世界の底流  
アラブ世界は燃えている:その3 エジプト革命 II

2011年2月16日
北沢洋子

1.エジプト革命を担う人びと

 今回のエジプト革命を担ったのは、政党でも、軍隊でもない。指導者もいない無名の青年たちであった。そして、市民の大規模な平和的なデモを18日間続けて、独裁者ムバラク辞任という勝利をかち取った。1月14日のチュニジア革命に続いて、エジプト革命は21世紀の革命のパターンではないか。

(1)「4月6日青年運動」

 中でも、最大の役割を果たしたのは、フェイスブック上の「4月6日青年運動」である。
「4月6日」とは何の日か。これは、私が2007年1月10日に『世界の底流』に書いたのだが、ここに再録する。

 “エジプトでは、カイロから北東130キロのガゼルアルマハタにある国営Al-Mahata繊維会社の労働者2万人(その4分の1は女性労働者)が、民営化に反対してストを行い、これを撤回させた。これは、第三世界での民営化反対闘争の中で労働者の大規模なストによって勝利した数少ないケースである。
 戒厳令が続くエジプトでは、これまで労働運動は封殺されてきた。その中で、1988年以来始めてのストの勝利であった。
 Al-Mahata社の労働者のストに対して、会社側が民営化は合理化のためだと言い、一方で、年末に200ポンド(35ドル)のボーナスを出すと約束した。これに対して、労働者は抗議して、5日間のストを宣言し、同時に数ヵ所の工場を占拠した。
 労働者は、またガゼルアルマハタ市内で、工場の腐敗と、世銀が進める民営化に反対を訴えたデモをした。デモ隊は会社の会長の名前を書いた棺を担ぎ、その辞任と腐敗の調査を要求した。また約束されたボーナスの支払いも要求した。
 この大規模なデモに対して、いつも野蛮に弾圧するエジプトの警察は驚くばかりで、なすすべもなかった。エジプト政府は占拠された工場に軍隊を送ったが、工場の周りに配置しただけで、5日間、手を出さなかった。
 エジプトでは、このストはここ数年間になかったことで、規模も最大だった。新聞は「労働革命」という題をつけ、デモの様子を写真入で第1面に報道した。“ 

 労働者のストに連帯して、2008年4月、カイロで、Ahmed Maher(30歳、エンジニア)とAhmed Salah(30歳、フットボール選手)の2人がインターネット上に、「4月6日青年運動」と名の「フェイスブック」を立ち上げた。戒厳令下で表現や集会の自由が奪われているので、インターネット匿名性を利用した。
 フェイスブックは、09年1月には、70,000人が登録した。これらの多くは、30代前後の青年で、弁護士や医師などを含む高等教育を受けたものが多い。彼らはムバラク政権が発足した時代に生まれ、戒厳令下の生活しか知らない。ネット上で交わされている議論は、表現の自由、縁故主義、経済不況など多岐にわたっていた。そして、教育に見合った職を得ることが出来ないことに怒っていた。
 チュニジア革命が、彼らのマグマに引火したのだ。
 アラブ世界では、アラビア語という共通語を持っている。アラブの青年たちは、インターネットを駆使して、闘いの手段などの情報を交換し、議論し、分け合ってきた。これは21世紀型の汎アラブ主義と言えよう。
 このインターネットを使ったアラブ青年たちの連帯が始まって以来、すでに2年になる。
 そこには、デモに対する警察の弾圧をどのように対抗するか、などの情報が多く載っている。例えば、ゴム弾をどう避けるか、バリケードを築く、警察の捜査を逃れるなどの技術が書いてある。また、デモの規律についても、サッカーファンや宗教のエネルギーなども参考にした。
 彼らは、非暴力主義に徹している。ガンジー、キング師、それに米国の政治思想家Gene Sharpの著書「独裁から民主主義へ」などに学んでいる。Sharp教授は、「警察国家での武装抵抗は警察の弾圧を正当化させる」と書いている。また、彼らは、セルビアの独裁者ミノシェビッチを2000年に倒した青年運動「Otpor(抵抗)」から多くの経験を学んでいる。
 「4月6日青年運動」のリーダーの1人であるWalid Rachid氏は、2011年2月15日付けの『インターナショナル・ヘラルドトリビューン』紙のインタービューに対して「チュニスの仲間はエジプトを動かした。今度はエジプトが世界を動かすのだ」と語った。

