世界の底流  
アラブ世界は燃えている:その2 エジプト革命 I

2011年2月16日
北沢洋子

1.反ムバラクのデモの18日間の日誌

 チュニジアの23年に及んだ独裁者ベンアリがサウジアラビアに逃亡して間もなく、1月25日(火)、エジプトで反ムバラクのデモが起こった。1月15日、チュニジア革命に触発され、連帯のデモであった。
 1月25日のデモは、5万人規模であった。主として、裕福なインテリ青年であった。エジプトではこの日は、イギリス占領時代の警官の反乱を記念した「警察の日」という休日であった。
 デモは、主としてインターネットのフェイスブックの「4月6日青年運動」や「ハレド・サイド」などの呼びかけで集まった青年たちであった。彼らは、30年に及んだ独裁者ムバラク大統領の退陣を求めて、カイロの中心地「タハリール(解放)広場」に集まった。この日、同じようなデモが、アレクサンドリア、スエズ、ポートサイドなどエジプトの主要都市でも起こった。地方からキャラバンを組んでカイロにやってきたものもいた。
 最初、治安警察は、非合法な集会だとして、デモを解散させようとしたが、あまりの人数だったので失敗した。警察は、翌日のデモに対しては、放水車、ゴム弾、催涙弾などを乱射して、デモを解散させようとした。また、私服の秘密警察が手当たり次第に青年たちを逮捕して、護送車に送り込んだ。
 デモ側の死者は、公式には14人と発表されたが、300人に上ったといわれる。とくに水平発射したゴム弾での死亡や怪我が多かった。
 にもかかわらず、デモは毎日続き、日を経るごとに増えていった。ついに、イスラムの礼拝日の金曜日(1月28日)には、100万人の「怒りの行進」が行なわれた。午後になるとモスクで礼拝を終えた人とびとが広場に集まりはじめた。これには、国軍の戦車などが、タハリール広場や議会、大統領官邸などを守るために配置された。しかし、その銃口はデモ隊に向けられていなかった。
 この日のデモには、エジプト最大の組織「ムスリム同胞団」が積極的に参加した。ムスリム同胞団は、全国的に草の根で活動しており、そのため、金曜日のデモには、地方や都市の裏通りの貧しい人びとが参加した。そして、このデモはエジプト史上最大のものとなった。
このデモには、27日に帰国した「国際原子力機関(IAEA)」の前事務局長で、ノーベル平和賞を受賞したモハメド・エルバラダイ氏が参加した。
 同じ1月28日夜、ムバラクの英国人との混血の妻スーザンと後継者だった次男のガマルがロンドンに逃げたという情報が入ってきた。
 翌1月29日、ムバラクは、国営テレビに出て、前日の100万人のデモに対する答えとして、「オマール・スレイマン情報長官を副大統領のポストに任命し、内閣を総辞職させ、民間航空相だったアハアメド・シャヒクを首相に任命した」と発表した。
 憲法で定められている副大統領職は、ムバラクが大統領の座について以来、空席だった。スレイマンは、ムバラクの側近中の側近であった。シャヒクもまた、ムバラクの取り巻きの1人だった。
 同時に、ムバラクは「息子ガマルを後継者にしないこと、自分自身は9月に予定している大統領選挙に出馬しないことを約束し、それまでの間、大統領職に留まる」と述べた。
 ムバラクの「大統領演説」は、デモの参加者たちの怒りに油を注ぐことになった。金曜日の100万人の行進を成功させて、ムバラクが辞任することを期待した人びとを裏切ったからだ。
 この日から、カイロの街頭から警官が姿を消した。その代わり、軍が動員され、国営テレビ局、エジプト考古学博物館、議会、大統領官邸などを守った。しかし、軍はデモ隊に対しては銃口を向けていなかった。エジプトでは、人びとを苦しめる秘密警察は嫌われているが、1973年第4次中東戦争でイスラエルに勝った国軍は、尊敬され、親近感を持たれている。
 しかし、カイロ市内では、街頭から警官が消えたため、略奪や放火事件が起こった。ショッピング・センター、ホテル、高級住宅地、警察署、それに与党の「国民民主党(NDP)」本部や外務省のビルなどが焼き討ちにあった。いずれも、貧しい人びとの怒りの矛先であった。しかし、タハリール広場では、人間の盾でもってエジプトの財産である国立考古学博物館を守った。
 証券取引所をはじめ、商店がシャッターをしめ、カイロの経済は止まってしまった。
 通信・情報技術省が、金曜日の前日から、全ネット回線を管理する国営テレコムエジプトに遮断を命じた。中国などネットを規制する国はあるが、インターネットを遮断したのは、エジプトが初めてであろう。これはデモに参加を呼びかける情報が広がるのを抑えるのと、参加者同士が連絡をとれないようにするためだった。
 にもかかわらずネット上では、金曜日以後のデモ参加を呼びかける情報が多数飛び交っていた。それは「フェイスブック」、「ツイター」や携帯電話の簡易メールなどを使ったからだった。
