世界の底流  
 「アラブの春」、そして「スペインの夏」―M15運動

2012年2月24日
北沢洋子

1.マドリッドでM15運動はじまる

  2011年5月15日(日曜日)、主として若者が5万人、首都マドリッドの中心部にある「Puerta del Sol(太陽の門)広場」に集まった。彼らは、「Democracia Real Ya(今、真の民主主義を)」を要求するソーシャルネット上のプラットフォームであった。その中核となったのは、マドリッドのコンプルテンセ大学の学生たちであった。彼ら「すべての平凡な市民たち」に呼びかけると、何万もの人が集まってきた。
  彼らは、政府、政党、労組、金融機関、大企業、市場、EU、IMFなどの政策と行為がもたらした社会的結果に「怒って」いる。そこで、彼らは通称「los Indignados(怒れる者)」と呼ばれる。  
  彼らは、未来に希望を失った若者、失業者、年金生活者、大学生、高校生、移住労働者などであり、「尊厳を持って生きる」ことを望んでいる。
5月15日の前日、選管が5月22日の地方選の投票日が近いことを理由に広場を政治的な集会に使用することを禁止した。だが、100人以上が、前夜から広場に集まり始めたので警察が彼らを逮捕した。これが、かえって人びとの怒りをかい、広場を取り巻く広大な壁を、要求を書いたポスターで埋めた。非暴力だが、不服従運動であった。
  やがて、広場でキャンプをする人びとが増え始めた。そして、マドリッド以外でもスペイン中の52都市で同じようなデモと広場の占拠が始まった。デモは、予想を遥かに超えて、この日、マドリッドの50,000人を含めて、スペイン全土でのデモの参加者は125,000人に達した。
  スペイン以外では、ブルッセル、ベルリン、フィレンツア、パリ、ボゴタ、メキシコ、ブエノスアイレスなど世界の主要都市でPuerta del Sol に連帯する大きな集会が開かれた。こうして、M15運動は、「スペイン革命」として国際的に定着した。
  10,000平方メートルの広さのPuerta del Sol広場は、1950年以来、スペイン中のハイウエイの出発の0点となった。15世紀には、中世のマドリッドを囲む城壁の門の1つであった。門には、東を向いていることを示す太陽の模様が彫られている。
  これまで広場は、集会場として、あるいは1931年4月14日の「第2次スペイン共和国宣言」などの場として使用されてきた。現在、広場は、旧郵便局(現在はマドリッド市庁舎)を囲むようにビジネスセンター、バー、レストラン、観光客向けのみやげもの店などが並んでいる。

2.新しい民主主義の誕生―キャンパーたちの規律

   5月15日以来、Puerta del Sol広場に絶え間なく人が出入りするため、テントは増え続けた。また、5月22日の地方選挙にM15運動が大きな影響を及ぼしたとして、内外のメディアの取材が殺到した。選挙の結果、社会党が敗退したことが、その理由であった。
  これらのことがM15運動の拡大と発展に寄与した。そして、キャンパーたちは、新鮮で、創造的な組織を創りあげた。ここでは、毎日、全員が参加する「Assemblies(総会)」が開かれる。たとえば、ボランティアの組織化、寄付金の分配などのルールを創ったが、その中でも重要なことは、政党やイデオロギーを示す旗を撤去することに合意を見たということだった。
  広場のキャンパーたちは、インフラ、インフォメーション、フェミニズム、移民問題、食糧、規律、内部の調整、尊重、法的問題、宗教問題、動物の保護、図書館、対外関係、子ども、芸術などの作業部会が出来た。「インフラ」作業部会とは、ボランティアの消防隊、スペースの確保、寄付集め、テントの衛生などに責任がある。「尊重」作業部会は、キャンプ内の平和と近隣の住民との共生、スピーチの自由を守ること、アルコールや麻薬を禁止することなどを受け持つ。「調整」作業部会は、物理学者、心理学者、情報専門家、法律家、技術者、教師、コック、芸術家などによって構成される。「法的問題」作業部会は、200人の法律家から成り、警察との交渉、キャンパーたちに法的アドバイスを行なう。「図書館」作業部会は、新聞や図書を集め、誰でも自由に閲覧できる。6月12日の段階で、4,000冊の本が集まり、市内に保管されている。「対外関係」作業部会は、近隣の100を超えるコミュニティ、タウン、郡部の住民たちと対話して、同じような「総会」を組織するよう説得する。
  「食糧」作業部会の活動の中で、広場で、トマト、レタス、ナスなどを植えた。これは、GMOや工業的農業に対する抗議であり、食糧安全保障の意思表示であった。この畑が広場の美しい噴水の脇であったため、メディアの避難を浴びた。
  Puerta del Sol 総会は、ウイークエンドに開かれる。ここでは、16項目の要求を採択した。それには、選挙制度の民主化、居住、医療、教育、金融機関の規制強化、軍事費の削減、民営化された公共サービスの再国有化などの要求が含まれていた。
  Puerta del Sol広場でのM15運動は、地方選挙直前の世論調査によれば、75%が支持した。選管がデモを禁止したにもかかわらず、M15運動があえてデモを行なったのは、市民の歴史的な「不服従」運動であった。

