の集会に参加しなかったり、独立支持と疑われたという理由で、大規模な虐 殺の犠牲となり、あるいは、夜、場合によっては白昼に自宅を襲撃されて殺 害され誘拐され「失踪」した。

 当時東チモールに滞在して取材を続けていたオーストラリアのジャーナリ スト、ジョン・マーチンクスは、こうした事件をいくつも報告している。例 えば、一九九八年一一月には東チモールのアラスでインドネシア軍と民兵に よる大規模な軍事行動があり、多くの犠牲者が出た。一九九九年四月六日に はリキサの教会に避難していた人々が民兵団ブシ・メラ・プティ(紅白鉄隊) に襲撃され数十名が死亡、四月一七日にはディリのマリオ・カラスカラン邸 が襲撃を受け、十数名が殺害された。東チモールのヘラでは、一九九九年五 月一〇日、マテウス・カルバリョ率いる民兵団により、独立を支持していた 工科学校の学生二一名が殺害された。女性四名は殺害される前に強姦された という[5]。この時期には、こうした数十名規模の殺害以外にも、個別の誘 拐や失踪が続発した。

 ときに「暗黒の九月」と呼ばれる、一九九九年九月に起きた一連の破壊と 虐殺は、インドネシア軍が一九九八年末から改めて開始した体系的な作戦の 最終章に相当するものであった[6]。そして、スアイ、アヴェ・マリア教会 での虐殺は、そうした中でも、九月八日のマリアナ警察署虐殺とともに、最 悪の事件の一つとして注目を集めたものである。

残虐行為の性格

 ここで、冒頭の「テロリズム」の定義に立ち戻ろう。インドネシア軍が自 ら手を下し、あるいは民兵を使って行った、一九九九年九月に至るまでのこ れらの暴力行為は、

  1. 人々にインドネシアとの併合を選択させるという政治目的のために、
  2. 誘拐、拷問、強姦、殺害、放火といった直接的な恐怖手段や予期で きぬ暴力に、
  3. 東チモール全土で長期にわたり体系的に訴えた
という点で、厳密に「テロリズム」の定義に当てはまる[7]。

 また、このテロ行為は、国連の東チモール人権調査団報告が示している通 り、国連安保理憲章VIIIに基づく安保理決定を犯し、さらには国連と一 九九九年五月五日に交わした公式の合意に反して行われたという点で、明確 に、文字どおりの意味において国際社会に対する犯罪行為でもあった[8]。

東チモールの人々はどう対応したか?

 テロリズムに対する東チモールの人々の基本的考え方は、東チモールの武 装抵抗組織であったファリンティル(東チモール民族解放軍)司令官タウル ・マタン・ルアクの次の言葉に要約されている。

われわれは闘いのなかでテロリズムという手段は執らない。テロリズム がしばしば国際社会の大きな注目を集めることは知っている。多くの人 がわれわれに、飛行機などの交通手段に対する攻撃が有効であることを 勧める。しかしそれは犯罪であり、非人間的な行為である。テロをする ものは、自分が誰を殺すことになるのかさえわかっていないのだ。われ われはスハルトに対して闘いを続けている。だがそのために、そのほか の不特定多数の人間を殺すことはできない。そもそも我々は、人権のた めに、自由のために闘っている。そのわれわれが、人権や自由を侵すこ とはできない。インドネシアが行っているような、非人間的な手段は執 るべきではない。自由のためとはいえ、ゲリラとして銃を取り、闘って いるだけでもとてもつらいことだ。まるで狂った動物のように殺戮を繰 り返したいとは決して思わない[9]。

 ルアク司令官の言葉通り、ファリンティルは、そして東チモールの人々は、 インドネシアの一般の人々に対する対抗テロには訴えなかったし、民間人を 巻き込むような報復行動は行ってこなかった[10]。また、特に一九九八年か ら一九九九年には、インドネシアによる圧倒的なテロに対し、最低限の自衛 を行ったのみで、武装行動一般を極力控えていた。

 ときに、こうした行動の理念に対して、「東チモール人は武力で劣ってい たため、対抗テロや報復に訴えても、結局は被害をより多く受ける結果とな ってしまう。それゆえ、テロを避け報復を避けただけではないか」と、効率 論で解釈しようという見解を耳にすることがある。

 こうした効率論的解釈は、二つの点を見落としている。まず、東チモール の人々は二四年にわたる占領の中で、しばしばその結果が莫大な犠牲を伴っ たとしても、自由と人権の理念に従った行動ならば起こしてきたという点で ある。その最も顕著な例は、一九九九年一一月一二日のディリでの平和的追 悼行進である。こうした行動がインドネシア軍による弾圧を引き起こす可能 性を十分知りながらも、人々は、直前に殺された東チモール人の追悼に集い 行進した[11]。

