世界の底流  
アラブ世界は燃えている(その8)シリア

2011年7月9日
北沢洋子

1.シリアで民主化運動はじまる

  エジプトで民主化デモがムバラク大統領を追放する寸前の1月26日、シリアでも、40年間に及ぶアサド家の独裁支配に抗議するデモが起った。デモに参加したのは、主として青年たちであった。彼らは、「40年に及ぶアサド王朝の独裁と腐敗に抗議し、1963年以来続いてきた戒厳令の廃止と民主化を要求」した。
  この段階では、デモは散発的で、参加者も数百人と、小規模であった。 しかし、ヨルダン国境近くのダラ(Dara’a)で起った事件は、やがて、シリア全土を揺るがすことになった。
  3月15日、ダラで、小学生が、「アサドは辞めろ」などと今やアラブ世界では共通のスローガンを壁に貼ったところ、15人全員が逮捕されるという事件が起こった。これは、すべてのシリア人の怒りをかった。まず、ダラで1万人が街頭に出て、「アサド大統領の辞任」を要求するデモを行なった。ダマスカス、アレッポ、ホムス、ハマなど主要な都市で、数千人規模のデモが起こった。ついにシリアの反政府デモは全土化したのであった。
  こうして「3月15日」は、シリアの本格的な反政府デモの始まりになった。
  このデモに対する治安警察の弾圧はすさまじく、催涙弾やゴム弾を使い、無差別に3,000人の青年や子どもを逮捕した。シリアは、外国人ジャーナリストの入国を禁止し、厳しい報道シリア国内に長距離電話で取材しなければならない。
 
2.デモは連続し、広がっている

  シリア政府によれば、デモは、医師、弁護士、作家、ジャーナリスト、若い学者、そして、投獄されている政治犯の家族などがリーだーシップをとっていると言う。
  勢いづいた反政府派は、3月19〜21日、各地で3日連続のデモを行なった。とくにダラでは、前日のデモの犠牲者の葬式が行なわれ、これに2万人が参列した。政府は彼らをなだめようとして、犠牲者の家族に悔やみを述べるために大臣級の代表団を送った。しかし、彼らは市の有力者と面会しただけだった。これに怒った市民が広場に掲げられたアサド大統領の写真を剥がし、さらに、バース党の建物に火をつけた。
  4月1日の金曜日、首都ダマスカスの近郊の労働者街Doumaでは、数千人がデモをした。このデモでは少なくとも15人が死亡した。これらの犠牲者を弔うためにDoumaでは、次の金曜日に抗議デモを行なった。それは同じくダマスカスの近郊の同じく労働者街のDaraya,、Qaboun、Irbinなどにも広がった。
  この日、治安部隊は新しくデモに加わった町々の鎮圧に力を注いだので、Doumaは手薄に成った。同じく、反政府デモ最初に起ったダラからも治安部隊は撤退した。ダラは事実上「半自治区」になった。
  4月12日、はじめて大学に飛び火した。ダマスカス大学で学生たちが、「アサド退陣と民主化」を要求してデモを行なった。4月14日、アレッポで行なわれたデモには、近くの漁村Baydaから、家族を逮捕された女性たちが参加した。これはシリアで女性が参加した最初のデモとなった。
  アレッポとハマは反政府の拠点である。アレッポはシリア第2の工業都市で、トルコに近いクルド地帯である。一方ハマは、ダマスカスの北方にあって、1982年、父ハーフィズ・アサド大統領に対してモスレム同胞団が武装蜂起をして、2万人が虐殺されたところである。
 シリアの反政府派は、何とかしてエジプトの「タハリール広場」のようなデモの力の象徴となるような場を作りたいと願っていた。しかし、首都ダマスカスでの「Abbassiyeen広場」は、早くから治安部隊が占拠していたので不可能だ。
  そこで、十字軍時代の城が残っているレバノン国境近くのホムスを選んだ。4月17日、前日のデモで殺された14人を弔うためのデモが行なわれた。これは、ホムスではじめて大規模な反政府デモとなった。デモ隊は、ホムスの中心にある広場を「タハリール広場」と名づけ、エジプトのような座り込みを始めた。このデモは3日目の19日に入り、突如として、治安部隊が襲いかかり、実弾と催涙弾を発射した。その結果、大量の死者を出した。
  4月19日、アサド大統領は、反政府デモをなだめるため、1963年以来続いた「戒厳令」の廃止を発表した。しかし、事態は何も変わらなかった。デモには政府の許可が要り、市民的自由は保障されない。警察は相変わらず弾圧を続けているし、時代遅れの裁判所は廃止されていない。
  シリアの人権擁護団体「Insan」のWissam Tarif代表は、「シリアでは、街頭が一つの世界であり、大統領と政権はもう一つの世界である」と語った。
  6月20日、アサド大統領は、ダマスカス大学で講演した。3ヵ月前に反政府派のデモが始まって以来、3度目の公的スピーチであった。彼は、「現在行なわれているデモは、改革を要求しているのではない。単なる破壊主義だ」、「デモをやめないと、経済は崩壊する」などと語った。そして、彼は、バース党のほかに、政党の設立を認めると言った。そのため、委員会を組織し、9月、あるいは遅くとも年末までに憲法の修正を行なう、と発表した。
  シリアの反政府運動は、モスクで礼拝がある金曜日ごとに、全土でデモを繰り広げる。これをアサド政権の治安部隊が、厳しい弾圧を行なう。今度は、犠牲者の葬式デモが起こる、といったサイクルが繰り返されてきた。
  その結果、反政府派は、これまでの4ヵ月間で、1,400人が殺され、10,000人の逮捕者をだした、と言っている。また、隣国のトルコに11,000人が難民となって、流れ込んだ。
  さらに、トルコ国境近くの山中、オリーブ林の中に、各地から集まった数十人の活動家たちが、タップトップのパソコンを頼りに、「革命メディア・センター」活動を行なっている。北西部の貧しい農村、地中海に面したラタキアの繁華街など各地で撮った英雄的な闘争の映像を「シリアの革命情報」の名で、YouTubeチャネル、あるいはFaceBookを通じて放送している。
これは、厳しい鎖国制度を敷いてきたシリアの情報が外国に伝わることになり、シリア政府を困惑させた。

