世界の底流  
ペルーのマオイスト・ゲリラのリーダー逮捕

2012年2月16日
北沢洋子

 今年2月12日、ペルーのウマラ大統領は「左翼ゲリラ「センデロ・ルミノソ(輝ける道)」のリーダーのアルテミオを逮捕した」と発表した。
 「センデロ・ルミノソ」は、正式の名を「El Sendero Luminoso abrira Mariategui( マリアテギの輝ける道)」だが、ペルー共産党を名のっている。1928年、ペルー共産党の創設者ホセ・カルロス・マリアテギのイデオロギーを継いでおり、インド、ネパール、フィリピンなどマオイストの共産党インターナショナルである「Revolutionary Internationalist Movement (RIM) 」に属する。
 1960年代、「センデロ・ルミノソ」を再興したのは、アヤクチョ市のサン・クリストバル・ウアマンガ(Ayacuchoと同じ意味)大学の哲学教授であったアビマエル・グスマン(ゲリラ名はゴンザロ議長)であった。グスマンの影響力は大きく、多くの大学の学生が「センデル・ルミノソ」のゲリラに参加した。
 1980年3月17日、「センデロ・ルミノソ」は、アヤクチョで秘密会議を開き、「革命指針」を採択した。以後、クスコを中心に武装ゲリラを展開した。
 1992年、グスマンと彼のパートナーのElena Iparaguirre、その他の中央委員たちが首都リマで逮捕され、終身刑を宣告された。そして、グスマンは獄中から「武装闘争を放棄する」というメッセージを出した。これは、「センデロ・ルミノソ」内部に大きな衝撃を与えた。以後、活動は停滞していった。
 昨年12月9日、英紙『ガーディアン』のDan Collyns記者が、アンデス山脈の東側、Haullaga川がアマゾンの熱帯雨林に注ぎ込む渓谷で「センデロ・ルミノソ」の最後の中央委員となったFlorindo Fleuteric Flores-Hala(ゲリラ名はアルテミオ)と会見した。ここは、海抜が高く、熱帯の気候がコカの栽培に適している。1980年〜90年代、コロンビアの麻薬王と結託して、ペルー政府軍がコカの栽培と出荷を独占していた。
 アルテミオは、Huallage川の上流地域を支配していた。ペルー人にとっては、すでにアルテミオは、伝説の人になっていた。またラテンアメリカでは、コロンビアの左翼ゲリラFARCのリーダーAlfonso Canoが戦死したので、唯一人の生き残りのゲリラのリーダーであった。米国務省は、アルテミオに500万ドルの懸賞金を掛けた。
 『ガーディアン』紙の記者は、「センデロ・スミノソ」のロゴ入りの黒いTシャツを着て、「人民軍」と書いたバンダナを付け、自動小銃を持った少年兵の案内で、Hualagaのコカのプランテーションを抜けて、広場に到着した。そこには、34人の兵士が記者を迎えた。その中に、年のいった兵士がいた。それがアルテミオだった。
 1961年、アルテミオはペルー南部、Arequipa 省の貧しい小作人の子として生まれた。そして、リマに上京して、マルクス主義の本を読み、グスマンの「センデロ・ルミノソ」に参加した。
  アルテミオは、『ガーディアン』紙の要求に対して、はじめて素顔を見せることに同意した。そして、彼は、休戦と恩赦を要求した。すでにゲリラ戦は30年に入っており、現在のウマラ政権と交渉する用意がある、といった。しかし、和平になっても、彼は、小さな武装部隊を維持する、と語った。アルテミオは、降伏後、公正な裁判を要求したが、同時にグスマンたちの釈放を要求した。これは、ペルー政府にとって、受け入れることの出来ないことであった。グスマンはマルクス、レーニン、マオに継ぐ4番目の共産主義のリーダーと称している。
  記者は、アルテミオがモーツアルトの音楽を聴いていたのを目撃した。ゲリラとクラッシク音楽は、想像出来ない結びつきだった。一方、少年兵は早朝5時半、ハマーと鎌のついた赤旗を掲げる時に、インターナショナルを歌った。 
 アルテミオはアマゾン上流のジャングルでの戦闘で重傷を負い、逮捕された。この記事は、マスコミでは一段抜きの小さな記事で取り上げられた。