 第二に、短期間ではあるが、少なくとも一度、ファリンティルが民兵やイ ンドネシア軍に対して圧倒的な優位に立っていた期間が存在する。一九九九 年九月末、国際軍が介入して東チモールへの展開を開始し、インドネシア軍 が撤退を開始したときである。このとき、ファリンティルが残虐な復讐行為 を働いたとしてもさらに大きな報復は引き起こされようもなかった。実際に は、インドネシア軍の撤退から取り残された東チモール人インドネシア兵や 民兵の一部は、身内を殺されたり家を破壊された人々からの報復を恐れ、フ ァリンティルのもとに降伏して保護を求めたのである。

 インドネシア軍が撤退した後も、独立へ向けたプロセスの中で東チモール 人たちはこの原則を貫こうとしている。最近になって、テロ行為に参加した 民兵たちの一部が西チモールの難民キャンプから東チモールに帰還している が、東チモールの政治指導者、宗教関係者、NGO関係者やコミュニティの 指導者たちは、報復を避けるよう一貫して人々に呼びかけている。彼ら/彼 女らは、復讐ではなく、法の下で、過去になされた残虐行為を明らかにする ことを要求すると同時に、和解を試みている[12]。テロ行為に対して復讐で 応えるのではなく、正義をもって過去の対立を乗り越えようと、東チモール の人々は試みている。

国際社会はどう対応したか?

 国際社会との合意に反してインドネシア軍が続けたこのテロ行為に対し、 国際社会は、(控えめに言っても)曖昧な態度を取り続けた。

 オーストラリアや米国、日本などの有力諸国は、こうしたテロにインドネ シア軍が関与しているという事実を一九九九年九月に至るまで隠し続けてき た。日本政府に至っては、一九九九年九月に入ってなお、ODA(政府開発 援助)の停止といった実効性のある手段に言及するどころか、インドネシア に重ねて治安回復への努力をお願いすると繰り返していた。

 一九九九年九月一五日に国際軍派遣を決定した安保理協議の中で、直前に 東チモールを訪れていた安保理使節団は、インドネシア軍の関与を明確に述 べている。また、国連が派遣した東チモール人権調査団のピカド団長は、一 六〇名以上の目撃証言や様々な調査を行った上で、一九九九年一二月八日、 「東チモールでの虐殺が体系的なものであるという証拠をつかんだ」と発表 した[13]。さらに同調査団は、二〇〇一年一月に発表した報告の中で、民兵 が暴力行為とテロを行い、しばしばインドネシア軍と警察が関与したことを 明言するとともに、これらの罪を裁くための東チモール国際戦争犯罪法廷の 設置を勧告した。ほぼ同時期に進められた調査に基づき、インドネシア政府 の人権調査団(KPP−HAM)も、当時の国軍総司令官であるウィラント の命令責任を指摘し、さらに、虐殺に関与したとして、約三〇名に及ぶイン ドネシア軍司令官、文民政治家、警察官、民兵指導者の名を挙げた[14]。

 揺るがぬ証拠が国連及びインドネシア自らの調査でもあがっており、さら に、国連人権調査団が国際法廷設置を勧告しているにも関わらず、コフィ・ アナン国連事務総長は、インドネシア当局に人権侵害の裁判を行う機会を与 えるとし、その成り行きを見守る立場を示した。それから一年半、インドネ シアでの裁判は、全く進まずにいる。また、東チモール暫定統治機構(UN TAET)による国内的レベルでの真相究明も、その任にあたるUNTAE T重大犯罪部への予算・人員が不足しているため、また、インドネシア政府 との間に交わされた調査を巡る覚書をインドネシア政府が執行していないた め、遅々として進んでいない。

 国際社会は、自らとの合意に反して行われ、執行者も明確に分かっている テロ行為の処罰を、テロリストたちが属する国家であるインドネシアの政府 に委ね、そこでの進捗が全く見られないにも関わらず、現在まで何ら原則的 な手だてを取らぬままに、この問題を放置しているのである[15]。

メディアはどう報道したか?

 一九九八年から一九九九年に起きたインドネシア軍と民兵団による一連の テロ行為は、一部の小規模なメディアを除いて、ほとんどの場合、単に伝え られなかったか、歪曲して伝えられた。ジョン・マーチンクスは、オースト ラリアの新聞社に送った自分の記事がほとんど取り扱われなかったと述べて いる[16]。

 また、日本の報道の多くは、一九九九年九月に至るまで、インドネシア軍 の関与については言及せず、インドネシア軍と民兵による残虐行為をあたか も併合派と独立派の衝突であるかのように扱い、インドネシア軍を治安の仲 介役であるかのように扱ってきた。

 例えば、一九九九年四月一七日の、カラスカラン邸襲撃事件について、共 同通信は「インドネシア・東ティモールの中心都市ディリで一七日、併合派 民兵数千人が独立派と衝突した事件で・・・一二人が死亡、五人が負傷・・・」 (一九九九年四月一七日)と伝えている。

 実際の経緯は次のようなものである。まず、武装した民兵たちがディリの 州庁舎前に集まった。そこには、インドネシア軍のディリ地区司令官、警察 所長、ソアレス州知事(当時)もいた。アイタラク(棘)という民兵団の指 導者エウリコ・グテレスが「独立派を逮捕、必要なら殺せ」と呼びかけ、次 いで、一五〇人ほどの難民が避難していたカラスカラン邸を襲撃、カラスカ ランの息子を含む十数名を殺害した[17]。

