世界の底流  
南アの中央アフリカ共和国への派兵

2013年4月24日
北沢洋子

1.南アの中央アフリカ共和国の内戦に派兵

昨年12月、中央アフリカ共和国(RCA)で反政府勢力「Seleka(セレカ)」の攻撃が再発した。その支配地域である東北部から進撃を開始し、たちまち首都バンギに迫った。Fracois Bozize(ボジゼ)大統領は南アフリカ共和国を訪れ、軍事援助を懇願した。そこで、ズマ大統領は、今年1月2日、Mapisa-Nwakula国防相の反対を押し切って、Bozize独裁政権に、すでに派兵していた26人の訓練要員に加え、新たに298人の特殊降下部隊を派兵した。

Ebrahim Ebrahim前副外相は、派兵の目的を質問された時、南アが「ボジゼ政権に高性能の武器を提供したこと」を認め、その理由として、南アは、「とくにダイアモンドやウランなどの鉱物資源の権益を持っている。これには、ボジゼ政権の協力が必要だ」と答えた。これは、今まで、先進国が、旧植民地国に対して取ってきた政策と変わらない。

アフリカ諸国への南アの軍事介入は、これが始めてでない。ここ10年間、南アは、アフリカ大陸において、最大の平和維持部隊の派兵国である。すでに南アは、スダンやマリに派兵している。

正規軍の派兵ではなくても、南アは軍事介入している。民主コンゴ共和国の東部で、500万人が虐殺されている最中に、南アのヨハネスブルグに本社を置く鉱山会社Anglo Gold Ashanti社は、虐殺の張本人の軍閥に、傭兵と武器の費用を提供した。また、ジンバブエ軍、中国企業、南ア企業が三者一体になって、数十億ドルものダイアモンドの権益を守るために、ムガベ政権を支援した。

中央アフリカ経済共同体(ECCAS)のメンバーであるガボン、チャド、カメルーン、アンゴラ、コンゴ共和国などが、総勢56人の軍隊をバンギに送っている。しかし、この人数では、シンボリックな存在にしか過ぎない。

南アは、RCAとの間で、派兵協定を18年3月まで延長した。ズマ大統領は議会の質問に「派兵の費用は月に2,100万ランド(1ランド=10.82円)、18年までに総額12億8,000万ランド必要になる」と答えた。

2.南ア軍の敗北

ズマ大統領は、「南ア軍は、RCA在住の南ア国民の財産を守るために、国中に散らばって駐留している」と述べた。しかし、南ア軍は現地で歓迎されていない。

南ア兵が子どもを無差別に殺戮したからだ。ある南ア兵は、「銃撃戦が終わったら、そこに子どもが死んでいた。助かった子どもも母親に助けを求めて泣いていた。我々は子どもを殺しに来たのではない」と語った。

今年3月23日に起こった反政府軍との大規模な戦闘で、13人の南ア軍の兵士が戦死し、27人が負傷した。Selekaの総司令官Arda Hakouma将軍の発表では、南ア軍の戦死者数は35人となっている。 

バンギから1.5km離れた郊外Boali の南ア軍の基地が攻撃に晒されたのであった。3,000人に上る反政府軍は、AK-47銃で武装していた。戦闘は9+13時間続き、最後に、南ア軍が白旗を掲げて投降した。

生き残った南ア軍は、戦闘の恐怖でトラウマになり、帰国した。彼らは政府に騙されたと思っている。政府は派兵に際して、反乱軍は「アマチュアだからたいしたことはない。RCA軍が援護してくれる。単に平和維持のためだ」と説明していたからだ。ところが、RCA軍は最初の一発の銃声で、われがちに逃げた。また約束された野戦病院も存在しなかったし、空からの援護爆撃もなかった。

現在、RCAに残っている南ア軍は25人に減った。代わりにフランスが250人を派兵した。しかし、フランスは、自国民に対して、悪名高いボジゼを守るために派兵するとは言えない。この部隊は「フランス大使館と自国民1,000人を守るという任務に限られる」と弁明している。

一方、南アは、CRA国境に近いウガンダのエンテベに基地を建設している。南アから軍

輸送機が盛んに飛来している。しかし、この基地についての南ア政府の説明はない。

折から、ダーバンで、BRICSサミットが開催されていた。RCAでの南ア軍の敗北は、アフリカ大陸での南アの権威を大いに傷つけることになった。

3.RCAの反政府軍とは

RCAは、赤道直下だが、ほとんど砂漠の内陸国である。ウバンギ川に面し、コンゴ民主共和国との国境沿いにある首都バンギを取り囲むように熱帯雨林があるが、それも国土の8%でしかない。人口440万人、ほとんどが、1日当たり1ドル以下の収入で、貧しい。

