世界の底流  
カダフィのアフリカ計画

2011年12月25日
北沢洋子

1.石油国有化に成功

 1969年9月1日、カダフィ大尉は無血クーデターで、ギリシャ訪問中のイドリス国王を打倒した。当時彼は27歳であった。権力を握った後、自ら大佐に昇進したのは、エジプトのナセル大佐大統領を崇拝していたからだと言われる。

 カダフィは権力についた後、1970年に、リビアの外国石油会社の国有化を断行した。これは、産油国の中でははじめての偉業であった。これは、1953年、イランのモサデグ首相が、イギリスのアングロ・イラン石油(現在はBP)の国有化に失敗して以来、産油国の長年の夢であった。

 当時、リビアで最大の石油会社はシェル石油だったが、油田のシェアは過半数を持っていなかった。カダフィの戦略は、シェル以外の小規模なインディペンデント石油会社から国有化に着手した。そして、最後にシェルの国有化に手を付けた段階では、リビアの油田の大半はリビアのものになっていた。

 これによって、カダフィは単に「砂漠の若造」という認識を超えて、アラブ諸国をはじめ世界中から注目を浴びた。カダフィの石油国有化は湾岸の産油国を勇気づけた。そして、73年、第4次中東戦争を契機に、湾岸産油国の国有化につながった。

2.ムアンマル・アル=カダフィのプロフィル

 シルトのベドウイン出身であるカダフィは「砂漠の遊牧民の哲学者」を自称し、76〜79年に、『グリーン・ブック』3巻を発行した。この中で、カダフィは資本主義と社会主義を超える「第3の普遍理論」を唱えている。カダフィは、リビア国内でも、パリ、ローマなど外国訪問時も、白いテントを建て泊まった。とくに09年9月、ニューヨークの国連総会の出席の時には、郊外に建てた彼のテントは市当局と紛争になった。

 カダフィは、70年代から90年代まで北アイルランドのIRA、パレスチナのゲリラなど数多くの武装闘争グループを支援した。そのため、米国や英国などの西側諸国と敵対し、世界の「のけ者」になった。85年に発生した西ヨーロッパでの一連のテロ事件により経済制裁を受け、86年には米軍によってトリポリが空爆された。カダフィの妻が負傷し、養女が殺害された。その報復として、88年に、パンナム機103便をスコットランドのロッカービー上空で爆破した。

 01年の9.11事件以降、とくに米軍のイラク侵攻が始まると、カダフィは、核兵器などの「非通常兵器の放棄」を宣言した。その結果、米国、英国をはじめとして、西側諸国との協調路線にシフトした。一方、成果の出ない親アラブ外交から親アフリカ外交へとシフトし、アフリカ連合(AU)内で主導権を握ろうとした。

 カダフィの7人の息子たちが成長するにつれて、腐敗問題が起った。これはカダフィに限らず、インドネシアのスハルトなど独裁者に共通する。独裁者の息子というだけで、権力を持つ。その権力を乱用して、汚職、賄賂など腐敗を犯す。それが、民衆の怒りを買い、最後には独裁政権の打倒につながる。

 カダフィは、議会、軍司令部、官庁、労組、市民社会、NGOなどすべてを廃止した。例外は国営石油会社であった。そして、国名を「大リビア・アラブ社会主義人民共和国」に変えた。

 90年代、カダフィは数え切れないほどの暗殺を生き延びた。そこで、政治犯に対するカダフィの弾圧は、すさまじくなっていった。カダフィに敵対するとレッテルを貼られると、公開処刑された。また政治犯を収容していたトリポリのアブサリム刑務所では、放火で1,200人が焼死した。

 カダフィは、大統領の制度を廃止した。したがってカダフィは大佐という称号以外には肩書きはない。しかし、彼がリビアの最高権力者であったことには間違いないので、外国は彼のことを「リビアの指導者」と呼んだ。カダフィ自身は、「革命の指導者」と呼ばれることを好んだという。

3.カダフィのアフリカ計画

 カダフィは、多くの広大なプロジェクトを持っていた。そのほとんどは実現しなかった。たとえば、カダフィはNATOに対抗する「南大西洋条約(SATO)」の創設を唱えていた。SATOはアフリカとラテン・アメリカを含む。また、イスラム圏に共通する「ゴールド・ディナール基軸通貨」の発行を提唱した。

 カダフィの壮大な計画の代表は、「アフリカ合衆国」の創設であった。その実現のために、様々なプロジェクトに着手していた。たとえば、「大運河計画」がある。これはサハラ砂漠の緑化と灌漑化を目的としていた。

 またカダフィは、汎アフリカ金融機構の創設を提唱していた。これにはリビア投資機構とリビア外国銀行が大きな役割をはたす筈であった。その手始めとして、アフリアの衛星ネットワーク、すなわち、「アフリカ地域衛星通信機構(RASCOM)」を立ち上げようとした。これは、先進国に依存しているアフリカの情報を自立化する狙いがある。

 その他、アフリカ投資銀行、アフリカ通貨基金、アフリカ中央銀行などの創設を提唱していた。これはアフリカ合衆国創設の準備のためであった。

 2011年2月18日、米議会はリビアについての報告書を作成した。これは、カダフィの「富の再分配プログラム」についてであった。国営石油会社の収入を毎月国民に分配するというプロジェクトであった。カダフィはこのプログラムを直接民主主義のモデルだと説明した。そのために、国営石油会社、警察、軍隊、外務省を除いて、すべての政府機構が廃止になった。これには、深刻化していた政府機関の腐敗の一掃が真の目的であったと言われる。

 カダフィの「富の再分配プログラム」は、2009年はじめ、リビアの「基礎人民議会」が修正を決議し、その後、「リビア人民総会」がこのプログラムの実施を延期するという決議を採択した。そのため、カダフィは議会を廃止した。

 このプログラムに反対していた官僚のなかに、のち反カダフィ組織である国民評議会の首相となったモハモムド・ジブリルがいる。ジブリルは、カダフィの次男サイフ・アルイスラムによって、リビア経済を改革して、新自由主義を導入するために、引き抜かれた、という。

 ジブリルは、国家計画評議会と国家経済開発理事会という2つの機関の長になった。ジブリルは、理事会の議事録によると、カダフィの「富の再分配プログラム」を「クレジイ」と評したという。ジブリルは、リビアの国民は、直接民主主義には向いていないので、強いリーダーシップが必要だと考えていた。そして、今年2月の反カダフィ運動が始まる6ヵ月までに、すでにジブリルは、反カダフィの「暫定国民評議会」の素案を持っていたと言われる。