世界の底流  

イエメンの春と政治的混乱

2015年2月20日
北沢洋子

1.「イエメンの春」のはじまり

 2011年1月16日、イエメンで、チュニジアの春に続いて、「イエメンの春」が起こっていた。まず首都のサナア大学の学生たちが「サレハ大統領退陣」を要求する集会を開いた。27年間政権の座についていたサレハ大統領は息子を次期大統領にしようとしていた。
 これに、市民が加わり、たちまち数万人のデモになった。サレハ大統領の即時退陣を求めるデモ隊は、大学前の広場を「自由広場」と名づけて、座り込んだ。
 やがて、3月18日、治安部隊が非武装のデモ隊に向かって銃撃を開始した。この弾圧に対して、大統領の身内からも反対の声が挙がった。政府軍の将校、与党の議員、西側諸国などが、反対した。そのため、サレハ大統領は弾圧を続行できなくなった。
 大統領は、代わりに、隣国のサウジアラビアに仲介を頼んだ。「湾岸協力評議会(GCC)」の名のもとに出されたサウジアラビアの提案は、「サレハの辞任と追訴免除」であった。デモ側は、「追訴免除」を不満として拒否し、サレハは、自分が要請しておきながら、調停文書に署名しなかった。
 サナア大学の学生たちの平和的な集会から始まった、「大統領退陣」の声に、イエメン国内のほとんどの反大統領派の勢力が加わった。自由広場に座りこんだ市民、武装した部族勢力、イスラム教の「スンニー派」と「シーア派」勢力、さらに「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」と「アンサール・アル・シャリア」がいる。最後の2勢力は、南部で武装闘争を展開し、いくつかの都市を占領していた。
 6月3日、大統領府で爆弾事件が起こり、サレハは負傷し、治療と称して、サウジアラビアに出国した。この大統領の不在中、イエメンでは、反政府派の間で衝突が起こり、情勢は混沌としていた。10月20日、国連安保理が、サウジアラビアの調停案の受け入れ、デモ弾圧の責任追及を求める安保理決議2014号を採択した。
孤立無援となったサレハは、11月23日、ついに調停案に署名し、ハディ副大統領が後を継いだ。
 この間、米国は、AQAPに対して、無人機による攻撃を行い、9月30日、指導者アンワル・アウラキを殺害した。アウラキが米国籍であったため、米国民を逮捕や裁判なしに殺害したことに、米国内はもとより、国際刑事裁判所からも非難の声が上がった。また、米軍の無人機はAQAPを都市から追い出すことに成功した。しかし、これで、AQAPの脅威が無くなったわけではない。
 米政府は、2000年10月12日、AQAPがアデン湾内で米駆逐艦コール号を攻撃したことに対する報復であると宣言した。
 今年に入って、パリの週刊紙を襲撃したクアシ兄弟は、AQAPのメンバーであると名乗った。「ユーチューブ」に公開された人物も「AQAP」の犯行であると述べた。両兄弟は、イエメンで軍事訓練を受けたと言っている。

2.イエメンとは

  イエメンは、紀元前7世紀頃繁栄した「シバ王国」で知られる。交易の中心地として栄え、ローマ時代には「幸福のアラビア」と呼ばれた。
 1939年、アラビア半島の南端、スエズ運河に通じる紅海の入口に位置している要衝の地であることから、英国がアデン港を含むイエメン南部をオスマントルコから奪って、保護領にした。
 そして、1967年、南イエメンで、マルクス=レーニン主義の社会党がイギリスから独立して「南イエメン人民共和国」となる。中東における初の社会主義国であった。しかし、ソ連の崩壊以後、経済的な後ろ盾を失った南イエメンは、1990年5月22日、北部のイエメン・アラブ共和国と合併して、イエメン共和国となった。初代大統領には、北の大統領であったアリ・アブドラ・サレハが就任した。
 イエメンは、石油も採れず、中東で最も貧しい国である。ジュビリーの時、世銀が認定した重債務最貧国(HIPCs)42カ国のなかで、アジアでは、ネパールと並んでイエメンが入っていた。
 人口の50%は、1日当たりの収入が2ドル以下という絶対的貧困下にある。したがって、イエメンの政治的混乱は、これら貧困層に飢えと疫病をもたらしている。

3.フーシ派が権力を掌握 

  昨年8月、政府の燃料価格の値上げに対して、市民などによる反政府勢力のデモが活発化した。9月に入ると、これに乗じたフーシ派の武装勢力と治安部隊の衝突が激化した。武装勢力はサヌアの国防省や中央銀行、国立テレビ局、そして大統領官邸など主要な政府庁舎を占拠した。
 これは、事実上のクーデターであった。米国に支持されたハディ大統領は、完全に権力を失った。1月末、国連安保理は、「ハディ大統領を正当なイエメンの代表」と認める声明を発表した。これに対抗して、フーシ派は、今年2月6日、議会の解散と暫定政府の樹立を宣言した。
 詳しく言うと、彼らは、イエメンのシーア派の一派である「アンサール・アラー(神の支持者たち)」である。彼らはフーシ氏族であるところから俗称「フーシ派」と呼ばれる。彼らは、イエメンの人口1,600万の3分の1を占めている。フーシ派のリーダーはスーシの族長であるアブデル・マリク・アルフーシである。彼は、1月20日、テレビで、ハディ大統領をその座から引きずり落とすつもりはなく、ただフーシ派が要求する政治改革の執行を早めることを要求した。
 フーシ派武装勢力は1992年に結成された。北部で、04年頃から、サレハ政権の治安部隊と、主な戦闘だけでも、6回にわたって、戦ってきた。
 フーシ派がイスラム教のシーア派であり、スンニー派系のAQAPと対立することになる。しかし、AQAPは、米国を主な敵として戦う国際主義者であるが、一方では、フーシ派はイエメン国内の権力掌握をめざしている。両派は、目指すものが異なり、活動地域も異なる。フーシ派は首都サナアと北部サダ州を支配しており、AQAPはアデンと、その南部で活動している。したがって、今のところ、棲み分けが可能にしている。
 しかし、これら武装勢力の対立や戦闘が激化に乗じて、一旦は、国外に難を逃れていた南部の旧社会党による分離独立の動きが出てきている。