3.治安部隊の撤退

  7月1日、シリア軍と治安部隊は、突然、主要都市から撤退した。たとえば、1982年の民衆反乱の拠点であり、血なまぐさい弾圧を受けたハマでは、軍隊が都市部から郊外に撤退した。またイラク国境近くのAbu Kamal、ダマスカス郊外の衛星都市、東部のDayr az Zawrなどからも撤退した。
  6月3日、ハマから、ダマスカス、アレッポ、ホムスなどに通じるハイウエイで、デモ隊と治安部隊が衝突した。このとき、デモ側は73人の犠牲者を出したが、治安部隊側も打撃を蒙った。それ以後、政府は、反政府派と、「平和的に、器物を破壊しない」という条件で、「抗議行動を認める」という協定を結んだ。
  ハマでは反体制派の活動家も住民もともに「ハマは解放都市だ」と叫んで、喜び祝った。ハマ市長も祭りに参加した。しかし、これをどのように評価するかについては、異論があるようだ。まず、活動家もシリア駐在の外交官たちにとっても、「撤退」は驚きであった。政権側は、これ以上の犠牲者をだすことを恐れたためか、あるいは、弾圧メカニズムが、あまりにも広がり過ぎて、疲労したためなのか。
  ダマスカスの人権擁護団体InsanのWissam Tarif代表は、「これは戦術の問題ではない。政府は、疲労している。政府には、人材資源も、予算もなくなっているからだ」と語った。
これ以前にも、地中海沿岸のBaniyasや南部のDara’a などで、治安部隊が撤退した例がある。しかし、これは、すぐに戻ってきてより厳しい弾圧を行なうためだった。今回のハマでの「撤退」は都市のサイズ、撤退の規模ともに以前のものとは比べられないほど大きい。
  すでに4ヵ月になるシリアの反体制デモは、新しいダイナミズムの時期に入ったようだ。
ハマでは、6月27日に開かれた集会で公然と「バシャール・アサドの退陣要求」の決議が行なわれた。これまで、政府の宣伝道具であったシリアの国営テレビが、はじめて、この集会の模様を報道した。