 これは、明白に、併合派武装集団による非武装の民間人に対する一方的な 襲撃であり、そしてそのことは事件当時から多くの目撃証言で明らかであっ た。

 また、その少し前の一九九九年四月六日、周辺地域でのテロを避けてリキ サの教会に避難していた人々をブシ・メラ・プティという民兵団が襲撃し、 数十名を殺害した事件についても、共同通信は、「東チモールのリキサで六 日、独立派と併合派が衝突し」というインドネシア国軍報道官発表を紹介し ている。このときには、国軍も関与していることが当時から報告されていた にも関わらずである。これらの一方的虐殺を「衝突」と伝えるのは不可解で ある[18]。

 さらに、国際法廷を巡っては、それに社説として言及したメディアは、概 ね「インドネシアに機会を与えるべき」という立場を取った[19]。


2.二〇〇一年九月、米国

 二〇〇一年九月一一日、米国ニューヨークの世界貿易センタービルに二機 の航空機が突入、ほぼ同時に、ワシントンのペンタゴンにも航空機が突入し た。「米国同時多発テロ」事件である。

 犯行声明が出ておらず、目的を伺い知る証言も無いが、反米を訴える政治 的目的は明白であるように思われるし、また、予期せぬ巨大な暴力で民間人 を標的とし、同時に複数箇所で行ったという点で体系的なものである。それ ゆえ、この事件も冒頭のテロリズムの定義に該当する。

米国と「国際社会」はどう対応したか?

 これに対する米国の反応は良く知られているところである。これを「国際 社会への挑戦」、「自由と民主主義への挑戦」と述べて、米国はすぐに報復 の準備を開始した[20]。現在、米国は、このテロ行為が「戦争」であるとし て、米国の「威信」をかけた「報復攻撃」の準備を進めている。報復対象と してオサマ・ビンラーディン氏が(今のところ確たる証拠なく)名指され、 米軍はアフガニスタンに対しての攻撃を想定して準備を進めているようであ る。九月二四日現在、既に米国は特殊部隊を投入したと報道されている。

 フランスのシラク大統領は九月一八日に米国を訪問し、テロ撲滅への支持 を表明した。また、二〇日に訪米した英国のブレア首相は、「これは、民主 的、文明的で自由な世界全体に関わる戦いだ。我々は一致してテロ組織を崩 壊、根絶させなければならない」と強調し[21]、米国主導の軍事行動に積極 的に参加すると明言した。欧州連合(EU)は、二一日に緊急首脳会議を開 催し、「米国の対応を全面的に支援し、団結してテロの撲滅に当たる」と述 べた議長総括を採択した。さらに、この議長総括では、「テロの支援国家も 攻撃の対象となる」と述べている[22]。程度は異なるとはいえ、ロシア、中 国も米国への支援を表明している。

 日本においては、小泉首相が、九月一一日の「同時多発テロ」直後から、 米国の報復行動を支持すると宣言し、そのための準備を進めてきた。そして、 九月一九日には、「米国において発生した国際テロリズムに対処するため国 連安全保障理事会決議及び国連憲章二五条の規定に基づく米国に対する協力 に関する法律」(米国に対する協力法)という新法を制定すると発表した。

 欧日の「有力」諸国は、米国の報復行動にどこまで参加貢献するかの違い はあるものの、基本的に、米国の報復行動を容認するだけでなく、それを積 極的に支持する立場を取ったのである。

メディアはどう報道したか?

 貿易センタービルと周辺が大きく破壊されたというニュースは、二年前の 東チモール人に対するテロとは対象的に、すぐに世界中に伝えられた。NH Kでは、この「同時多発テロ」情報をテロップで流し続けた。また、ロイタ ー通信社やBBCは、テロ勃発からほどなくして、情報源も不明のまま、パ レスチナ人グループが犯行声明を発表したと報道。その後、米国政府筋がオ サマ・ビンラーディン氏を重要な容疑者と発表した。

 それ以来、根拠が示されないままに、多くのマスメディアが、ビンラーデ ィン氏が首謀者であることは既に証明された事実であるかのような報道を続 けている[23]。本稿執筆中の九月二五日現在、報道の焦点は、その点を自明 の前提とした、米国の報復攻撃の方法に移っている。

 東チモールを標的としたテロと米国を標的としたテロとの報道の扱いの質 的な違いは明らかである。東チモールでのテロでは、民兵の背後にインドネ シア軍がおり、しばしば軍自らがテロに手を染めていたとい証拠や証言が多 くの場合得られていたにも関わらず、テロ行為についてインドネシア軍を名 指した報道は皆無に近かった[24]。一方、米国の「同時多発テロ」では、確 たる証拠が提示されないままに、ビンラーディン氏の関与が放送され続けて いる。

