世界の底流  
アラブ世界は燃えている:その6 イエメン

2011年6月27日
北沢洋子

1.イエメンの民主化運動

 チュニジア、エジプトと続いた「アラブの春」と呼ばれた革命は、夏に入り、イエメンに引き継がれたようだ。
 今年1月27日、首都サヌアや南部のアデン港湾都市でも「サレハ大統領の退陣」を求めるデモが起こった。この段階では、デモはサヌア大学やアデン大学の学生たちに限られていた。
 ついに、2月25日、金曜日、サヌアでの「怒りの日」には、デモの参加者は1万人に達した。もはや、高等教育を受けた学生だけでなく、イエメンの諸部族、イスラム導師、社会主義者、イスラム主義者、分離主義者などが、「反サレハ」ということでは一緒にデモをしたのであった。同時に、これは、イエメン社会の複雑な構造が背景にある。
 6月3日、大統領宮殿内で爆発事件が起こり、サレハ大統領が負傷し、翌日、治療のため、サウジアラビアに搬送された。イエメン政府高官たちは、「怪我は軽傷で、回復に向かっている」と言っているが、米国やサウジアラビアの政府筋は、「全身6割のやけど」だといっており、「帰国しない」と言っている。現在、Abed Rabbo Mansour al-Hadi副大統領が代行しており、サレハがどこにいるか、いつ帰国するのかなど゙といったことは不明である。

2.南北イエメンの歴史

 イエメンは、アラビア半島の南端に位置し、「旧約聖書」によれば、「シバの女王」の土地であったとされる。長い間、オトマントルコの支配下にあったが、1839年、イギリス帝国主義が、紅海の入口にあたる要衝アデン港とその後背地である南部イエメンを占領し、保護領にした。これはアデン港が、「アフリカの角」の対岸にあたり、紅海に入る要衝の地となっていたからであった。ジブラルタル、香港、フォークランド島を奪ったのと、同様の手口であった。
チュニジア、エジプトと同様、イエメンも石油資源に恵まれていない。そればかりか、中東で最も貧しい国である。最貧国の債務帳消し国際キャンペーン(ジュビリー2000)の際も、中東ではイエメン一国だけが、帳消しの対象国になった。
 1918年、オトマントルコ帝国の崩壊とともに、北イエメンは独立し、王政が敷かれた。しかし、1962年9月、軍事クーデターが起り、王政は倒され、共和国となった。これは、1952年、ナセル大佐が率いたエジプト自由将校団が、エジプト王政を倒したことに影響を受けたと、言われる。そして、1978年、タイズの軍司令官だったアリ・アブドラ・サレハが北イエメンの大統領に就任した。
 一方、南イエメンでは、反英独立運動が高まり、1967年、ついにイギリスが撤退した。そして、マルクス・レーニン主義政権が誕生した。国名もイエメン人民民主共和国と名乗った。
1990年5月22日、南北イエメンが統一し、「イエメン共和国」となった。これは、アラビア半島内では唯一の「共和国」となった。そして、北イエメンの大統領だったサレハが南北統一イエメンの大統領となった。そして、2011年1月、サレハ退陣を要求するデモが始まるまで33年間、イエメンの大統領の地位にあった。

