世界の底流  
コロンビアに平和が訪れるか

2012年12月11日
北沢洋子

1.サントス政権の誕生

 2003年1月のブラジルのルラ労働党政権の誕生を皮切りに、選挙を通じて民主的に、南米大陸のすべてに、中道左派、あるいは左派政権が誕生した。
 しかし、コロンビアだけは例外だった。1964年以来半世紀近く、コロンビアは、左翼ゲリラ、政府軍、民兵、麻薬ギャングなどの間で、内戦が続いた。この間、コロンビアは親米・右翼強権政治下にあった。主要なゲリラ勢力である「コロンビア革命軍(FARC)」は世界中で最も古く、また長く続いたマルクス主義の左翼ゲリラである。
 そのため、コロンビアは民主主義がなく、暴力がすべてを支配する国であった。1960年代、ケネディ大統領の「進歩のための同盟」も、1990年代の麻薬撲滅のための枯葉作戦「コロンビア計画」もコロンビアの対米協力が必須条件であった。
 2010年、対ゲリラでは最も親米寄りだったウリベ大統領に代わって、サントスが大統領に就任した。サントスが大統領就任直後の2010年7月に首都ボゴタの南にあるマカレナで、2,000人を超える虐殺死体が発見された。この事件はコロンビア国内、国外ともに衝撃を与えた。
 サントスはウリベ政権の国防相であった。左翼ゲリラ撲滅を最優先したウリベと何ら変わるものでない。しかし、国際社会の糾弾を浴びて、サントス大統領はゲリラとの和平教協定に臨まざるを得なくなった。
 8月27日、サントス大統領は、「ベネズエラ、チリ、ノルウエイ、キューバなどの仲介で、FARCとの和平交渉を再開する」ことを発表した。

2.和平交渉の謎と背景

  なぜこの時期にサントス大統領は和平交渉に踏みきったのだろうか?それは、政府軍、ゲリラ双方ともに勝利することが出来ないということを悟ったからだ。
 第1に、ウリベ時代(2002〜2010)に政府の掃討作戦で、FARCは後退を余儀なくされたが、すぐに兵力を再編し、2008年には勢力を盛り返した。FARCは、政府軍の急襲作戦で、トップのリーダー何人かを失った。しかし、4年前ぐらい前からFARCは、地雷、狙撃作戦、爆弾攻撃などでもって政府軍に対して反撃に出ている。
 コロンビア議会の2011年の報告書によると、FARCはコロンビア全土の「3分の1をゲリラ・ゾーンにしている」と分析している。これに対して、コロンビア政府軍は、潜入作戦やコマンド攻撃を強めている。このような作戦は、10年前に比べると、目立たないかも知れないが、一般市民に与える打撃という点では変わらない。
 第2に、コロンビア政府が和平協定の交渉に臨んだ理由は、サントスがウリベと異なった支持基盤を持っているからだ。

3.ウリベの背景

  ウリベは、地方の地主財閥の出身である。彼は、1983年、父親がFARCゲリラの誘拐に失敗して最後に殺された。その後彼は一族の土地を売却し、政界進出を決めた。しかし、彼は牧場主のルーツを忘れなかった。ウリベは、大地主勢力を代表しているとともに、麻薬王や民兵と関係を持っている、と疑われている。 
 1991年の米国防総省諜報局の報告書には、ウリベは「メレディン・カルテル」と繋がりを持っていると疑われている。ウリベ自身メレディン市出身であり、一時期メレディンの市長でもあった。そしてメレディン・カルテルのPablo Escobar の近しい友人でもある、と書かれている。
 1080年代、ウリベは民間航空局長であったとき、滑走路や飛行機の許可数が著しく増加した。2007年、エスコバルの愛人Verginia Vallejo が日刊紙『El Pais』のインタービュに、Pablo は「自分の利益になることならば、そして小さな幸運な少年(ウリベを指す)の為ならば、たとえ、泳いででも、マイアミの海岸まで麻薬を届けるだろうとEscobar  はいつも言っていた」と語った。
 勿論、ウリベはこのような非難を否定している。しかし、ウリベとその一族が、民兵や麻薬王と密接な関係があることは間違いない。ウリベの選挙キャンペーンマネジャーであり、コロンビアの内務情報局(DAS)長であったJorge Nogueraは、2011年9月、25年の刑を言い渡された。民兵勢力「United Self-Defence Forces(AUC)」が情報局内に潜入を図ったというのが彼の罪状であった。
 ウリベは、公式には「不公平が内戦と関係があることを認めているが、一方では、不公平性をなくすためには、平和が必要だと言う。平和でなければ外国の投資はない。外国の投資が増えれば、税金が入ってくる。そうすれば、福祉に回すカネも出てくる。これはウリベが2004年にBBC放送に語った言葉である。しかし実際には、ウリベは土地改革のような不公平性を取り除く政策をしなかった。
 2002年、自由党を脱退し、無所属で大統領選に立候補したのは、もう1人の自由党の候補者Serpaが「和平協定」を支持したことに抗議したのであった。そして、2006年に第3極の「国家統一社会党(Partido de la U )」を設立した。これは、過去一世紀にわたってコロンビア政治を支配してきた2大政党制を終わらせることになった。
 ウリベの和平交渉の前堤条件は「まずゲリラ側が一方的に武装解除する」ということであった。これは、FARC、その民族解放軍にとっても受け入れがたいものだった。彼らは親政府軍民兵の残虐性をよく知っている。
 ウリベの前に、1982−85、1990−92、1999−2002と3回のウェイ交渉が試みられた。しかし、これらは成果を生まなかった。失敗の原因は双方が全く信頼しなかったせいである。最後の和平交渉の失敗は、政府も米国もともに交渉に参加しなかったせいである。とくに米国の「コロンビア計画」は麻薬の密輸を撲滅するといって、実際には、左翼ゲリラを対象にしていた。