(2)ワエル・ゴネイムとフェイスブック「我々は皆ハレド・サイードだ」

 エジプト革命が「インターネット革命」と呼ばれることを象徴しているのが、ワエル・ゴネイム氏(31歳)であろう。彼は「グーグル」のドバイ支局で市場調査の仕事をしていた。
 彼はもともと政治とはかかわりがなかったが、絶え間ない警察の弾圧にうんざりしていた。彼は、インターネットの技術に通じていたので、「我々はみなハレド・サイードだ」という名のフェイスブックを立ち上げた。彼は、1月25日の反ムバラクのデモを呼びかけた後、帰国したところで逮捕された。
 「ハレド・サイード(28歳)」とは、昨年6月にアレクサンドリア北部のネットカッフェで身分証明書の提示や所持品検査を拒否したため、警官の暴行を受けて死亡した青年であった。こうして、彼は、ムバラクの暴政の殉教者になった。
 ゴネイム氏の「フェイスブック」にサインした人びとは10万人を超えた。その多くは、「4月6日青年運動」のフェイスブックと重複している。
 すでにこのシリーズ「エジプト革命I」で述べたことだが、2011年2月12日付けの『朝日新聞』によれば、ゴネイム氏が、釈放後、テレビのインタービューで、匿名をかなぐり捨てて流した涙が、2月11日の最後の金曜日の大デモにつながったと言う。彼のテレビ番組は、「ユーチューブ」に転載され、フェイスブックには、「私たちはゴネイムを信じる」という新しいグループが生まれた。
 ゴネイム氏は、1年前に帰国していたエルバラダイ氏と「4月6日青年運動」のMaher氏の間の連絡係でもある。

(3)エルバラダイ氏と「変革のための国民協会」

 エルバラダイ氏は、1997年から09年間、ウイーンにある国際原子力機関(IAEA)事務局長を務めた。2005年に、エルバラダイ氏はIAEAとともにノーベル平和賞を受賞した。
 1年前、彼は、「変革のための国民協会」という組織を設立した。メンバーの多くは青年たちである。エルバラダイ氏は、反ムバラクのデモがはじまった後、1月27日にウイーンから帰国した。彼は反ムバラクのデモに参加したが、海外生活が長かったので、エジプト国内に基盤を持っていない。したがって、今回の革命でエルバラダイ氏が果たした役割は少ない。

(4)ムスリム同胞団(Muslim Brotherhood)

 ムスリム同胞団は、シャリア法にもとづいたイスラム国家の樹立を目指している。1928年、エジプトに誕生した中東で最も古いイスラム組織である。現在も、ムスリム同胞団は、エジプト最大の組織である。議会には無所属の名で、8議席を持っている。支持率は約20%といわれている。
 設立当時、エジプトは英国の軍事占領下にあり、同胞団は、イスラム教でもって英国支配と闘う組織であった。第2次世界大戦中、英国と闘うために、「敵の敵は味方」ということで、ナチス・ドイツに接触した。ナセルの自由将校団のメンバーだったサダト(のち大統領に就任)は、ムスリム同胞団のメンバーで、エルアラメインのドイツ軍に呼応して、反英テロを行なって投獄された。
 王政を倒したクーデターの日、1952年7月23日夜、サダトは妻と映画を観に行って蜂起に参加できなかったため、自由将校団のシニアー・メンバーであったにもかかわらず、ナセル政権では不遇であった。60年代、私が働いていたカイロのアジア・アフリカ人民連帯機構の議長という閑職についていた。
 一方、ムスリム同胞団は、ナセルのクーデターに参加したが、後、ナセル暗殺未遂事件を起こし、非合法化された。
 1967年6月、第3次中東戦争でエジプトはイスラエルに敗北して、シナイ半島を占領された。ナセル大統領の権威は失墜した。これは、アラブ民族主義の終焉であった。同時に、アラブ世界の第1世代の退場でもあった。
 1970年ナセルの死後、副大統領であったサダトが大統領の座についた。サダト政権下でムスリム同胞団は、活動を復活させると同時に、内部にテロを容認する過激派「ジハード団」などが台頭した。そして、サダトがイスラエルと和平協定を結ぶと、81年、同胞団のジハード団が、第4次中東戦争勝利の記念日の祝典でサダトを暗殺した。
 かつて、ムスリム同胞団の一員で、反英テロを企てたサダトが、同じムスリム同胞団の過激派に暗殺されたのは皮肉なことである。
 また、エジプトのムスリム同胞団のメンバーが、アルカイダやガザのハマスの設立に加わっている。アルカイダのナンバー2で理論家のアイマン・ザワヒリやハマスの創設者、故アフマド・ヤシンは、エジプトのムスリム同胞団のメンバーであった。
 ムスリム同胞団本体は、サダト暗殺以来、非合法化されてきた。しかし、これは、ムスリム同胞団を名乗って議会選挙に立候補するなど政治運動は出来ないが、日常的には社会運動に力を入れてきた。ととえば、医療、教育、生計支援など貧しい人びとの中で活動している。