3.反サレハ・デモがもたらしたもの

 2011年6月18日付けの『インターナショナル・ヘラルドトリビューン』紙は、「イエメン人は反政府座り込みデモで対立を克服」と題する記事を載せた。
 サヌアには、エジプトの「春」の時のカイロのタハリール広場のような人が集まれるような広場がない。その代わり、郊外のサヌア大学の前に座り込みのテント村が出現した。このテント村の存在が、イエメンの対立していたこれまでの複雑な社会構造を変えたのであった。
たとえば、これまでイエメンでは部族間は互いに対立し、「血の復讐」を繰り返してきた。ところが、テント村で生活するようになったら、一緒に座り、食べ、踊っているうちに、対立を忘れてしまったようだ。これはイエメンの歴史上考えられないことであった。
 学生たちは、人口では45〜50%を占める北部ザヒディ族の反乱者と語り合う中で、彼らがこれまで政府の新聞が描いてきた「悪魔」ではないことを発見した。これまで屋内だけに暮らしてきた女性たちが、大勢の人の前で演説し、聴衆を驚かせた。
 今では「チェンジ広場」と名づけられたこのテント村では、4種類の日刊紙と2種の週刊誌が発行された。エジプトのタハリール広場の人民蜂起は18日間で終わったが、イエメンでは5ヵ月に及ぶ長い座り込みの時間があったので、人びとがお互いに理解し、絆を創ることが出来たのであった。しかし、一方では、その分だけ長く、サレハ大統領派の治安部隊から弾圧を受け、犠牲者を多く出すことになったのだが。
 同様の座り込みはイエメン各地で展開された。部族の人びともライバルの部族から不意打ち攻撃を受けるという恐れがなくなった。このようなことは、イエメンの歴史上初めてのことであった。多くの人が、仕事を放棄して座り込みに加わった。それが、イエメンの経済の崩壊を促進させることになった。
 サヌア大学前のテント村は、レストラン、医療クリニック、演説台、庭などが整備された1つの大コミュニティとなった。ここでは、アート・ギャラリーや展覧会が開かれ、さまざまなセミナーや講義が数多く開かれた。
 エジプトのタハリール広場と異なり、サヌアのテント村は町の中心部にはない。そこは、サヌア大学の塀に沿って、複雑に錯綜している道路があり、そこには、以前から店、家、オフィスがあった。そこに、テント村が出現し、新しいコミュニティとなることが可能であった。驚くべきことには、ほとんどのテントには、近くのビルから電気コードを引いてきて、テレビとインターネットが備わっている。
 しかし、最近では、テント村の住人たちもいささかへたばってきたようだ。それは、夏の暑さ、市内での治安部隊との衝突、燃料不足などが原因である。とくに、長く続く不安定な政治情勢や、サレハの去就の不明確性などから来ている。
 しかし、テント村は依然として、意気軒昂であり、カーニバルのような様相さえ呈している。村では、ダガーを腰にさした部族の人びとが、「神はお前の顔を焼いた」といった部族の歌を歌っている。これは、暗にサレハのことを指している。
 物売りたちが荷台でトマトやキュウリを売っている。他の荷台では、フルーツ・ジュース、揚げた菓子などを売っている。
 周囲のビルには、数え切れないほどの政治団体の旗がはためいている。テントには政府の弾圧の犠牲となった殉教者の顔が書いてある。テント村の道路には、泥濘、プラスチクの袋、ビラ、食べ物、それに、イエメン人が元気付けのために噛むQatと呼ばれる葉っぱのかすなどが落ちている。
 サヌア大学の社会学のDughesh Abdel Dughesh教授は、「ここでは、新しい価値観が誕生しつつある。たとえば、大部族の首長が、道路を清掃している。原子力物理学者がゴミを捨てに行っている。これは驚くべきことだ」と述べた。
 Dghesh教授は、当初から妻、2人の息子、3人の娘という大家族を引き連れて、テント村に住み込んでいた。そして、自ら社会学の講義をするばかりでなく、さまざまなテーマのセミナーを企画している。
 しかし、テント村にも問題がないわけではない。たとえば、6月14日、2つの抗議集団がデモ行進のルートをめぐって対立し、殴り合いとなり、十数人が怪我をした。
 また、リベラル派のDughesh教授もイスラム主義者から嫌がらせを受けた。教授の講義の後で、多数の椅子を盗んだりした。広場で演説したり、歌を歌ったりした女性たちもイスラム主義者に脅迫されるという事件もあった。
 イエメンの主要なイスラム主義の政党Islahは、後からやってきて、デモを始めた学生たちを取り込もうとしている。原理主義のイスラム主義者は、テント村の多様性を嫌っていたのかもしれない、と嘆くものもいるが、一方では、リベラル派とイスラム主義者の対立はむしろ健康的である、という人もいる。