世界の底流  
シリアのクルド人

2013年1月31日
北沢洋子

 クルド人は、シリア、イラク、イラン、トルコにわたって住んでいる。人口3,000万人、現在、国を持たない民族としては世界最大である。独自のクルド語を話し、イスラム教徒、そして山岳民族で、誇り高い。クルド人は、自分たちのあるべき国の名を「クルディスタン」と呼んでいる。
 歴史上、十字軍を破った英雄サラディンは、クルド人だった。1957年イラクで王政を倒したカセム准将の母親は、クルド人であった。したがって、短い間ではあったが、カセム時代のイラクでは、クルド人も入閣し、自治権も認められていた。
 シリアのクルド人は、人口300万人、シリア最大の少数民族である。クルド人はシリア北東部、イラクとトルコに国境を接する山岳地帯に住んでいる。

1.クルド人の遅れた反乱は平和的だった

 ここ2年間、世界のマスメディアは、シリアのクルド人について全く報道してこなかった。なぜなら、2011年3月の反アサドのデモ以来、クルド人は、1年以上も中立の立場をとっていたからだ。そして、クルド人は、反乱後も、その活動は平和的だったからである。マスメディアは、このような静かな戦いは記事のネタにならないので、報道しない。
 クルド人が反アサドのデモをはじめたのは、反政府デモがすでに内戦にエスカレートしていた12年7月であった。クルド人は、バース党の支配者に対して、「政権から脱走するか、平和裡に撤退するか」という48時間の最後通牒を送った。バース党と政府軍は、7月21日、大部分のクルド人地帯のから撤退した。
 1963年3月、父アサドのバース党が政権を握って以来、クルド人は国家丸ごとの人種差別、絶え間のない強制移住、さらに民族としてのアイデンティティさえ奪われてきた。 
クルド語の使用も禁止された。さらに、クルド人は「シリア・アラブ人IDカード」を携帯していなければ職や学校に通えなかった。その理由は、シリアは国名を「シリア・アラブ共和国」と名乗り、アラブ人の国家ということになっているからだ。

2.毎週金曜日のデモ

 現在、クルド地帯で、シリア政府の支配は、al-Hasaka州の州都Qamishlouに限られている。そして、クルド人は「シリアのクルディスタン地域」、または大クルディスタンの一部だということから「西クルディスタン」と呼んでいる。
 現在、シリアの内戦が町や村を破壊しているが、クルドの反乱は、総じて平和的である。クルド人は、国際社会に対して、「シリアのクルド人地域」の存在を承認するよう求めた。しかし、トルコと米国の激しい反対にあい、提案は受け入れられなかった。
 クルド地帯を守っているのは、クルド人民兵の「Yekineyen Parastina Gel(人民防衛部隊YPG)」である。現在、YPGは3個旅団、計15,000人の規模である。
 これまで、イラクとの国境は閉ざされていたが、現在は自由に通行できる。この国境を管理しているのは、YPGである。またYPGは撤退したシリア軍が残した基地を管理している。
 バース党の支配時代には、クルド人はすべての政治活動を禁止されていた。集会はすべて「テロ」行為と見なされた。しかし、解放後、クルド人にとっては、集会は日常的なことになり、デモは毎日行われている。毎週イスラムの休日の金曜日のデモは最大規模となる。この日は、クルド人の自由と権利を祝う国民的な日となった。
 このデモの中核になっているのは、青年である。彼らは、早朝、トラックに乗って、近所の村々から集まってくる。そして独自の集会を開く。その後、大きな集会に流合する。
 集会では、クルドの旗、殉教者の写真、指導者のポートレートなどが翻っている。その中で、特に多いのはAbdulla Ocalanの映像である。彼はトルコのクルド人で「クルディスタン労働者党(PKK)」のリーダーである。現在、政治犯としてトルコの刑務所に収監されている。
金曜日のデモは、シリア軍が支配しているQamishlou市でも行われる。政府軍が出動するのは、この日一日だけで、ほかの日は、姿を見せない。
 クルド人のデモは、狭い民族主義ではない。「デモはすべての人を歓迎している。クルド地帯に住むクルド人、アラブ人、イスラム教徒、キリスト教徒、アルメニア人、アッシリア人などすべての同胞、同志の参加」を呼び掛ける。これは、昨年8月3日、シリア軍の撤退後、Qamishlouで開かれた最初の金曜日のデモで呼びかけた言葉である。