4.国連安保理でのシリア決議採決ならず

   6月に入り、米、英、仏の3国は、シリア制裁決議を国連安保理に要求したが、中、ロの反対で採択に至らなかった。
  このとき、安保理でのシリア代表の発言は、世界を驚かした。Jaafari国連大使は、「米国、イスラエル、トルコなどが、シリアを不安定化するために、イスラム主義者の武装テロリストを送り込んでいる。流血騒ぎは、彼らの仕業だ」、「シリアの暴動と不安定化という項目には、もう1つの隠された要素がある。それは、反政府派のデモに潜入していることだ。そのため、犠牲者の多くは、治安警察や軍隊である」と演説した。
  また大使は、「アサド大統領は、改革派である。彼は戒厳令を廃止し、これから政治改革を始める予定だ。したがって、アサド大統領にこれらの課題を実行に移すだけの時間を与えて欲しい」と付け加えた。
  反政府派は、大使の声明を笑いものにした。「アサドが、父親から大統領の職を引き継いだのは11年前のことだ。この間、彼は何もしなかった。そればかりでなく、改革を口にする者を投獄してきたではないか」と反論した。
  潘基文国連事務総長は、「平和的なデモを戦車や実弾で対処することは認められない」として「犠牲者の国際調査団を送る」ことを提案した。しかし、シリア政府は「すでに政府が調査をしている」として、拒否した。

5.アサド王朝の独裁と腐敗

   1946年、シリアはフランスから独立した。1958年、シリアはエジプトと合併し、「アラブ連合共和国」になった。これは、エジプトのナセル大統領の「アラブ民族主義、汎アラブ主義」でもってアラブ世界を統一する、という理想に共鳴した結果であった。しかし、シリア国内にこの統合に反対するものが多く、早くも、1961年、連合を解消し、再び、「シリア・アラブ共和国」に戻った。
  1963年、バース党が政権を握った。シリアのバース党は、イラクのサダム・フセインのバース党と友党だが、実際には、あまり仲良くなかった。イラクでは少数派のスンニー派が多数派のシーア派を支配していたが、シリアでは、シーア派に属するAlawite族がスンニー派を支配している。これが両国のバース党の相違である。
  バース党は、「アラブ社会主義復興党」の略称である。この党の基盤は、教師、下層官僚、弁護士などインテリ・プチブルジョワジーであった。当時、シリアには、ハレド・バクダーシという優れたリーダーを持った共産党やアラブ社会主義連合党などがあった。バース党はこれらと統一戦線を組んで、オール与党になっていた。シリアの独裁政権の芽はここにある。
  バース党は、自身の階級基盤が弱いので、ひそかに、軍隊の中にバース党支部をつくることに専念した。共産党が、合法政党であることに甘んじて、党のプロパガンダに明け暮れている間に、バース党は軍隊を掌握してしまった。したがって、バース党は軍事クーデターに頼ることなくして、軍事独裁政権を樹立することが出来た。
  バース党は穏健派と急進派の対立があったが、1971年、穏健派の空軍司令官だったハーフィズ・アサドが軍事クーデターで政権を握った。
  2000年にハーフィズ・アサドが死に、次男のバシャール・アサドが政権を継いだ。
  彼は、ロンドンで眼科医の留学中であったが、長男の交通事故死で急遽、帰国して、大統領に就任した。
  彼は、政権が独裁と腐敗にまみれていることを知っていたが、政治的能力はなかった。しかも、彼はすでに独裁と腐敗の親族に取り囲まれていた。弟のマアール・アサドは、現在進行中のデモ弾圧で名高い精鋭第4機甲師団と軍の共和国防衛隊を率いている。義理の兄弟のアセフ・シャウカットは情報局を握っている。
  また、彼の従兄弟で幼友達のラミ・マフルーフ(Rami Makhlouf)はシリア1の大富豪である。彼の弟Hafezはダマスカスの情報局長である。
  Makhloufは、シリア最大の携帯電話会社Syriatelのオーナーである。彼は、シリアの不動産、運輸、銀行、保険、建設、観光業などを握っている。Makhloufには「アサド家の銀行」あるいは「ミスター・5〜10%」というあだ名がある。これは、シリアでビジネスをする場合、Makhlouf に賄賂を払わねばならない、ことを意味している。
  以上見たように、眼科医だったバシャール・アサド大統領が、独裁、腐敗にメスを入れることは、ほとんど不可能である。
  今年6月18日、ラミ・マフルーフは、「企業経営からの引退し、慈善事業に専念する」を発表した。これをまともに信ずるものは、いない。なぜなら、反体制デモが、民主化要求とともに、政権と企業の癒着や腐敗の非難を高めていることに対する懐柔策に過ぎないからだ。
もう一つの見方は、アサド大統領が、EUの経済制裁と反体制派の抗議行動を恐れて、親戚のマフルーフを犠牲にしたと言う。なぜなら、彼は、アサド政権腐敗のシンボルであり、デモ隊が彼の携帯電話会社のビルに火をつけたこともある。

