世界の底流  
メキシコの「私は132人目」運動

2012年7月8日
北沢洋子

1.大統領選挙

 7月1日、メキシコで大統領選挙の投開票が行なわれた。その結果、「制度革命党(PTI)」のエンリケ・ペニヤニエト候補が38.21%で勝利した。06年の大統領選挙では僅差で負けたオブラドル「革命民主党(PRD)」候補が31.59%と再び僅差で敗れた。3位は、カルデロン現大統領の後任候補だった右派の「国民行動党(PAN)」のバスケスモタであった。
 PRIは、1929年から2000年までメキシコの権力の座にあった。世界で最も長い独裁政権と言われた。その人権侵害の歴史は長く、1968年にメキシコ・オリンピックの際の虐殺は有名である。ペニヤニエト候補は、メキシコ州の知事であった。
 2位のオブラドル候補は元メキシコ市長であった。彼のPRDは中道左派である。PANは、右派である。

 ペニヤニエト候補について笑い話が多い。その中の1つは、昨年12月、グアダァハラ国際ブック・フェスティバルで、「人生で最も重要な本を3冊?」と聞かれたが、1冊も挙げられなかった。このような無知な男がこれから6年間、メキシコの大統領になるのだ。

2.「私は132人目」運動

 今回の大統領選挙期間中に、「私は132人目(Yo Soy 132)」と呼ばれる運動が起った。それは、5月11日に、中産階級の子弟が多く、進歩的な教授が多い私立のカトリック系のイベロアメリカーナ大学で、学生主催の大統領選候補たちの演説会が開催された。「この歴史的な日にようこそ」と書いた横断幕が壇上の後ろの壁に張られていた。実際、候補間のオープンな対話は、メキシコの民主主義史上、珍しい出来事であった。各候補に対する参加者の質問状は15,000件にのぼった。
 2時間の及んだ演説会は、主催たちの手でユーチューブにライブで放映された。これを観た人はメキシコ全体で、112,000人に登った、と主催者の1人Rodrigo Serranoは語った。のち、その数は130万人に達した。
 しかし何故かPRIのペニヤニエト候補だけが、出席を拒否した。なぜなら、ペニヤニエト候補に対する質問状の中に、彼がメキシコ州知事時代の2006年に彼の出身地であるアテンコ市で、平和的な住民のデモが起こった。これは、アテンコに新しい空港を建設する計画を「土地を守る人民戦線(FPDT)」が阻止しようとしたデモであった。復讐心に駆られたペニヤニエト知事は、デモに対して警官を導入した結果、2人のメキシコ国立自治大学の学生2人の死者と大勢の負傷者がでた。この「アテンコ事件」弾圧についての質問が含まれていた。記者会見場では、「我々はアテンコを忘れない」とシュブレヒコールが鳴り響きわたった。ペニヤニエト候補は、トイレに逃げ込んだ。
 彼は会場の外で記者会見をして、「会場は、外部の侵入者に占拠されている」と非難した。これに対して、学生証をかざした学生131人がユーチューブ上に並んだ。
 これがメキシコ青年たちの「私は132人目」運動の始まりである。彼らは、各種のソーシャル・ネットワークを駆使して、民主主義を求めて、街頭や広場で集会が開いている。  
 選挙機関中は、候補者に向けて、様々な要求が突きつけられた。96年に政府とチアパス先住民の「サパチスタ民族解放軍」との間で結ばれた「サン・アンドレス協定」の実施など、またメディアの民主化など、様々な要求項目が挙がった。
 「私は132人目」運動の街頭デモは創造性に富んでいる。6月13日、メキシコ市内で、カルデロン前大統領時代の「麻薬戦争」で殺された6万人の犠牲者に対する象徴的な葬式デモが行なわれた。メキシコのこれまで起った様々な弾圧と人権侵害事件が、民主化を求める「私は132人目」運動のデモや集会で、人々の記憶によみがえった。
 「私は132人目」運動は、人びととの対話もユニークである。メキシコ市の地下鉄では、メンバーがテレビの形をした箱を頭に乗せ、乗客に鉛筆を渡して、政治家やメディア、そして「私は132人目」自身に対する不満や提案を書いてもらう。それらは、次の反ペニヤニエト・デモで大きなプラカードに書かれることになっている。
 「私は132人目」運動は音楽活動に熱心である。6月30日、2回目のミュージック・フェスティバルが開催された。会場となったメキシコ市のゾカロ広場には、8万人が集まった。翌7月1日、大統領選挙の最終日に反ペニヤニエト・デモが行なわれた。これは、前日のフェスティバルやソーシャル・ネットワークで呼びかけられた。「革命記念碑」の前で、かってないほどのデモが繰り広げられた。参加者の1人は、「私はサンドウィッチのために来たのでなく、投票用紙のために来た」と語った。それは、PRIがアステカ・スタディアムでサンドウィッチを配っていることを皮肉っている。