 もう一点、米国の「同時多発テロ」に特徴的なのは、ほとんどのメディア が、「戦争」という言葉を使っている点である。例えば、AERA緊急増刊号の 表紙には「新世紀戦争が始まった」とあるし、Yomiuri Weekly臨時増刊表紙 にも、「憎悪の全面戦争」という言葉が使われている[25]。「戦争」という 言葉は、米国のブッシュ大統領が同時多発テロ直後から使っているものであ る。


3.東チモールと米国の対応を巡って

 テロリズムに対する東チモールと米国の対応は、各国の反応やメディアの 対応も含めて対照的である。そのいずれがより一般性を持つかについて考え るためには、国際法を準拠点とするのがまずは妥当であろう。

 米国の対応に対する国際法上の位置づけについては、加藤尚武が電子メー ルで配布したアピールが要点を簡潔にまとめている。「連続テロに対する報 復戦争の国際法的な正当性は成り立たない」と題したその声明は、以下のよ うなものである(固定的情報源への参照が困難なため、全文引用)[26]。

連続テロに対する報復戦争の国際法的な正当性は成り立たない
  1. 国際法上の「戦争」とは、単に軍事行動が行われたという時点では成 立せず、主権国家もしくはゲリラ団体が戦争の意思表示をすることで成 立します。ゆえに、今回の連続テロは犯罪であって、戦争ではありませ ん。犯罪として対処すべきです。
  2. 国際法では、いかなる紛争にたいしてもまず平和的な解決の努力を義 務づけています。ブッシュ大統領が、連続テロの今後の連続的な発生の 可能性に対して、平和的な解決の努力を示しているとは言えないので、 新たな軍事行動を起こすことは正当化されません。
  3. 国際法は、報復のために戦争を起こすことを認めていません。したが って、たとえ連続テロが戦争の開始を意味したとしても、現在テロリス トが攻撃を継続しているのでないかぎり、報復は認められません。
  4. 連続テロに対する報復戦争が正当防衛権の行使として認められるため には、現前する明白な違法行為に対しておこなわれなくてはなりません。 予防的な正当防衛は、国際法でも国内法でも認められていません。連続 テロに対する報復戦争を正当防衛権の行使として認めることはできませ ん。
  5. 国家間の犯人引き渡し条約が締結されていないかぎり、犯人引き渡し の義務は発生しないというのが、国際法の原則です。「犯人を引き渡さ なければ武力を行使する」というアメリカ大統領の主張は、それ自体が、 国際法違反です。
以上の理由によって、私は連続テロに対する報復戦争は正当化できない と判断します。
加藤自身は、自ら国際法の専門家ではないので、詳細については専門家の意 見を聞きたいと述べているが、主張の骨子自体は妥当なものであろう[27]。

 また、アムネスティ・インターナショナルも「加害者は法の裁きにかけら れなければならない。しかし、それを成し得るための手段それ自身が公正で あり、かつすべての人びとの人権を保護するものであってこそ、それは正義 と言えるのである」と述べ、「同時多発テロ」への対処の際、テロ行為一般 に対して一貫して適用されるべき基準への参照を呼びかけると同時に、米国 が主張する報復攻撃の不当性を指摘している[28]。

 一方、東チモールの人々のテロに対する反応は、報復行動に訴えるのでは なく、誰がやったかを明確にし、しかるべき法的手続きに従って裁判を行い 処罰することを提唱しているという点で[29]、国際法的にはとてもオーソド ックスで妥当なものであると言うことができる。法的観点からの正当性は、 明らかに、東チモールの人々の対応にある。


4.舞台裏で:テロを巡る取引

 以上の議論は、東チモールの人々を標的としたテロリズムと米国の人々を 標的としたテロリズムとを一応独立別個のものと見なし、それらを巡る反応 の構造的対比に基づくものであった。残念なことに、話はこれで終わりでは ない。現実政治の世界では、両者は、舞台裏で、極めてグロテスクなかたち で結びついている。

 まず、「米国同時多発テロ」の翌々日に現れた次の記事を見よう。

 在インドネシアの米国大使館は一三日夜、インドネシアのメガワティ 大統領が予定通り訪米し、一九日にワシントンでブッシュ米大統領と会 談するとの声明を発表した。

 大統領筋によると、米国は世界最大のイスラム人口を有するインドネ シアの国家元首を早期に招き、「予想されるアフガニスタン攻撃が西側 世界対イスラム世界との対決の構図になることを避けたい」(インドネ シア外務省高官)意向といわれる。

 また、インドネシア政府はアフガニスタン攻撃を支持することを条件 に、米国から九九年九月に東ティモールで起きた併合派民兵による住民 虐殺で国軍が治安の責任を怠ったとして凍結されていた軍事交流の再開 の約束を取り付けたいとしており、米政府側もおおむね受け入れること を了承しているという[30]。

 予定通り、インドネシアのメガワティ大統領は、二〇〇一年九月一九日に 米国を訪問した。その際に発表されたブッシュ大統領とメガワティ大統領の 共同声明において、メガワティ大統領は、「罪のない市民に対して加えられ た野蛮で無差別な行為を非難し、国際社会と協力してテロリズムと闘うこと」 を誓うと同時に、「テロリズムがインドネシアの民主主義と国家安全保障を も脅かしていることを強調」している[31]。

