世界の底流  
IMF・世銀の合同年次総会を控えて

2012年10月2日
北沢洋子

1.IMF・世銀の東京総会

 3年置きにワシントン以外で開催されるIMF・世銀の合同年次総会は、10月9〜14日、東京の国際フォーラム(一部はホテルオークラ)で開かれる。総会の参加者は、毎回1万人を超えるマンモス会議だ。その打ち分けは、両機関に加盟している188カ国の @中央銀行総裁と蔵相からなる正式代表、Aセミナーの報告者として呼ばれる特別ゲスト、Bプレス、C市民社会の代表、それに、Dビジターと呼ばれる銀行家や企業人などである。
  1万人の大部分を占めるのは、Dで、総会にビジネス・チャンスを狙って、市内の宴会場で数えきれないほどのレセプションを開く。CのCSOのカテゴリーは、アドボカシィ型(IMF・世銀に対する)で国際NGOが多い。彼らは、IMF・世銀にあらかじめ登録し、当日総会の事務局から首からぶら下げる入場証を受け取る。
  IMF・世銀総会は、毎朝、記者会見が開かれ、その後は、6日間、毎日小刻みに多様なテーマでセミナーが開かれる。パネリストは特別ゲストだが、これにIMFと世銀のスタッフが加わり、一方的に政策を宣伝する。ここで、世銀が「日本が60年代、世銀の融資でハイウエイを建設したが、その後、高度成長を遂げ、世銀に返済した」と、世銀の成功物語を例に挙げる。日本の高度成長は、世銀の融資のせいではない。またこれまで途上国で世銀の融資で離陸出来た国はない。
  総会はお祭りである。実質的な議論はIMFの「国際通貨金融委員会」と世銀の「開発委員会」で決まる。これは、実質的には最終日の10月13日に開かれ、コミュニケが発表される。ということは、総会が始まる以前に討議され、結論が出ていることを意味する。
  東京総会では、10月11日、市民社会と、ラガルドIMF専務理事、キム世銀総裁らトップが出席して、対話が行われる予定だ。

2.マドリッド総会で何が起ったか

 
94年のIMF・世銀50周年のマドリッド総会までは、NGOは狭い1部屋と廊下を除いて、すべての会議場に入れなかった。そこで、マドリッドではグリーン・ピースの2人の登山家が天井のハリに登って、プレストン世銀総裁の演説中、彼の顔を印刷したドル札をばら撒いた。オープニングだったので、スペイン国王夫妻も列席し、プレストンは面目を失った。またプレストン総裁の記者会見中に国際A-SEED がバースデイ・ケーキを投げたが、腕力がなくて命中しなかった。
  アドボカシィ型NGOは、毎日、IMFと世銀の主要な理事に面会した。日本は大蔵省から派遣された世銀の理事代理だけが面会に応じてくれた。対話のテーマは、主に、世銀の開発融資のプロジェクトについて反対を唱えることにとどまった。これは、すでにプロジェクトによって苦しめられている現地住民が、地域の世銀駐在スタッフに抗議している件だが、直接ワシントンの世銀理事に伝える、という意味しかなかった。
  しかし、当時は、登録するNGOも少なかったし、NGOが無視、あるいは敵視されていたので、NGOはまとまって団結していた。この時代は、専ら世銀のダムや巨大な開発プロジェクトが中心で、IMFの構造調整プログラムについてのロビイングは弱かった。
  しかし、95年、ウォルフォンセンが総裁に就任すると、NGOの扱いが変わった。しきりに、各地でNGOとの対話が持たれた。年次総会でも、NGOとの対話セミナーが連日開かれるようになった。しかし、パネラーは、あらかじめIMF・世銀のスタッフと、世銀のお気に入りのCSOが選ばれて、一方的に世銀の宣伝を聞かされることになった。
  各国のNGOが、事前に戦略会議を持ち、IMFと世銀に対してそれぞれ政策を話し合っておかねばならない、というのが私の経験である。

  次に私が参加したIMF・世銀の年次総会は2000年9月、チェコのプラハであった。ここでは、総会に出席するNGOはIMF・世銀の存在を認め、改良するという立場なので、数は限られる。一方ヨーロッパ中から集まった2万人は、IMF・世銀を解体せよと叫んで、プラハの町を埋め尽くすデモを行った。デモは夜半まで続き、一部のデモ隊は、中央銀行総裁や蔵相が泊まっているホテルの前で、シュプレヒコールを繰り返し、ドラムを叩いた。眠れなかった総裁や蔵相たちは、怒って、翌朝、ほとんどが閉会を待たずに帰国した。その結果、総会の閉会式は、IMF・世銀の両首脳のアナウンスで終わってしまった。
  1988年9月、私が初めて参加した西ベルリンでのIMF・世銀年次総会は、緑の党とカトリック青年組織が共同で、10万人の抗議デモを組織した。西ベルリンは東ドイツに囲まれた孤島で、この規模のデモが出来るとは、主催者も予想していなかった。この時は、デモの終点が総会の会場の近くの公園であった。そこで、ビルの3階くらい高い櫓に巨大なスピーカーを無数に付けて、南アフリカやインドの代表が演説した。総会場は、大騒音によって、一時会議を中断したという。この時のデモのスローガンは「世銀は殺人者だ」であった。その1年後、ベルリンの壁は崩壊した。

