世界の底流  
NATOの人道的介入とカダフィの死

2011年12月25日
北沢洋子

1.カダフィの死

2011年10月20日、リビアのカダフィ大佐は死んだ。しかしその死は、なぞに包まれている。

中東の衛星テレビ『アルジャジーラ』の報道によると、カダフィはトリポリ陥落直前、出身地のシルトに逃れ、そこでも、NATOの爆撃を逃れるために住所を転々としていた。 

シルトは、10月10日、反カダフィ軍が市の中心部の大学や病院を制圧し、また13日間にわたってNATOの爆撃を受け、壊滅的な打撃を受けた。

ついに10月20日朝、カダフィは、60台の車列を組んで、シルトから南に向かって脱出をはかった。カダフィは南部の砂漠の町に武器を隠しているといわれていた。その武器でもって、再起を図ろうとしていたのかもしれない。

一説によると、カダフィ軍の指揮系統が乱れ、未明に脱出する予定であったのが、午前8時になってしまったという。カダフィを乗せたトヨタのランドクルーザーがシルト郊外に達したところ、NATOの爆撃機の攻撃を受けた。同時に、反カダフィ部隊が小型ロケット砲などで攻撃した。この戦闘は3時間にわたる激戦だった。カダフィ自身は車を離れ、近くの下水用の穴に逃げ込んだ。まもなく、見つけられ、カダフィは片手に自動小銃、片手に拳銃を持って出てきた、という。

カダフィが若い兵士に「息子たちよ、殺さないでくれ」と訴えたと、いわれる。一方、カダフィは辺りを見回し、「何が起きているのか」と聞いたともいう。40年余りリビアを支配してきた独裁者の最後の言葉とは思えない。

カダフィの遺体は、西部ミスラタで公開された。遺体は市場の大型冷蔵庫に安置された。その後ミスラタの「秘密の場所」に埋葬された。ミスラタは最大の激戦地であった。

2.正当な裁判なくカダフィを処刑

カダフィは、頭部に負傷していたが、生きていた。そして、「近くのバニワリドに救急車で運ばれる途中で息を引き取った」。これは、リビア国民評議会の公式発表である。非公式には、カダフィは傷ついたまま逮捕され、その場で処刑されたという説もある。カダフィとともに、情報・治安担だった四男モタシムも死亡した。

いずれにせよ、カダフィは、正当な裁判によることなく死んだ。正当な裁判には、エジプトの独裁者ムバラクのように国内の法廷と、すでに逮捕状が出ているハーグの国際刑事裁判所の2種類がある。いずれも、人道に対する罪、国際テロ、汚職、反カダフィ派に対する拷問と処刑などの容疑がかかっている。

これらの裁判を通じて、カダフィの罪の全貌が明らかになるはずだったが、カダフィの死によって、永久に謎になってしまった。これは、昨年5月1日、パキスタン領内で米軍の特殊部隊によって、射殺されたビンラディンのケースと同じだ。

カダフィの次男で後継者と目されていた二男のセイフ・アル=イスラムは、自らの支持者らに対して演説を行い、自分は生存しており、今後も暫定国民評議会への抵抗を継続していくことを明らかにした。これをシリアから放送されているカダフィに忠実なテレビ局「アル=ライ」が10月23日夜に放送した。

しかし、11月19日、側近2人とトリポリの南方650`の砂漠で拘束され、西部ジンタンに送られた。これで、セイフ・アル=イスラムはカダフィ家族の唯一の囚人となった。

セイフ・アル=イスラムに対しても、父と同様、国際刑事裁判所のモレノオカンポ検察官の逮捕状が出ている。もし国際法廷が実現すれば、カダフィ独裁政権の40年の歴史の功徳が明らかになるだろう。

リビア国民評議会のアブドルジャリル議長は、カダフィの死をもって、「全土解放」宣言し、その後3ヵ月以内に暫定政府を樹立し、8ヶ月以内に総選挙を行なうというスケジュールを発表した。

3.NATOの空爆は安保理決議を逸脱

今年3月17日、国連安保理事会は、リビア情勢について1973号決議を採択した。

その主な内容は、@、飛行禁止空域を設ける、A武器輸出の禁止、Bリビアの海外資産を凍結する、などであった。3月20日、NATOはアラブ連盟の承認を得た。そして3月22日、トリポリ空爆をもってNATOの介入がはじまった。