4.サントスの背景

 サントスほどコロンビアの政治・経済界の中に深く交わっただエリートはいない。しかし、サントスはウリベと異なるエリートである。サントスの大叔父は、1938−1942年に大統領であったし、彼の従弟はウリベ政権の副大統領であった。サントスの一族はコロンビア唯一の日刊紙『El Tiempo』を一世紀にわたって所有している。サントスの父は50年近くその編集長を務めている。
 サントスは外国で教育を受けた。彼はカンサス州立大学、ハーバード大学、ロンドン大学経済学部、タフト大学などで学んだ。サントスは、20代の若さで、ロンドンの「国際コーヒー組織」のコロンビア代表団に参加した。これが彼の最初の仕事であった。1991年以来、彼はさまざまな政府のポストに就き、ウリベ政権では国防相に就任した。2010年6月には、大統領に当選した。
 以上見たように、サントスは都会派、コスモポリタン、多国籍型エリートである。彼はウリベのように地方の大地主ではなく、多国籍企業の利益を代表している。サントスは、土地所有制度、そしてそれを守る民兵にあまり拘っていない。サントス派は、土地改革やそれに近い改革で失うものは少ない。これは、2011年、なぜサントスが過去25年間、内戦によって国内難民になった200万人に土地を返還するという法案に署名したことの理由である。
 ウリベは米国との同盟を重視し、「米・コロンビア自由貿易協定(FTA)」の成立を最優先していた。しかし、サントスの優先度は異なる。
 それはラテンアメリカの統合であり、コロンビアの国際的地位の向上である。ちなみに、コロンビアは、南米ではブラジルに次いで、第2位の経済大国である。コロンビアは、インドネシア、ベトナム、エジプト、トルコ、南アフリカが参加しているCivots に加わっている。これは、Brics と同様、一方では投資家の利益を守りながら、一極型世界でなく、多極型世界を目指すものである。この点ウリベの対米協力・従属を最優先してきたのとは異なる。
 一方、国内政治でも、サントスは大統領就任以来、多極化を図ってきた。ウリベのように、紛争を激化させるのを防ぎ、左翼のAlternative Democratic Poleを除くすべての政党から入閣させた。
 ウリベは、サントスが自分と異なる路線を歩みはじめたのを見て、サントス攻撃をはじめた。いまでは、ウリベはサントスの最大の政敵となった。サントスが野党から労働相を任命したことを、ウリベは「偽善者」「ウリベズムに対する挑戦だ」と罵った。
しかし、両陣営とも、新自由主義政策においては変わりない。唯一、サントス政権の成果は「交渉」だけだ。
 サントスは土地改革という最も困難な問題の解決のために、意図して2人の退役したタカ派の将軍を交渉団に加えた。しかし、この最も困難な土地改革について、地方の地主財閥の協力が必須である。ウリベが敵対していることは、マイナスである。しかし、コロンビアの財界はサントスの交渉を支持している。
 米国はFARCを「テロ組織」と認定してきた。以前であったらサントスは米国の軍事介入によりFARCと交渉出来なかっただろう。しかし、現在中南米での米国の支配力は低下している。さらに隣国のベネスエラ、チリの仲介は非常に心強い。