RCAは、1960年、フランスから独立した。このとき、「黒アフリカ社会進歩運動 (MESAN)」のリーダーで、フランスの傀儡ダッコが初代大統領になった。典型的な新植民地主義である。

1965年、ボカサ中佐がクーデターで政権に就き、独裁政治を敷いた。77年、2,000万ドルを使って戴冠式を行い、自ら「皇帝」と名乗った。しかし、世界中が認めず、ほとんどジョークの種になった。

79年、フランスがクーデターを起こし、初代大統領だったダッコを政権の座に復帰させた。しかし、その後、クーデターが相次ぎ、2003年、ボジゼ“将軍“が大統領に就任した。

翌04年7月、北東部に勢力を持つ「統一民主勢力連合(UFDR)」が、反乱を起こした。これは「Bush War(やぶの中の戦争)」と呼ばれた。07年4月、「中央アフリカ経済共同体(ECCCA)」が仲介して、ガボンの首都リーブルビルで、ボジゼ大統領とUFDRとの間に和平協定が成立した。そして、09年1月、UFDRが「統一政府」を提案したが、ボジゼがこれを拒否した。

咋年12月10日、内戦が再発した。今度は「Seleka」と名乗る反政府軍が、07年の和平協定を「無効」と宣言した。「Seleka」とは「連合」を意味し、04年に反乱を起こしたUDFRを始め、「正義と平和愛国者条約「(CPJP)」、CPJPの過激派の分派「救国愛国者条約(CPJP)」などが加わっている。 

南ア軍が大量の死傷者を出した同じ日の3月23日、Selekaは2時間の戦闘で、首都バンギを占領した。翌3月24日、ボジセ大統領は、国外に逃亡した。大統領府の警備隊は、銃撃が始まる前に、2台の戦車を置き去りにして、逃亡していた。SelekaのHakouma総司令官は、ボジゼを逮捕出来なかったことを悔やんでいた。

4.フランスの覇権

Seleka の代表であるUDFRのMichel Djotodia(ジョトディア)は、選挙なしに向こう3年間、大統領に就任すると宣言した。彼は、政府と議会を解散し、憲法を廃止した。Seleka軍が大統領府やUNICEF事務所を掠奪した。それでもフランスは、「出る幕ではない」と知らん顔をした。フランス軍がRCAで発砲したのは、空港で民間人の自動車3台に発砲しただけであった。この発砲で、2人のインド人が殺された。

フランスは旧フランス領マリの内戦に、4、00人の地上軍を送り、空爆した。これは、「テロに対して民主主義を守るため」という口実で、反政府勢力を封じ込めた。リビアでもフランスは、同じ名目で、NATO軍に参加した。

しかし、フランスは、マリにAmadou Toumani Toure前大統領のリベラルな民主主義を回復しようとしなかった。代わりに、フランスは、トゥアレグの反政府軍を武装解除し、その結果、20万人の難民が隣国ブルキナファソに押し寄せることになった。

国連人権理事会によると、マリ政府軍がトァアレグ族とアラブに対して民族浄化政策を実行し、また、国連が「食糧飢饉で餓死者が出ている」と発表した直後、フランス軍が介入したのであった。

フランスのアレバ社は、2007年、RCAのBakouma地区のウラン鉱山の権益を買った。これは、かなり怪しい取引であった。昨年、隣国のチャドのイスラム主義者の「回復人民戦線(FPR)」ゲリラが鉱山を攻撃し、セレカ支持を表明した。これに対しても、フランスはRCAに派兵しようとしなかった。Selekaに加盟しているCPJPは2010年、チャドとの国境近くのBiraoを占領した。元フランス外人部隊員でRCAの情報局長Guy-Jean La Foll Yamandeは暗殺される前に「フランスはCPJPの攻撃を事前に知っていたが、ボジゼ大統領に知らせなかった」と言った。フランスは口語に反政府勢力を操っていたのである。

RCAは、石油開発権を中国に売った。またウラン鉱の開発権を南アフリカに売った。これがフランスを怒らせた原因であった。しかし、ボジゼに言わせると、事前にフランスのTotalに断られ、フランスにウラン鉱山の資料を拒否された結果、中国や南アに売ったのだと言う。

Selekaは、反ボジゼでは結束していたが、権力を取った後のことは何も決まっていない。このことも、フランスが介入に及び腰なことの理由だろう。また、南ア軍のバンギでの惨めな敗北に気を使ったのかもしれない。