3.政党と社会運動

 シリアのクルド人の中で最大の革命政党は、「民主連合党(PYD)」である。各地にPYDの支部が組織されている。クルド地帯で唯一政府軍とYPGが戦火を交えたのはDerekであった。そして、PYDはシリア軍に対して、ただちに撤退することを要求した。その結果、政府軍はDerekからも撤退した。
 PYDは、2003年に誕生した地下組織だった。設立直後に、非合法化されたからだ。PYDは、クルド人の「少数民族としての権利」を要求し、「民主的な、自治のクルディスタン地域」の設立を目指していた。
 PYDは、アサド政権の退陣を求めているが、同時に反政府派の「シリア国民評議会」
の後身である「国民連合」と「シリア自由軍」に対しても反対している。クルドの少数民族としての権利を認めていないというのが理由である。
 PYDは、これまでのクルド人政党のように、クルド人地域全体のすべての様相を直接コントロールすると言うのではなく、むしろ幅広いネットワークである「Tevgara Jivaka Democratic(民主的共同体運動Tev-Dem)」の政治部門に過ぎないと考えている。
Tev-Demは「民主的社会運動」だと位置付けている。PYDは、人びとを政治的に組織するが、一方Tev-Demは、地域の青年、女性、労組、クルド語学校などのセンターに依拠して、人びとを文化的に動員している。これらの団体は、昨年7月に撤退していった旧政府の官庁やバース党のビルを使っている。
 上記の2つの組織の関係について、PYDの共同代表であるAsia Abdullaは、「党がシリアのクルディスタン地域の民主革命を政治的にリードし、一方Tev-Demは社会運動を組織する。我々は民主的な社会を下から構築する」と解説している。また彼女は、「PYDは、世間で言われているような分離主義ではない。クルディスタン国を建設するのではない。我々はシリアの国境内に留まる。21世紀に、クルドの国家を建設することは、非民主的な政治的選択だ」と言っている。
 彼女は「現在、民族国家の概念自体が非民主的な目標だと思っている。近い将来、どのような中央政府が出来ようと、我々は、民主的な自治、すなわち、クルド人が自分自身の手で、民主的に、協同して自治を行う」と述べた。
 Tev-Dem とPYDは、今年7月、クルド人地帯で選挙を行った。これは「西クルディスタン人民議会(WKPC)」となり、「Mala Gel(人びとの家)」と呼ばれる地方行政機関を組織した。
内戦により他の地域が破壊されているのに比べて、クルドの解放区の生活は落ち着いている。キリスト教徒で、Tev-Demの活動家であるSubhi Ali Aliasは「政府が撤退した後、政府のビルなどを掠奪することをPYD-WKPCは固く禁じた」と語った。
 現在、彼はDerek市の市長に選出された。バース党支配の50年間、シリアでクルド人が市長に選ばれたのは、初めてのことである。