 文字通りに自然にこれを受け取るならば、メガワティ大統領は、インドネ シア軍自身が行っている膨大なテロ行為を非難すると同時に、それがインド ネシアの民主主義と国家安全保障を脅かしていると認識して、国際社会と協 力して---例えば東チモール人権侵害国際法廷を設置して---自国軍のテロ行 為と闘うことを宣言をしているように見える。メガワティ自身が自ら率いる 闘争民主党の青年団の指導者に指名した悪名高い民兵の指導者エウリコ・グ テレスに対しても、しかるべき法的措置が適用されるのかと期待される。

 けれども、実際は全く逆である。同じ宣言の中には、どこを探しても、テ ロ行為を指示しまたそれに参加したインドネシア軍の将校や兵士たちを(報 復攻撃を行うどころか)裁判にかけるという誓約は見あたらない。それどこ ろか、「両指導者は、両国の文民防衛相の管轄のもとに二国間安全保障対話 を確立して、安全保障と防衛問題を巡る広範な見解の交換機会とすることで 合意した」とあり、さらには、「民主的インドネシアにおける軍の改革と専 門化を促進するために共に尽力するという志において、ブッシュ大統領は、 米国が、その一般手続きに従って、個別の申請を一つ一つ検討するという手 続きのもとで、インドネシアに対する非致死的な防衛物品の商業的販売の禁 止を解除すると発表した」と書き込まれている[32]。すなわち、ブッシュ大 統領は、自らの権限で出来うる範囲で、東チモールに対するテロを続けたイ ンドネシア軍に対し、その処罰も(報復攻撃も)しないままに、援助と武器 提供を再開すると宣言したのである。

 もし米国が、米国に対する「同時多発テロ」は米国に対しての攻撃である だけでなく国際社会への挑戦であるという主張のもとで、「無限の正義」に 従って、一般市民への被害を考慮せずに、また具体的証拠も無いままに、「 国際社会」の協力を仰いで、例えばビンラーディン氏への爆撃を行うと主張 し続けるのならば、一貫性の観点からは、具体的証拠が多数挙がっており、 国際社会との書面での合意に違反した、インドネシア軍のテロ行為に関して は、同様以上に、一般市民への被害を考慮せず、インドネシア軍将校たちへ の爆撃を主張すべきであったろう(少なくとも被害者である東チモールにそ れを進言するべきであったろう)。一方、もしインドネシアとの共同声明で 発表したように、「軍の改革と専門化を促進するために共に尽力する」とい うのなら、同様に、米国同時多発テロの執行者・組織を探し出した上で、そ の組織の改革と専門化促進のために、軍事協力と武器提供を行う(あるいは 別の大国にそれを依頼する)という選択肢も有り得たであろう[33]。

 実際に行われた取り引きは、まさに読売新聞の上記記事が指摘した通りの ものであった。メガワティ大統領は、(恐らくはアフガニスタンに対する) 米国の報復攻撃を原則支持するかわりに、自国のテロリストたちを処罰しな いでおくことへの(これまでの暗黙の)合意に加え、一歩進んで、武器提供 と軍事交流というさらなるテロリストへの支援を米国から取り付けたのであ る。


5.二〇〇一年九月、東チモール

 独立を選択した住民投票から二年たった二〇〇一年八月三〇日、新世紀最 初の独立国を目指す東チモールでは、制憲議会選挙が行われた。投票率九一 パーセント、インドネシア軍のいなくなった東チモールで、人々は子供を連 れ、リラックスして投票したと多くのメディアは伝えた。

 二〇〇一年九月には、東チモールの色々な場所で、二年前の虐殺犠牲者を 追悼する集会やミサが開かれた。九月三日にはディリで、インドネシア軍の 破壊と虐殺の犠牲となった人々の追悼に数千人の人々が参加し、蝋燭を灯し、 犠牲となった人々に祈りを捧げている。また、二〇〇名が犠牲となったスア イのアヴェ・マリア教会には、九月六日、多くの人が集まり、哀悼の花を捧 げたという。

 メガワティ大統領とブッシュ大統領の共同声明が発表される一日前の、一 九九九年九月一八日には、ベロ司教をはじめとする東チモールの指導者たち の主導で、米国同時多発テロの犠牲者を追悼する教会サービスが行われ、少 なからぬ人々が米国の犠牲者に哀悼の祈りを捧げた。

 その翌日、ブッシュとメガワティとが共同声明を発表したちょうどその日 に、シンガポールの新聞に、次のような記事が掲載された。

 インドネシア軍により殺害されたと疑われる一九九九年のオランダ人 ジャーナリスト殺害事件の調査をインドネシア当局は停止したという情 報が公にされてから、東チモールにおける人権侵害事件を裁判にかける と主張してきたインドネシアの立場に批判の声が挙がっている。

