世界の底流  

黒いアフリカの春

2015年1月14日
北沢洋子

  昨年10月30日、西アフリカのブルキナファソで政変が起こった。日本のマスコミは僅か100字のベタ記事が1回載っただけだったが、実際には、アラブの春に次ぐ市民社会の大デモが、独裁政権を打倒したのであった。
 市民による街頭デモが、長期独裁政権を倒したチュニジア、エジプトという北アフリカの「アラブの春」が、サハラ以南のアフリカの長期独裁政権に対しても続くと期待されていたが、ブルキナファソがその最初の例となった。
 今回、ブルキナファソで、デモによって打倒されたブレーズ・コンパオレ政権は、1987年にクーデターでトーマス・サンカラ社会主義政権を倒し、以来27年間にわたって、独裁政治を続けてきた。コンパオレ大統領は、この独裁政権の更なる多選を可能にする憲法改正案を準備していた。
 これに対して、昨年10月半ばから、野党や市民が抗議デモを続けてきた。ついに、10月30日、首都ワガデュグーでは、巨大な街頭デモに加えて、国営放送局を占拠し、議事堂や大統領の親戚の家などに火をつけるなど、暴力化した。
 コンパオレ大統領は、辞任を拒否し、戒厳令を宣言した。しかし、デモは止まず、ますます暴力的になった。そこで大統領は、地方のラジオ放送局を通じて、「任期延長の法案を撤回、または、延期する」と約束した。
 それでも、デモは続いた。夜半に入り、大統領は、「危機を解決するため」に、内閣を解散し、野党と話し合いに応じる」と宣言した。
 大統領の辞任宣言に対して、軍が動いた。10月31日夜、陸軍参謀長のオノレ・ナベレ・トラオレ将軍が記者会見で、「暫定内閣が任命され、12カ月以内に、選挙を行う」と発表した。しかし、彼は、暫定内閣を任命するのは誰かについては、明らかにしなかった。その後、大統領府の警備隊のイサック・ザイダ大佐の名が挙がったが、デモ側は、民間人をノミネートすることを要求している。
 また、彼は、日の入りから夜明けまでの外出禁止令を発布した。しかし、夜半になっても、街頭デモは続き、誰も軍の命令に従うものはいなかった。
 軍は、国境を封鎖した。また、記者の入国ビザが拒否された。国際空港が封鎖された。これについては、国内の動乱を拡大しないための外交辞令であると、ニューヨークの国連大使は語った。
 コンパオレ大統領は、家族とともに、隣国の象牙海岸に亡命したと見られる。彼の去就については、他のアフリアの長期政権が固唾を飲んで見ている。
 大統領宮殿に入ろうとするデモ隊にむかって、警察は催涙弾を発射した。数人の死者が出たと言う話もある。それ以後24時間のデモ側の状況は、混乱を極めた。34の野党と市民団体の代表が会合を持ち、その結果、11月1日の土曜日と2日の日曜日にデモが呼びかけられた、この場合のデモは、コンパオレに対してではなく、軍指導部に向けられた。
 しかし、反対派34団体の意見が一致しているわけではない。というのは、野党の中に、軍の行動を容認するものがいる。一方、トラオレ将軍も、ザイダ大佐もコンパオレ前大統領に近かったためである。
 旧植民地宗主国であるフランスは、現在もなお、ブルキナファソに特殊部隊の基地を持っている。フランスは「暴力を止め、冷静になれ」という意味不明の声明を出した。フランスにとって、これまで、コンパオレ大統領は、アルカイダのイスラム過激派との闘いにおける最大の同盟と見られてきた。これが、フランスの奇妙な態度の理由である。