 また、エジプト情報局は、『アルジャジーラ』のカイロ支局を閉鎖し、記者証を取り上げた。これに対して、ロンドンに本部がある「国際放送協会(AIB)」は、「放送の自由に対する侵害である」として強く非難した。
 2月1日(火)には、タハリール広場のデモが始まって以来1週間が過ぎたが、デモは一向に衰えなかった。この日も「100万人のデモ」の呼びかけに、ムバラクの退陣を求めるデモは100万人を上回まった。にもかかわらずムバラクは、この夜、テレビに出て、「大統領の座に留まる」と発言した。
 翌2日(水)には、タハリール広場に異変が起った。
 午後になると、反ムバラク派が集まっていたタハリール広場に、突然、ムバラク支持派がらくだや馬などに乗って、突入してきた。彼らを捕まえた人びとの話では、らくだに乗っていたのは、ギザのピラミッドで、観光客を乗せる商売をしている観光業者たちで、「警察から、デモで観光客が来ないと言われた」と語った。また、反ムバラク派に石や火炎瓶で攻撃した人びとは、私服警官や秘密警察であった。そのほかのは、カネで雇われてきた貧しい人びとであった。
 広場の乱闘は夜まで続いた。反ムバラクのデモ隊は多くの犠牲者を出した。最後に軍隊が介入して、ムバラク派を広場から追い出した。
 3日夜、ムバラク大統領は国営テレビに出演して、「自分が辞任したら、混乱に陥り入り、国はムスリム同胞団に牛耳られる」と語った。
 2月4日、再び金曜日の礼拝の日がやってきた。反ムバラク派は、この日を「追放の金曜日」と名づけて、100万人の行進を呼びかけた。この頃になると、タハリール広場のデモには、子どもを連れた家族連れが増え、屋台まで出て、お祭り気分になってきた。参加者は、「平凡な市民が歴史を作るところを子どもたちに見せたかったからだ」と語った。
 広場には、徹夜する人のために、毛布が持ち込まれ、広場の脇に建設中の現場に設けられたトイレに行儀良く列を作った。エジプトでは、列を作って待つということは、これまで決してなかった文化である。
 2月6日(日)、スレイマン副大統領は、野党の政治家、財界人、知識人などを招いて、対話した。これには、非合法のムスリム同胞団も対話に参加した。また、「ワフド党」という、半世紀前の王政時代の幽霊政党も呼ばれた。しかし、4月6日青年運動は対話を拒否し、またエルバラダイ氏は呼ばれなかった。
 会見を終えたムスリム同胞団は、「スレイマン副大統領は、ムバラクの退陣という最優先課題を認めなかった」として、闘いを続行すると発表した。政権側が出したムスリム同胞団の非合法解除という取引条件に応じないことを明らかにした。
 エジプト情勢は、もはや、このような姑息な手段では解決できなくなっていた。
 2月7日(月)、ドバイから帰国して以来、拘束されていたワエル・ゴネイム氏が釈放された。この夜、ゴネイム氏はテレビのインタービューを受けた。このとき、自分が呼びかけたデモで命を落とした青年たちの写真を見せられて絶句し、「私は、安全なところからキーボード叩いただけだ。英雄は街頭にいる人びとだ。私ではない」と泣きながら語った。
 このテレビ放送に触発されて、それまで停滞ぎみだった反ムバラクのデモが息を吹き返した。
 2月11日、3度目の礼拝の日の金曜日がやってきた。反ムバラク派はこの日を「勝利の日」と名づけた。デモは、タハリール広場を埋め尽くしただけでなく、議事堂前、そして15キロ離れた大統領官邸前に、それぞれ5万人近くの人びとが集まった。これまで議事堂も大統領官邸も、軍隊が守っていて、デモ隊近づくことさえ出来なかった。
 タハリール広場は、もはや市民の怒りを押し込めておくには、狭くなっていた。広場のデモには、指導者も事務局もいない。すべて、市民が自主的に声を挙げるために集まっていた。
そこで、不測の事態を防ぐために、人びとは、自主的にさまざまな工夫を凝らした。デモ隊は、一斉に、「平和的に」という言葉を唱えた。自分たちの怒りが破壊につながらないように気を配ったのであった。
 30年間続いた独裁政権が倒れるのを、皆とともに見届けようとして、家族連れなどで集まったデモで広場は身動きできなくなっていた。そこで男性のボランティアが手をつないで、人びとが動けるように誘導路をつくった。また人びとが意見を述べるための即席のステージ、病人や怪我人を収容する救護班のテントなどが設けられた。また、広場の人びとに、カイロ市民から差し入れされた食べ物などを無料で配る「配給所」も設けられた。
 エジプト市民は、これほど団結したことはない。ムバラクへの怒りは、このような市民の連帯感につながった。
 金曜日の夕方、ムバラク大統領辞任の報がタハリール広場に伝わった。1月25日、ムバラク打倒のデモが始まった日から数えると18日であった。
 同じ日、スイス政府は、ホスニ・ムバラクはじめ妻など12人の資産を凍結した。これまでスイスは、独裁者の資産隠しの天国であったが、汚名を注ぐために、今年に、新法を施行した。凍結資産の持ち主の国家元首が、国有財産横領で有罪となった場合、国に還元できるようになった。ムバラク一族の資産凍結は、この新法の適用第1号である。