WTO  
シリーズ 1: シアトルの戦い
2001年11月
シアトルで何が起こったのか
                  
 WTO(世界貿易機関)の第3回閣僚会議は、1999年11月30日から12月3日まで、米国のシアトルで開かれた。しかし、この会議は、宣言文をめぐって参加国の合意が得られなかったばかりでなく、会議そのものが流産してしまった。さらに、シアトル合意にもとづいて、2000年1月に開始を予定していた「新多角的貿易交渉(ミレニアム・ラウンド)」は、2年後の閣僚会議まで先送りされることになった。
 シアトルで起こったことは、国際政治の歴史上、まさに前代未聞であった。WTOの存在自体が問われたのであった。
 同時に、会議の決裂に大きな影響を及ぼしたNGO・市民社会の評価をめぐって、国際的に議論が巻き起こった。世界に産業界の意見を反映していると言われる英誌『エコノミスト』は、シアトル直後から、NGOについての分析記事を連載した。経団連の今井敬会長が、2000年1月、スイスのダボスでの「世界経済フォーラム」において、「NGOはだれの利益を代表しているかわからない」と発言し、ドイツ連銀総裁など欧米の財界人にたしなめられるという事件までおこっている。もはや、国際政治において、NGOの存在と意見を無視することはできないのだ。
 シアトルでは、WTO加盟国135カ国の政府代表が到着する前に、米国内はもとより、世界各地から労働者、市民、NGOがぞくぞくと結集した。その数は、1995年9月、北京での第4回世界女性会議におけるNGO参加者数35,000人をしのぐ、70,000人にのぼった。これは、やがてシアトルで起こった異変の前兆であった。

1)シアトルに結集を呼びかけたのは誰か

(1)WTOを中から変える

 NGOの運動には、リーダーはいない。しかし、シアトルのデモを成功させたのいくつかの団体の主宰者のプロフィールと、その戦略を明らかにする必要があるだろう。
 まず第1に、ワシントンの消費者ロビイストであり、先の米大統領選挙に出馬した、ラルフ・ネーダーが主宰する「パブリック・シチズン(Public Citizen)」が挙げられる。パブリック・シチズンは、WTOシアトル会議に向けて、新しく「市民の貿易キャンペーン(Citizens' Trade Campaign―CTC)」という国際的ネットワークを立ち上げた。これは、労働、環境、農民、消費者、人権、法律家など広範なネットワークによって構成された。
 そして、パブリック・シチズンは、1999年5月、インターネットを通じて、世界中のNGOに対して、WTOの「ミレニアム・ラウンド」に反対する声明案への賛同を呼びかけている。声明の趣旨は、「多国籍企業は、国家の主権を超える存在となり、市民の生活を脅かしている。したがって、WTOの貿易交渉に対して、市民の立場に立つように要求する」というものであった。これに対して、65カ国、600の団体とネットワークが署名した。
 「パブリック・シチズン」は、そもそも1992年のミュンヘンG7サミット以来、経済弁護士のロリ・ワラチと刑事弁護士のマイケル・ドランを雇い、GATT、そしてWTOの貿易交渉の秘密主義を暴く「太陽作戦」を展開してきた。今回、ドランをCTC担当に任命し、シアトルにおけるNGO、市民の結集にあたった。
 第2に、米国最大の労働組合AFL-CIOが、労働者に対して、シアトル・デモを呼びかけた。
 このほか、農民、環境、債務帳消しをキャンペーンしているジュビリー2000など、数え切れないほどの国際的ネットワークがシアトルほの結集を呼びかけた。