6.反政府勢力の現状

  7月2日付けの『インターナショナル・ヘラルドトリビューン』紙は、「若い活動家たちが、さまざまな対立する勢力を統一し、しかも自身は非中央集権化している」という見出しで、ベイルート発の記事を載せた。これは、シリアの反政府勢力についいての最新の情報である。
長い間、シリアの反政府勢力は沈黙してきた。しかし、街頭でデモをするだけでなく、1つの無視できない政治勢力として浮上した。それはインターネットで、対立する部族を結びつけ、無視されてきた少数派民族に呼びかけ、長い間、分裂してきた反政府勢力を団結させ、そして、尊敬を集めている。
  この政治勢力は、各地に「調整委員会(Coordination Committee」を設立している。これは、シリアの運動が決定的な段階に入ったことに備えたのであった。反政府デモが、これまで要求してきた根本的な改革が実現するかどうか、瀬戸際にある。
  「調整委員会」の組織化に成功した理由は、非中央集権性にある。各地の「調整委員会」はそれぞれ独立した存在である。また、この「調整委員会」は完全に地下組織であり、また、運動のスタイルは徹底して「民族主義」を貫いている。
  6月27日、シリア政府は、各地から集めた既存の勢力と話し合いをしたが、同時に若い活動家との話し合いを模索している、と伝えられた。ある政府高官は、匿名を条件に「これまでは、単に活動家としてか見ていなかったが、今では実態的な反政府勢力になった。彼らは、それぞれ独立した組織ではあるが、共通の声を持っていることは確かだ」と語った。
  シリアの反政府勢力が、ホムスやハマのような都市で、盛り上がったのは、「調整委員会」が敵対する宗派、宗教、民族、階級間の橋渡しをする役目を果たしているからである。シリアは、多宗派、他宗教、多民族がモザイクとなっている国である。しかし、そのなかでアラウイ派が独裁的に権力を握っている。これが問題だ。
  各地の「調整委員会」は、友人や仲間の間に作ったインフォーマルなネットワークを基礎にしている。
  ダマスカスの活動家で、レバノンに亡命し、「調整委員会」の設立に貢献した活動家のRami Nakhle によれば、「我々は、まず、ニュースを伝えることからはじめた」と語った。これら活動家は、シリアでデモが始まる前に、「アラブの春」に備えて、携帯電話、衛星放送のモデム、コンピュータなどを国内に持ち込んでいた。Nakhleは、「最初の調整委員会は、ダマスカス郊外の反政府勢力が多いDarayaで組織された」、しかし「最も良く組織されているのは、シリア第3の都市ホムスである。ホムスはシリアの反政府デモの中心地になっている」と語った。
  ホムス調整委員会のスポークスマンで、今はレバノンに亡命しているOmar Idelibiは、「ホムスの調整委員会には22人のメンバーがいる。そのほか100人がデモの記録をとっている。彼らは、小さな放送局の役目を果たしている」と語った。
  「調整委員会」のメンバーの数は、シリア全土では、100〜200人と言われているが、彼らは、毎朝10時にインターネットのチャットルームを通じて、連絡している。
  「調整委員会」は、それぞれ独自の戦略を持っている。たとえば、ハマでは、夜間のデモで、Aasi 広場を占拠した。ダマスカス郊外のDumaでは、市民が水道、電気、電話などの代金を払わないといった不服従運動を展開している。
  「調整委員会」のメンバーは、逮捕されるのを避けて、デモには参加しないで、勤めに出ている。工科大学の学生(23歳)Aliは「我々は、街頭ではなく、バーチャルな世界で活動し、生きている」と語った。
  調整委員会にも問題がないわけではない。たとえば、Razan Zeitounehや、Suheir al−Atassiといった2人の有名な女性が組織した調整委員会は、ジェンダーの問題で別の組織になっている。また、東部のクルド人の居住区で、別の組織を結成する動きがある。
  各地の「調整委員会」は、かなり良く組織されたものになっている。そして、アサド政権の支配のよりどころだった経済は後退している。