世界の底流  
アラブ世界は燃えている:その7バーレーン

2011年6月29日
北沢洋子

1.バーレーンにサウジ軍が侵入してデモを弾圧

 「民主化」を要求するデモは、バーレーンにも飛び火した。2月14日、朝早く、労働者街から約5,000人が、首都マナマの中心地「パール広場」に集まり、ハマド・ビン・イサ・アル・ハリファ国王の退陣を要求した。
 日を経るごとに、デモ隊の数は増え、200,000に達したといわれる。これに対して、軍隊と警察が、神経剤入りの催涙弾でもって弾圧した。これは1993年、国連条約で禁止されている化学兵器であり、バーレーンも批准国である。
 3月14日、突如として、サウジアラビア軍率いる「半島シールド軍」が、バーレーンに侵入し、デモを鎮圧した。
 この直前、3月11〜12日、ゲイツ米国防長官が、前触れもなくバーレーンを訪問している。侵入直後の3月16日、ハリファ国王は戒厳令を施行した。
 「半島シールド軍」は、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、クエート、オマーン、カタール、バーレーンの6カ国からなる「湾岸協力会議(GCC)」が派兵したことになっている。実際には、サウジアラビア軍にアラブ首長国連邦が加わっただけだった。
 GCCを研究している専門家は、GCCの「半島シールド軍」は、加盟国が外国から侵略を受けた時に派遣されるもので、今回のバーレーンのように国内の反体制デモの鎮圧に派遣することは出来ない、と言っている。

2.バーレーンの歴史と社会状況

 バーレーンは、ペルシャ湾の奥深く、アラビア半島に属している島で、15世紀頃まで真珠の産地として知られた。デモがあった「パール広場」の名の由来である。石灰岩と砂漠に覆われたこの島は、水に恵まれたオアシスでもある。旧約聖書の「エデンの園」は、バーレーン島北部にあったという説もある。
 ハリファー家がカタールから移住してきたのは、18世紀になってからだが、1880年、イギリスがバーレーンを保護領にした。イギリスから独立したのは1971年だった。
 バーレーンの人口は、公式統計がないので、推計だが、原住民が600,000人、プラス300,000万人が他所から移住してきた新住民である。
 人口に比べて、石油・天然ガスという地下資源に恵まれている。とくに最近7年間、原油価格が高騰したので、国庫の収入は3倍になった。しかし、この富を市民の雇用と住宅など社会に還元されることはなかった。
 現在、家がなくて、何世代もが同居していて、新しい住宅に入居できるのを待っている家族が5万世帯にのぼる。その中には、20年も待っている家族もいる。これらの人が住んでいる旧市街と郊外の漁村の衛生状態は最悪である。
 彼らは、バーレーンの原住民であるにもかかわらず、異国人であるかのように感じている。なぜなら、つい最近まで海であったところに、高層住宅、ショッピング・モール、世界貿易センター、金融街などが立ち並ぶ別世界が出現したからだ。
 新たな干拓地は、面積にして、20%にのぼっている。わずか30年間で、バーレーンは、世界の金融や貿易の中心地になり、米国やヨーロッパの投資家、金融業者、多国籍企業、そして、金持ちの観光客を呼び込むことが出来たのであった。
 当然のことながら、このような干拓事業は、島の海洋資源、とくに魚資源の枯渇をもたらした。とくに漁業で生きている人たちにとっては打撃であった。一方、急速な開発は、土地の高騰をもたらし、これがスラムの住民の生活を脅かした。

3.米第5艦隊の母港

 もう1つのバーレーンの特徴は、ペルシャ湾に展開する米第5艦隊の母港になっていることである。このことは米政府が、バーレーンの民主化要求デモに対する政府の弾圧に対して、曖昧な態度を採っている理由である。
 昨年、バーレーンは、米国から1,950万ドルの軍事援助を受け取った。額は少ないが、人口1人当りに換算すれば、エジプトに対する軍事援助より大きい。

4.バーレーンの野党勢力
 バーレーンのハリファ家は、サウジアラビアやクエートと同じくスンニー派のアナイザ族出身だが、島の原住民の70%はシーア派である。したがって、マスメディアなどでは、今回のデモを、スンニー派の支配に対するシーア派住民の反乱と見る向きがあるが、デモ隊は「宗派対立ではない」と言っている。
 バーレーンの最大の野党は、2005年に設立された「自由と民主主義のためのHaq運動」である。そのリーダーであるHassan Mushaimaaは、民主化デモが起ったときには、亡命先のロンドンにいた。彼が急いで帰国しようとした時、ベイルート空港で逮捕された。その理由はバーレーン政府から彼に逮捕状が出ているということであった。しかしこれは嘘だった。バーレーン政府のMaysoon Sabkarスポークスマンは、「逮捕状は出ていない」と語った。その結果、Mushamaaは帰国し、「パール広場」のデモ隊に歓迎された。
 Haq運動は、より穏健な野党「Wafaq党(イスラム国民統合協会)」から分裂して、出来た。 Haq運動は、議会選挙をボイコットしているので議員はいない。
Wafaq党は、Haq運動よりも穏健で、40人の議会の中で18人の議員を抱えている。

5.我々は皆バーレーン人だ
 
 サウジアラビア軍が侵入して以来、政府に逮捕されたWafaq党のMohammed Abu Flasa 議員とEbrahim Al Sharif 議員はスンニー派出身である。
 デモは「我々は、シーア派でもなければスンニー派でもない。バーレーン人だ」と叫んでいるが、ハリファ国王、サウジアラビア、米国にとって見れば、シーア派がバーレーンの政権を握れば、近くにあるサウジアラビアの油田地帯のシーア派住民、対岸のシーア派イランなどと結びつくと恐れている。
 サウジアラビア軍は、シーア派に弾圧を集中させている。マナマのシーア派のモスク十数ヵ所がすでに破壊された。これは、宗派間紛争に持っていこうとするものである。しかし、バーレーンは部族社会ではない。ハリファ家がやってくる前には、シーア派、スンニー派ともに漁民、農民ともに仲良く共存していた。