(2)WTOを解体する

 以上のネットワークは、どちらかと言えば、WTOを中から変えて行くという立場である。これに対して、WTOそのものを解体するというグループがある。
 その中でも、政府代表の閣僚会議場への入場阻止を呼びかけた「直接行動ネットワーク(DAN)」は、重要である。DANの戦略はマハトマ・ガンジーの「非暴力不服従」を見習ったものである。閣僚会議の始まる数日前から、どのように政府代表の入場を阻止するかについての短期講習を行っていた。まず、少数のグループに分かれ、それぞれ自立して行動する。グループにはリーダーがいるが、それは全体を統率するのではなく、あくまでもグループ間の調整役にとどまる。第2に、非暴力の歴史と哲学を教えた。第3のカリキュラムとして、警察の弾圧にどのように対処するかという技術についての研修を行う。これは、阻止行動中の心得とともに、逮捕されたときの法的な(ミランダ条項を含めた)権利、拘置所内での連帯行動などが含まれていた。
 当日の参加者に対しては、言葉を含めて全ての暴力行為をしない、武器や麻薬、アルコールを持ち込まない、そして、他人の財産を破壊しない、という非暴力のガイドラインの尊重が求められた。さらに、直接阻止行動の実行グループの外に、救急医療班、逮捕者のための弁護士グループも準備された。
 このほか、途上国のNGO、農民組織が主となった「Peoples'Global Action(PGA)」がある。これは、1999年8月、インドのバンガローで国際会議を開いた。そこで、ラテン・アメリカの農民や先住民がシアトルに向けて行進するという計画を採択したのであった。
 最後に英国に本拠を置く「Reclaim the Street」と「Earth First」というアナーキストのグループがある。彼らは、古典的な意味でのアナ―キスト(無政府主義者)ではなく、むしろ資本主義否定派とも呼ぶべきである。すでにシアトル会議の数ヵ月前からインターネットで、「世界同時破壊活動」を呼びかけていた。

2)シアトルの戦い

 閣僚会議が始まる数日前から、シアトル市内では、ワークショップ、ティーチ・イン、展示会、演劇、音楽などの文化的行事が催されていた。
 なかでも、前日の11月29日にシアトル市内でジュビリー2000が呼びかけた「人間の鎖」行動は特筆に値する。それは主催者の予想をはるかに超え、35,000人に達した。この鎖の中に、途上国の政府代表の姿も見られた。
 このデモのあおりを受けて、同じ時間帯にマイクロソフトのビル・ゲイツ社長が招待した豪華なレセプションががらがらの状態になってしまった。これはWTOの本質を物語る象徴的な出来事であった。
 閣僚会議第1日目の翌30日火曜日は、DANの呼びかけで、早朝6時ころから何千人ものNGO活動家が会議場を包囲し、スクラムを組んで政府代表の入場を阻止した。その結果、午前に予定されていた開会式はキャンセルされた。午後には、全体会議がスタートしたが、かろうじて数カ国の代表が演説しただけに終わってしまった。
 この日は1日中、シアトルの中心街はWTOに反対する市民で占拠された。道路はさまざまな旗、プラカード、バナー、また巨大な人形であふれかえった。ドラムやトロンボーンの音が鳴り響き、60年代のロックがマイクのボリュウーム一杯に溢れ出した。
 路上では、WTOを暴く劇が、数多く繰り広げられた。WWFなどの巨大な環境保護団体がデモを呼びかけ、カメに扮した人が踊っているかと思えば、一方では、米国最大の労組AFL-CIOが組織した20,000人の労働者のデモがあった。農民、消費者、女性、NGO、市民がデモに参加した。そのほとんどは平和的なデモであった。
 WTOに反対する30日のデモは、シアトルに限らなかった。日本だけがその例外であった。ロンドン、パリ、ジュネーブ、ニューデリー、マニラなど世界の主要都市でデモが行われた。その数は50,000〜70,000人に達し、「20世紀最大の抗議行動」となった。
 夕方になると、シアトルやロンドンでは、「Reclaim the Street」など少数のアナーキストが暴力行為を始めた。シアトルでは、彼らは、グローバリゼーションを象徴するマクドナルドやスターバックスを襲撃した。店のショーウインドウをハンマーで壊したり、路上で火を焚いたりした。これが引き金となって、シアトルの失業中の若者が宝石店のショウインドウを壊して、略奪行為を働いた。
 マスコミが、この映像を繰り返し全世界に報道したため、シアトル=暴力行為という構図が定着してしまった。しかし、これは11月30日夕方の短い時間の、しかも少数の若者の行為にすぎない。
 当日は朝から、すでに市民と警察との緊張が高まっていたのだが、これをもって、警察は一斉にデモの制圧に乗り出した。催涙ガスを放射し、ゴム弾を発射し、目にチリ・スプレーをかけるといった弾圧を行った。夕刻になると、シアトル市長が市の中心街に戒厳令を敷き、夕方7時から翌朝7時まで60区画を外出禁止とした。そして警察は無差別逮捕を開始した。逮捕者の数は1,000人に達し、その中の多くは非暴力のデモの参加者であった。
 こうして、その後「シアトルの戦い」と呼ばれる1999年11月30日は暮れた。