3.IMFのプロファイル

 ユーロ圏で起こっている大規模なデモ、占拠、そしてフランスやギリシャでの総選挙でのオルランド社会党の勝利やギリシャの急進左派SYRIZA の躍進などは、いかに人びとが緊縮政策を拒否しているかを物語っている。左派ばかりではない。ブラジルのRousseff 大統領、それにオバマ大統領までもが、緊縮政策に批判的である。また、資本市場でも反対するものが出てきた。
  その非難の矛先は、@EU、Aヨーロッパ中央銀行、BIMFの「トリオ」に向けられている。トリオは、ヨーロッパ市民が民主主義にもとづいて選んだのではない組織という点では、3者に共通している。だが3者の中で、個々の国に対して具体的な緊縮政策の項目と達成目標を決め、実行させる能力と機能を持っているのはIMFである。 
  IMFは、国際金融機関である。広い意味では、国連ファミリーに属する。しかし、誕生したのが国連創立1年前の1944年であり、また国連のように一国一票でなく、「拠出した資金の額によって、投票権が決まる」ところが大きく違う。IMF、世銀ともに少数の先進国が大多数の途上国を支配しているが、「顔がない」存在である。
 IMFは通貨の安定という本来の任務を捨てて、途上国の経済政策を取り仕切ってきた。70年代に入ると、タンザニアのムレレ大統領が指摘したように、「途上国に対して、むき出しの介入をする評判が悪いCIAに代わって、IMFが途上国を支配」していると語った。当時、これは非常に勇気のある発言であった。
 80年代、途上国に債務危機が起こると、IMFが最後の貸し手として、救済融資をした。その見返りとして、悪評高い「構造調整プログラム」を実行させる。生活必需品に対する補助金の打ち切り、公務員の解雇、福祉・医療・教育など民生予算の削減、国有企業と公共サービスの民営化などによって、政府に債務を返済させる。さらに債務はドルで返済するので、輸出を増やす。

4.ユーロ危機とIMF

 途上国に押し付けられた』構造調整プログラムは、現在、債務危機に陥ったユーロ圏でトリオが進めている「緊縮政策」と全く同じである。私は、IMFは緊縮政策ではなく、ユーロ圏が潜在的に持っている構造的欠陥に目を向けるべきであると思う。
  ユーロ圏の不況は長引いている。その結果、最悪の失業率を記録している。また、GDPも縮小している。明らかに緊縮政策は、成長を阻害し、財政、債務状況をさらに悪化している。
  ユーロ圏に対するIMFの介入は、すでに2年に及ぶが、IMFは、ようやくユーロ圏の構造的欠陥に取り組まなければ、成長や安定は望めないことを、薄々理解し始めている。しかし、今年4月に発表された『IMF世界経済アウトルック(WEO)』は、ユーロの構造的欠陥を認めるような箇所が見られる。例えば、「ユーロ圏では共通の監視、リスクのシェアが緊急課題だ」という記述がある。
  しかし、IMFは今後もギリシャなど救済融資をした国に、緊縮政策と公共サービスの民営化、労働市場の規制緩和を要求して行くだろう。これは、途上国ですでに実験済みだ。 
  救済融資は一度に全額払われるのではなく、例えば、3カ月毎に分割して小刻みに支払う。融資を受ける政府は、決められた緊縮政策の日程表を達成しなければ、融資を止められてしまう。まるで、ニンジンを鼻につけられて走る馬のようだ。
 債務危機に直面しているギリシャなどの国は、債務をデフォールトすればよい。すでに2001年、債務危機に見舞われたアルゼンチンが、債務支払いを不履行にした例がある。また2008年、アイスランドが債務危機に陥った時もデフォールトにして、切り抜けた。 アルゼンチン、アイスランドともに、国家や政府が消滅することなく、経済は回復した。
 IMFは、70年代以降途上国には構造調整プログラム、現在ユーロ圏には緊縮政策を押し付けているが、これは、経済不況を長期化し、不安定化するだけだ。