 (インドネシア)検事総長事務所は、ファイナンシャル・タイムズ紙 特派員サンデル・トーネスの調査を公式に停止したわけではないと述べ たが、同時に、一年以上前に調査が開始されてから、調査はほとんど進 んでいないことを認めた。

 同事務所のムリオハルジョ報道官は「我々は今も証拠と証人の証言を 待っている。それらなしに、どうやって調査を進めることができよう?」 と述べた。

 けれども、関係者は、この言葉を否定し、検察が真面目に証人を得よ うとしていたならば、それが難しかったはずはないと述べている。

 国連東チモール暫定統治機構(UNTAET)筋は、「これは全く言 い訳になっていない。というのも、証拠は国境のインドネシア側にあり、 また、我々は、これまでこちら側にあるものについては全面的に協力し てきたからだ」と答え、「この件は最も明瞭な事件であるはずだ」と述 べている。

     ・・・

 KPP−HAMというインドネシア語の略称で知られる、東チモール (での人権侵害)を調査するために設置された独立の委員会は、この殺 害にはインドネシア軍第七四五部隊兵士が関与しているとしている。

     ・・・

 KPP−HAMのメンバーだったムニール氏は、検事総長事務所は諸 事件が注目を集めなくなるまで時間稼ぎをしているのではないかと述べ た。

 関係者は、アブドゥル・ラフマン新検事総長---彼は東チモールでの5 つの事件の調査団を率いたのだが---はインドネシア軍(TNI)と関係 を持っているため、上級将校たちが容疑者とならないことは確実である と述べ、ラフマン検事総長を批判している[34]。

実際に挙がっている「批判の声」は僅かであり、今のところ、インドネシア での裁判を見守るとし国際法廷を保留にしていた国連からも、まずはインド ネシアに機会をと述べてきたメディアからも、この事実に対する大きな反応 はない。

 二〇〇一年一〇月に開催予定の国連総会では、テロリスト対策を討議する 予定であるという。その場で、東チモールに対して加えられた膨大なテロ行 為は言及されるだろうか。また、東チモール人が提唱し今も求め続けている 人権と法の下の正義という理念は検討されるだろうか。米国が、声を大にし て提唱するテロリストへの報復攻撃の陰で、密かにインドネシアのテロリス トたちへの支援を再開したという事実には言及されるだろうか。

 東チモールを標的としたテロと米国を標的としたテロとの対比から、私 たちが今立たされている岐路の行く先が見えてくる。

注・参考文献

1) ロニー・ハンセンからの電子メール(ronh@online.no)による。 http://groups.yahoo.com/group/timor-indonesia-nordic/message/120 から原文を入手することができる。

2) ジャカルタ・ポスト紙、一九九九年一一月二六日.遺体はインドネシア の調査団により発見された。

3) インドネシアによる東チモール併合を公式に認めたのはインドネシア自 身を除けばオーストラリアだけである。従って、国際的な立場から論理的に 言うならば、インドネシアの大統領に東チモール独立を「容認」する権利は ない。

4) 民兵がインドネシア軍により設置されたこと、多くの虐殺や残虐行為に インドネシア軍や警察が関与してきたことについては、膨大な目撃証言があ るとともに、多くの報告書に述べられている。残虐行為が続いている中で発 表された報告としては、

TAPOL (1999) The TNI's `Dirty War' in East Timor. London: TAPOL.

がある。また、一九九九年九月以降には、国連東チモール人権調査団報告

UN (2000) Report of the International Commission of Inquiry on East Timor to the Secretary General. UN.

や、インドネシアの人権調査団KPP−HAMの報告

KPP-HAM (2000) Exective Summary of the Report on the Investigation of Human Rights Violations in East Timor. Jakarta: KPP-HAM.

が公開されている。最近出された

UNICEF East Timor (2001) East Timorese Children involved in Armed Conflict: Case Studies Report October 2000 - February 2001. Dili: UNICEF East Timor.

には強制的に徴兵された元民兵の少年達による証言がある。さらに、オース トラリア軍諜報部隊のプランケット大尉は、オーストラリアSBSテレビの 番組(デートライン、二〇〇一年五月九日及び五月一六日放映)において、 同諜報部がインドネシア軍の関与を事前に把握していたが、それはオースト ラリア政府筋により公開されなかったと証言している。

 議論の余地があるのは、インドネシア軍が体系的に関与していたかどうか という点ではなく、体系的な関与はインドネシア軍のどの命令系統のどのレ ベルまで及ぶのかであり、また、個別の事件に誰がどこまで具体的に関わっ ていたかである。

5) John Martinkus (2001) A Dirty Little War: An Eyewitness Account of East Timor's Descent Into Hell, 1997-2000. Sydney: Random House Australia. p. 200. また、東チモールの人権団体ヤヤサン・ハックは多くの虐殺事件について 報告しており、それらの一部は、 http://www.etan.org/resource/elecRsrc.htm から、「Yayasan HAK」をキーワードとして検索できる。