WTO閣僚会議の決裂

 1夜明けて、第2日目の12月1日、クリントン大統領がシアトル入りをした。ここでクリントンは、2つの重大な失策を犯した。1つは、シアトルに向かう大統領専用機の中で、「反WTOデモを支持する」と語ったことだった。これは、米国以外のすべての貿易担当相を憤激させた。さらに、シアトルの新聞に、米国の交渉の目的は、「労働条件を貿易にリンクさえる」ことにある、とも語った。これは、これまで米国の保護主義だとして、一貫して途上国が反対してきた点であった。最近まで、EUの貿易代表であったレオン・ブリテン卿は、これらクリントンの発言を、WTOの失敗をもたらした「ボディ・ブローであった」と評した。
 この日を含めて、続く2日間のWTOの交渉は混乱を極めた。その背景として、WTOの事務局長の選任が揉めて、ニュージーランドの元首相、マイク・ムーアが就任したのが1999年9月だったこと、さらに、ジュネーブにおいて1999年7月から始まった事務レベル交渉では、錯綜する政府間の利害の調整がまったく進まず、理事会議長であるタンザニア大使が、シアトルの閣僚会議で採択すべき宣言最終草案を、WTO理事会のメンバーに提出したのが、シアトル会議開催まで3週間たらずの10月19日であったこと、などが挙げられる。しかも32ページに上るこの草案のテキストには、合意に達していない個所を示す[ ]が200ヶ所も付いていた。これを実質3日間の閣僚会議の交渉に任せるということは、不可能というものであった。
 閣僚会議は、「グリーン・ルーム」と呼ばれるWTOの伝統的なやり方で進められた。これは、米国、EU、日本などの先進国に、ブラジル、インド、マレーシアなど先進国のお気に入りの国が恣意的に選ばれて加わる、というものだ。ここでは、もっぱら米国とEU間の合意が優先される。総会はグリーン・ルームの合意事項にゴム印を押すところにすぎない。したがって、途上国の多くの政府代表にとっては、何がどこで議論されているのか、全くわからない。
 会議最終日の12月3日、日本や途上国が主張していた現行の反ダンピング協定の見直し条項が、宣言に採り入れられた。これを知った米国は強く反対した。クリントン大統領自身が小渕首相に急遽電話会談を申し入れ、協力を要請するなど、猛烈な撒き返しを図った。しかし、日本は「これを譲歩すると、以後途上国から2度と信用されない」として、拒否した。日本政府が、米国に盾突いたのは、はじめてのことであった。
 同じ金曜日未明に、農産物の補助金をめぐって、米通商代表部のバシェフスキー代表とEUのラミー代表がやっと共通の理解に達した。ラミー代表は、日本や韓国が主張していた農業の「多面的機能」という言葉を宣言から削除することに合意した、と言われる。
 ラミー代表は、このときEU諸国の代表に報告しなければならないとして、休憩を申し出た。しかし、その裏切りをEUの貿易担当相たちになじられたラミー代表は、その後6時間も雲隠れしてしまった。これは閣僚会議の議長でもあるバシェフスキー代表にとってショックであった。この時点で彼女は「シアトルは失敗」であったことを悟った。
 ムーア事務局長は、会議を「失敗」とするバシェフスキー代表の考えに激しく抵抗し、会議を延長してまで宣言をまとめようと主張したが、誰にも支持されなかった。そして、金曜日の夜10時30分、バシェフスキー議長は、「会議を凍結し、ジュネーブで継続協議する」と宣言した。こうして、シアトル会議は流産したのであった。