NATOと言っても、最初の空爆は米国の指揮の下に米軍によって始まった。そして1週間経った3月末には、米軍はNATOに指揮権を譲った。

7ヵ月に及んだNATOの軍事介入はカダフィ打倒の決定的な決め手となった。そしてリビアは独裁政権から解放された。しかし、結果だけですべてを正当化できない。

まず、安保理の決議1973号は採択されたが、中国とロシアが棄権したということを忘れてはならない。

安保理決議には、リビア上空に「飛行禁止区域を設ける」とあるだけで、NATO軍が爆撃機や無人ミサイル機でもって、地上を激しく攻撃することを含んでいない。3月22日から10月20日まで7ヵ月続いたNATOの空爆は延べ9,634回に上った。

カダフィの死後2日後、10月22日に、ロシアのラブロフ外相は、カダフィのように負傷して捕虜となった場合に殺害してはならない、と述べた。これは、ジュネーブ条約の人道条項に違反するとして、「国際的な調査」を求めた。

また、ロシアは「国連安保理決議は、軍事介入を認めたが、あくまで一般市民保護のための飛行禁止空域の設定にあった。カダフィが乗っていた車列を空爆したことは、安保理決議に違反している。またNATOはこれまで「カダフィの殺害が目的ではない」と主張してきたが、今回、「ついに目的を果たした」といった。「これは、明らかに矛盾している」と批判した。

4.アフリカ連合の創設者としてのカダフィ

これまで、マスコミは「アラブの春」の延長として、リビアの蜂起を報道してきた。そして、NATOの人道的軍事介入が効果をもたらした、と言う。たしかにNATO軍は一兵も失わなかった。これは、今後の戦争の見本となるだろう。

しかし、これまでカダフィが外交に力を注いできたのは、アラブや米欧でなく、アフリカであった。カダフィは54カ国にのぼる「アフリカ連合(AU)」の提唱者であり、AUの議長だった。亜フィ理科でのカダフィの評価は高かった。

今度のリビア革命についても、アフリカの見方は大きく異なる。

アフリカのニュースや分析などをインターネットで報道する『Pambazuka』という週刊誌がある。そこでは、リビアのNATO空爆を激しく攻撃してきた。その10月27日号に「リビアに対する10の神話」という記事が載っている。

その中には、

@2月に反カダフィのデモが始まると同時に、リビアのババシ国連代表が、「ベンガジが大量殺戮される」といって、国連の「保護責任(R2P)」原則の執行を求めた。ルアンダ虐殺を防げなかった国連のトラウマを利用して、カダフィの「黒い傭兵」の恐怖を煽り、カダフィ軍がベンガジに入れば、「血の海」になる、と証言した。

オバマ大統領、キャメロン首相、サルコジ大統領の3人は「NATOの空爆が、ベンガジの幾万もの人命を救った」といった。しかし、カダフィ軍が奪回したミスラタなどの都市で殺戮が起っていないことをどう説明するのだろうか。

さらに、Pambazuka誌は、国際法では、1948年の「大量虐殺の罪の防止と懲罰条約」は、「大量虐殺は、民族、人種、宗教に基づいた虐殺に限定」されている。単なる「多くの暴力」とは異なる、と主張している。

Aカダフィの「黒い傭兵」については、2月以来、ついにその存在は明らかにされなかった。そして、「黒い捕虜」として公開された黒人は、実は黒いリビア人、または黒い移民労働者であったことが判明し、「釈放された」とアムネスティ・インターナショナルも、認めた、と主張している。

Bアルジャジーラ・テレビが、カダフィが「兵士にバイアグラを配布して、レイプを奨励している」と放送した。これは、モレノオカンポ検察官、ライス米国連代表などに支持されたが、米軍当局に取材したNBCテレビは、「証拠はなかった」と報道している。

以上のことから明らかなように、リビアの反カダフィの2月以来の蜂起についての報道は一致しているが、その他の事実については、米、ヨーロッパ、日本などで報道されていることと、アフリカ側の見方とはまさに正反対である。