6) 西チモール領土に囲まれた東チモールの飛び地、オイクシ地方では、 国際軍の展開が遅れたため、虐殺は一〇月に入っても続いた。

 なお、ここでは、一九九八年以降の残虐行為に問題を限っているが、東 チモールでは、二四年間にわたるインドネシア占領下で、一九八一年九月 のラクルタ虐殺(犠牲者四〇〇名)、一九八三年八月のクララス虐殺(犠 牲者二〇〇名)、一九八四年三月のハウバ虐殺(犠牲者一〇〇名)、一九 九一年一一月のサンタクルス虐殺(犠牲者三〇〇名)といった大規模な虐 殺が続いてきたこと、また直接の殺害に加え、強制キャンプに収容された ために引き起こされた飢餓や拷問等での死者を加えると、二〇万人にのぼ る人々が命を失ってきたことを改めて指摘しておこう。

7) インドネシア軍と民兵とによる破壊と虐殺は、さらに「人道に対する 罪」に相当する。ただし、本稿ではその議論には立ち入らない。要約的な 議論としては、

Dunn, James (2001) Crimes Against Humanity in East Timor, January to October 1999: Their Nature and Causes. Dili: Submitted to UNTAET.

を参照。

8) UN (2000), op. cit.

9) 南風島渉 (2000) 『いつかロロサエの森で 東ティモール・ゼロから の出発』 東京:コモンズ. p. 150.

10) 個別の復讐行為はいくつか報告されている。東チモール暫定行政機構 (UNTAET)が扱った最初の裁判の一つは、独立派の元ファリンティ ル兵士が民兵を殺害した事件である。

11) この追悼デモに参加した学生たちが「東チモールに独立を」と声を上 げて行進したのに対し、インドネシア軍が無差別発砲した事件が、注6)で 述べたサンタクルス虐殺事件である。

12) Belo, Carlos Xemenes (2001) "The path to freedom," 二〇〇一年 八月二八日に行われた講演.
http://www.theage.com.au/news/state/2001/08/28/FFXLKQRBVQC.html より入手可能。また、
East Timor NGO Forum (2001) 記者会見、二〇〇一年四月二三日.

13) インディペンデント紙、一九九九年一二月九日.
高橋奈緒子・益岡賢・文殊幹夫 (1999) 『東ティモール2:「住民投票」 後の状況と「正義」の行方』 東京:明石書店. p. 41.

14) KPP-HAM (2000), op. cit.

15) この問題には、国際法廷を巡る動き、インドネシアの法廷を巡る動き、 東チモールの法廷での動きが関連しているが、それらについて述べること は本稿の主旨からはずれるのでここでは扱わない。

Amnesty International (2001) East Timor: Justice Past, Present and Future. Amunesty International (ASA 57/001/2001 27/07/2001)

の特に第九章に簡単な要約がある。また、これまでの事実経過は、チモー ル・ロロサエ情報ページ
http://www.asahi-net.or.jp/~gc9n-tkhs/
のニュース欄から知ることができる。二〇〇一年一二月時点の最新の要約 は、特に、ラオ ・ハムツク会報第2巻第6/7号を参照。

16) Martinkus (2001), op. cit.

17) UNICEF (2001), op. cit, p. 80-84.
Martinkus (2001), op. cit, p. 174-175.
高橋奈緒子・益岡賢・文殊幹夫 (1999) 『東ティモール 奪われた独立・ 自由への闘い』 東京:明石書店. p. 56-57.

18) こうした報道の一貫した態度を表すにあたって、「偏向」という言葉 が、恐らく最も妥当であろう。

 なお、ここでは共同通信の例を挙げたが、朝日新聞・読売新聞・毎日新 聞等の有力紙の報道も同様である。それらについてはいちいちあげないが、 縮刷版やデータベース等で容易に確認可能である。

 ちなみに、ほとんどの新聞は、当時(そしてしばしば現在も)東チモー ルの独立を「インドネシアからの独立」あるいは「インドネシアからの分 離独立」と述べていた。注3)で述べたように、日本を含む国際社会は、イ ンドネシアによる東チモール併合を認めていないのであるから、この表現 自体、重大な偏向である。

 こうした表現を使っている当時の記事は余りに多いのでいちいち上げな いが、比較的最近の記事として、
「国をつくる 東ティモールは今」毎日新聞、二〇〇一年一月三〇日(中 坪央暁)
では「インドネシアとの独立戦争を闘った」と書かれている。曖昧な表現 であるが、「インドネシア」が相手であれば、「との独立戦争」ではなく 「からの解放戦争/闘争」がより適切な表現であろう。また、
「東ティモールPKF与党三党が視察団派遣へ」朝日新聞、二〇〇一年九 月一一日
では、驚いたことに、「インドネシアの東ティモールで活動している」と いう記述がある。ここまであからさまだと単なる誤りと思われるが、この 誤りが印刷されたという事実そのものが、報道関係者の東チモールに関す る知識と態度を表していよう。