4.クルド人はアサドの協力者ではない

 クルドの自治区は完全に独立しているわけではない。現在なお、アサド政権から予算を受け取っているし、また公務員はダマスカスから給料を受け取っている。そのことが、「PYDとTev−Demはアサドの協力者」と非難される理由になっている。
 またPYDは、Derekのように政府軍と向き合っている地域でも、軍事攻撃を避けている。このことから、アサド政権とPYDの間に、密約があるのではないかと、推測がある。政府軍が、北のクルド人自治区に戦線を広げることを避けているのは、南に軍事勢力を集中出来るからだ、と推測されている。
 Derek市長のAlliasは「我々は、流血を避けたいと思っている。しかし、そのことが協力者だとは言えない。クルド人は政府軍に無慈悲に弾圧された過去を決して忘れない。多くのクルド人が、アサドの拘置所で拷問され、殺されたことを決して忘れない。また崩壊寸前の政権に協力するほど愚かではない」と述べた。
 また、YPGは、PYDの軍事部門であって、人民武装勢力でない、と誹謗されている。これに対して、DerekのYPG司令官(匿名)は、「YPGのほとんどは、クルド人で、Tev-DemとPYDを支持している。しかし、政治的、宗教的、人種的に異なる人も、YPGに参加した者いる。YPGはいかなる政党、宗教、民族にも属していない」と語った。
 これらの非難が正しいかどうかに関係なく、シリアのクルド人は、今日、内戦の唯一の勝利者であることは間違いない。

5.統一クルド最高評議会

 
クルド人地帯には、Tev-Dem運動とPYD/WKPCの他に、いくらかの少数政党がある。15団体が集まって、「クルド国民評議会(KNC)」を名乗っている。しかし、KNCは現場との関係がない。にもかかわらず、KNCはTev-DemやPYD/WKPCに対抗する勢力だと自認している。
 なぜKNCが弱いかと言うと、参加している政党が分裂を繰り返していることにある。例えば、KNCの有力メンバーである「シリア・クルド民主党(al Party)」は、最も古いクルドの右翼政党だが、現在は、3つに分裂し、それぞれ同じ名前を名乗っている。また少数政党の「クルド自由党」さえも2つに分裂している。このように、ほとんどの党が分裂している。
 PYD/WKPCとKNCとの間には、大きな違いがある。KNCは、ネオ・リベラル路線をとっており、その代表は、国外で米政府の代表やトルコ当局と会合している。一方、PYD/ WKPCの政治哲学は、トルコのPKKの創設者Abdulla Ocalanのイデオロギーに依拠している。しかしPYDがPKKのシリア支部にすぎないという米・トルコ政府の中傷に反対している。
 PYD/WKPCは、クルド地帯でKNCが争うのは得策でないとして、隣国イラクのクルディスタンにおいて、昨年7月11日、両者の「統一協定(Erbil Agreement)」を結んだ。これは、シリア政府軍がクルド地帯から撤退する直前であった。この協定に基づいて、両者による「統一クルド高等評議会(KHC)」が樹立された。これには、双方から5人が参加した。KHCはクルド問題の最高決定機関である。
 KHCのもとに、@ 国際問題、A 地域の安全保障、B 食糧など日用品を分配する行政機関を担当する3つの委員会が設立された。委員会は、それぞれ5人、計10人で構成された。しかし、KHCの中でのPYDの力量と指導力は否定しがたい。

6.クルド人の戦いは自衛のため

 クルド人地帯の「解放区」と言っても、完全な軍事的占領を意味しない。シリア軍はクルド地帯のいくらかの地域に居座っている。
 例えば、Qamishlou市にいたる道路では、シリア軍の検問所が置かれている。また同市内でも、統一KHCは市の西部を支配しているだけで、その他の地区は、シリア軍の支配下にある。さらにアレッポに近いクルド地帯にあるコバネ市に向かう道路は、通常、車で5時間のところだが、途中にビルからの狙撃を避けるために迂回しなければならず、24時間かかる。アサド支持として悪名高いTil Abyadに近いSlwk村ではレザー線付の射撃手が通行人を狙っている、という有様だ。
 したがって、シリア軍がクルドの解放区を再占領する危険が残っている。
 昨年8月2日、PYDの国際局は、「シリアのクルド地帯は、Qamishlouを除き、アサド政権から解放された。さらに、統一クルド高等評議会(KHC)が結成された」ことを通告した。さらに声明は「解放区は、自由な、民主的なシリアを建設するために、シリアの革命家たちの安全な聖域となるであろう。そして、国際社会がクルド人の自治を認めることを要求した。