3.デモの背景にはスペインの不況
  

  5月15日のデモの4週間後、再びデモが呼びかけられた。誰もが、5月15日を下まわるものと思っていた。しかし、6月19日に行なわれたデモには、250,000人以上と、第1回の倍になった。M15は、もはや単なる抗議のイベントの記念日ではなく、素晴らしく組織された運動となった。これには、短期の要求と長期にわたる政治アジェンダが含まれている。ソーシャル・ネットワーク上の組織であるとはいえ、独自の民主的規律をもち、提案をもち、歴史を持っている。さらに、自身の新聞、アート、そして共通の言葉を持っている。多くの人びとに希望を与える。
  2008年9月の金融危機までは、スペインの経済は堅実であった。GDPは年率4%増を記録し、消費も旺盛であり、不動産価格は急騰した。しかし、これは単なる幻想であった。貧富の差は拡大し、失業率は高まり、人びとの過剰な消費は負債を抱え込むことになった。にもかかわらず、財政のバランスは取れていたし、福祉国家の面子を保つことが出来た。
  ところが米国でサブプライム危機が起ると、たちまち、スペインに波及した。不動産バブルは弾け、人びとは家を失い、失業は急増した。スペインの5人に1人は、絶対的貧困の仲間入りをした。
  経済の不況に伴って、銀行は不良債権を抱え込んだ。政府は、膨大な公的資金を注入して、銀行の危機を救った。その結果、今度はスペイン政府の財政悪化を招いた。米国の格付け会社が、スペインの国債の格付けを引き下げたため、さらに、状況を悪化させた。
ヨーロッパの福祉社会の時代は残酷なやり方で終わった。

4.「los Indignados」の出現

  現在、スペインの失業率は、21.3%と高い。さらに青年の失業率は43.5%にのぼる。借りている人は高い家賃に苦しめられ、持家の人は住宅ローンでもって、一生銀行に縛りつけられる。
  さらに、人びとは、この危機に有効に対処できない政治家たちに、いらだっていた、スペインは、保守のPeople’s Partyとサパレロ首相の中道左派の社会労働党(PSOE)の二大政党制だが、どちらも同じく、腐敗しており、新自由主義政策を施行している。たとえば、今度の地方選では、何と100人以上の候補者が、選挙違反の罪で、起訴された。
  スペインで、腐敗を暴くことが出来るのは、中央刑事裁判所のBaltasar Garzon 判事1人だと言われる。彼は、98年、チリの独裁者ピノチェトに国際逮捕状を出したことで知られる。
PSOE 政府は、ヨーロッパでは最悪の緊縮政策を行なった。たとえば、150億ユーロにのぼる財政削減を断行した。その中には、公務員の給料を5〜15%賃下げすることや、年金改悪、労働法の緩和などが含まれる。
  しかし、長い間、人びとの社会的抵抗力は弱かった。現在の経済モデルに不満があるが、それを組織化して、抵抗することの間には、大きなギャップがあった。それには、様々な理由があった。まず、運動に対する恐れ、労組に対する不信、消費主義と後ろ向きの価値観などが蔓延していたことによる。また、これまでスペインの社会運動は、敗北し続けてきた。勝利できないことが、社会的抵抗に対する人びとの不信感の原因であった。
  そう言っても、M15運動が一から始まったわけではない。小さな規模だが、抵抗運動はあった。そして、2010年9月29日のゼネストが、沈黙を破るきっかけとなった。しかし、「スペイン労働者委員会(CCOO)」と「スペイン労働者ゼネラルユニオン(UGT)」の指導部が政府と「社会契約」を結んだため、ゼネストの高揚を維持することが出来なかった。
  今回の運動の出発点は「怒り」であった。これは1994年1月1日、メキシコのサパティスタの蜂起であった「Ya Basta!(もう沢山だ)」の流れを汲む。「不満」が「怒り」となり、やがて「動員」へと発展していった。
  さらに、チュニジアとエジプトの「アラブの春」は、スペインのIndignadosの手本となった。「我々も出来る」という自信が恐れを拭い去った。15M運動とそれに続く占拠(キャンプ)は新しい世代を生み出した。これまでの「未来のない青年」が、「抗議」する時がやってきた。
スペインは、今年3月に総選挙を迎える。
  今年1月、M15運動は、「Yo No Pago(私は支払わない)」という新しいキャンペーンを開始した。これは、市民が公共交通機関を支払わないという不服従運動であった。これは、政府が税金の使い道を公表しないし、発言させないためである。これは、ギリシャの「Den Plirono運動」をモデルにしたもので、スペインでは、1月、公共交通機関を50%もの値上げをしたことに対する抗議である。政府は、ニューヨーク、パリ、ロンドン、ベルリンの地下鉄の価格を比べて、マドリッドは最低だとポスターなどでキャンペーンした。これに対して、ソーシャル・ネットワーク上では、これらの国の賃金を比較して、スペインが最低であると反論した。
  最近では、「Derecho de Rebelion(反乱する権利)」というグループが生まれた。彼らは、税金の使い道を含めた、経済的不服従のリストを公表している。