19) 例えば、"Justice for East Timor," ワシントン・ポスト紙、インタ ーナショナル・ヘラルド・トリビューン紙二〇〇〇年二月二日社説. 一方、国際法廷を提唱する社説は、筆者は多少注意して見ていたが、目に していない。

 「インドネシアに機会を与えるべき」というのは、住民投票前、治安を 守るどころか自ら虐殺を指示しときに加わっていたインドネシアに対して も繰り返された言葉である。これにより、国際的圧力や介入は遅らされ、 インドネシア軍と民兵は数千人を殺害、全国の建物の七〇パーセントまで 破壊する時間を十分持つことができたのであった。

20) むろん、報復戦争が問題の解決にはならないという立場を取る米国人 も少なからずいた。

例えば、テロ直後の九月一四日に行われたニューヨー ク・ユニオンスクウェアでの追悼集会の横段幕は、「戦争は問題の解決に はならない」、「ニューヨーク市民は正義を望む・戦争を望まない」とい った内容のものが多かったという。また、東チモールへの連帯活動を続け てきた多くの人々も、報復戦争に反対であることを明言している。とはい え、様々な世論調査では、七〇パーセントから九〇パーセントの米国人が 報復戦争を支持しているという結果が出ている。

21) 引用は、読売新聞ウェブページ、九月二一日一二時一九分 http://www.yomiuri.co.jp/05/20010921id06.htm から。(執筆時)

22) 引用は、毎日新聞ウェブページ、九月二二日一一時三七分 http://www12.mainichi.co.jp/news/search-news/834493/82d82t-0-6.html から。(執筆時)

23) 新聞記事やテレビニュースについては、個別に言及する必要もないほ どこの点は明らかであろう。また、週間ニュース誌の
AERA緊急増刊(No. 42-9/30日号)
Yomiuri Weekly臨時増刊(10月1日号)
なども全体のトーンは同様である。

24) ちなみに、全ての番組をチェックできているわけではないが、NHK がインドネシア軍の関与を最初に明言したのは、二〇〇〇年一一月二五日 に放送された「東ティモール・暗黒の9月の記録〜アグスが遺したビデオ テープ」においてであると思われる。アグス・ムリアワン氏は日本の通信 社アジアプレスと契約していたインドネシア人ジャーナリストで、九月二 五日、ロスパロス郊外で殺害されるまで、東チモールの様子をビデオに撮 っていた。彼のビデオの中には、「治安」のために増派されたインドネシ ア軍戦略予備軍(Kostrad)の兵士が、国連が残した車の部品を略 奪しているところまで写されている。

25) AERA, op. cit.
Yomiuri Weekly, op. cit.

26) 加藤尚武(kato@kankyo-u.ac.jp)、二〇〇一年九月二二日.加藤は このアピールをいくつかの新聞の論説委員にも送ったが返事がなかったと 述べている。

27) 例えば、 松井芳郎 (2001) 『国際法から世界を見る:市民のための国際法入門』 東京:東信堂. を参照。詳細については、国際法の専門家の見解と議論を待つべきであろ うが、そうした議論は、報復「戦争」を巡る報道の中でほとんど伝わって こない。国際法的に見て報復行動がどのように位置づけられるかを巡る議 論そのものが隠れてしまっていること自体、米国の同時多発テロを巡る対 応の大きな問題である。

28) AI Index AMR 51/138/2001, 二〇〇一年九月二〇日.
http://www.incl.ne.jp/ktrs/aijapan/2001/09/010902.htm

29) Belo (2001), op. cit. East Timor NGO Forum (2001), op. cit.

30) 読売新聞、ジャカルタ発九月一四日(本田路晴).

なお、この記事では一九九九年の東チモール報道で見られた偏向が次のよ うに繰り返されている。

「米国から九九年九月に東ティモールで起きた併合派民兵による住民 虐殺で国軍が治安の責任を怠ったとして凍結されていた軍事交流」
クリントンは一九九九年九月一〇日、インドネシアへの軍事援助を凍結す る際、「いまや、インドネシア軍が暴力を助けそそのかしていることは明 らかである。これは受け入れられない。インドネシア軍の東チモールでの 行いは、国際社会がインドネシア軍の与えた任務と逆だ」と明言している のである(AFP通信、ワシントン発九月一〇日)。

31) ホワイトハウス発表:アメリカ合衆国とインドネシア共和国の共同声 明、二〇〇一年九月一九日.
http://www.whitehouse.gov/news/releases/2001/09/20010919-5.html

 日本語版及び若干の分析については、ロロサエ・ページの
http://www.asahi-net.or.jp/~gc9n-tkhs/megbush.html
を参照のこと。

32) Ibid.

33) 誤解の無いように言っておくが、筆者はこのいずれにも反対である。 どちらのテロも、法的な枠組みに従って平和的に対処すべきだと考えてい る。

34) ストレイツ・タイムズ紙、二〇〇一年九月一九日.
また、この件に関連する記事は、 "Slaughter and Hiding in Plain Sight" テンポ誌,二〇〇一年九月一八 −二四日号
にもある。


一つ上へ   益岡賢 2001年12月13日
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