世界の底流  
アラブ世界は燃えている:その1 チュニジア革命

2011年2月15日
北沢洋子

1.チュニジア:ベンアリ政権の打倒

 それは、1人の失業青年の焼身自殺から始まった。昨年12月17日、チュニス市内のSidi Bouzidの路上で、Mohamed Bouazizi(26歳)が、警察によって野菜のカートを没収されたことに対する抗議の行為であった。アラブ世界では、イスラムの教えで自殺が禁じられているので、焼身自殺は非常に珍しい。また、アルカイダ系の自爆テロに訴えなかったことも珍しい。
 Bouaziziはカレッジを卒業したが、まともな仕事に就けなかった。しかし彼は一家を養わねばならなかったため、路上で野菜や果物を売っていた。彼は、腐敗した警官にバクシーシ(賄賂)を何度も支払わねばならないことに、絶望したのであった。
 彼の死は、ジン・アビディン・ベンアリ大統領の圧政と腐敗に対するチュニジア全土の青年の抗議デモを引き起こした。デモを呼びかけたのは、数ヵ月前、Hawd el-Mongamy市で起った労働者のストに連帯した青年たちが立ち上げた「チュニジア進歩青年」という名の「フェイスブック」であった。
 毎日、ベンアリ大統領の即時辞任を求める数千人規模のデモが休むことなく続いた。社会不安を抑える目的で、政府は1月12日、全国の小中学校、大学の閉鎖を命じた。これで、かえって学生のデモ参加が増えた。
 1月15日付けの国営『チュニジア・ニュース』によると、これまでに、少なくとも14人の死者が出たと報じている。
 そして、今年1月15日、Bouaziziの死から28日後、ベンアリ大統領が2014年までの残りの任期を放棄して、サウジアラビアに亡命した。こうして、23年にわたったチュニジアの独裁政権は青年たちの辞任要求デモによって崩壊した
 最初、ベンアリはフランスに亡命を申請した。しかし、フランス政府は、国内の65万人(その多くは政治亡命)のチュニジア移民の反発を恐れて、入国を許可しなかった。
 そこで、サウジアラビアに亡命したのだが、それは、彼の最初の妻の子ども、第2の妻ライラの子どもたちとその家族、それに、ベンアリの7人の兄弟姉妹とその家族、ライラの10人の兄弟姉妹とその家族という大ファミリーを引き連れた亡命であった。残りの親戚はパリに逃亡した。これは、ベンアリ一族の利権と腐敗がいかに広範囲にわたり、かつすさまじかったかを物語る。
 実際、Trabelsi族と呼ばれるベンアリ一族は、チュニジア国内の銀行、不動産、メディア、観光、商業を一手に握っていた。新たに、これらの業種に参入しようとする者は、多額の賄賂を一族に払わねばならなかった。
 1月17日、ベンアリが国を去った後、ムバッザア暫定大統領とガンヌーシ首相が暫定政権を発足させた。ガンヌーシ首相は議会内野党、労組幹部、それに政府批判で逮捕されていた有名なブロガーのアマモウ氏などを大臣に任命した。一方では、与党のRCDが暫定政権の主要なポストを独占した。与党の大臣たちはRCDの党籍を離れたというジェスチャーをした。
 しかし、学生、労組、非合法化されていた復興党などはこれに満足せず、デモを継続した。また、入閣した非RDC系の大臣たちが次々と辞任したため、政府は危機に瀕した。

2.チュニジアの独立後の歴史

 チュニジアには、隣国のリビアやアルジェリアのような石油や天然ガスの埋蔵はないが、地中海気候に恵まれ、ヨーロッパからの観光とリゾート地として栄えてきた。
1956年、チュニジアはフランス保護領から独立した。当時は数少ないアフリカの独立国であった。ハビブ・ブルギバというカリスマを持った穏健な民族主義者が長い間、チュニジアを統治した。
 ブルギバ大統領は、世俗主義を推進し、とくに女性の地位向上と教育改革に力を入れた。
女性政策では、男女平等を推進し、議会の女性議員の数は20%を記録している。チュニジアの女性たちは、イスラム原理主義に反対し、今回の革命でも、女性独自のデモを組織するなど、大きく貢献した。
 1958年、ブルギバ大統領は、教育改革に着手した。識字率がわずか15%だったためである。彼は多くの学校や大学を建てた。その結果、高等教育を受けた青年が大勢生まれたが、それに見合う雇用は増えなかった。国内産業第一位の観光業では、そんなに雇用は増えない。
 一方、1956〜66年の10年間、大勢のフランス人、ユダヤ人、イタリア人が引き揚げた後、その真空をチュニジア人が埋めた。他のアラブ諸国に比較すると、チュニジアに教育を受けた中産階級が多いのは、ブルギバ時代の政策の結果であった。
 1987年、チュニジアは債務危機に陥った。IMFの新自由主義政策を導入するには、民族主義者のブルギバが邪魔になった。この年に、ブルギバ大統領は、当時陸軍の将軍で治安相であったベンアリを首相に任命した。
 ベンアリなどブルギバの取り巻きたちは、彼が死ぬのを待っていられないので、「ブルギバの健康は衰えており、頭もおかしくなっている」というデマを流して、大統領の座から追放した。彼らは、これをチュニジアの“無血革命”と称しているが、実際は宮廷内の「メディカル・クーデター」であった。
 1987年11月、ベンアリ首相は大統領に就任した。以来、チュニジアは、ベンアリ政権の抑圧政治の下に置かれた。しかしチュニジアの市民社会は、絶え間なく闘ってきた。1990年、ベンアリ政権が湾岸戦争を支持したことに反対して、数十万人の抗議デモが起っている。
 2009年の議会選挙では、ベンアリの「立憲民主党(RDC)」が89%を得票した。この選挙をめぐって、ベンアリ政権側の野党に対する弾圧と、大量の不正行為が、人びとの怒りを買った。
ベンアリ大統領の新自由主義政策によって、小麦、砂糖、食用油、ガソリンなどの価格が高騰し、失業が増大した。それにつれて、ベンアリ一族の汚職と腐敗が蔓延した。これに反対するものには警察が厳しく弾圧した。とくに食糧価格については、今年1月の第1週だけで、25%も値上がりした。これらのことが、今回のチュニジア革命の原因である。
 Bouaziziは昨年12月17日に焼身自殺し、今年1月4日に死亡した。警察は、彼の葬式を禁止した。これに対して、Sidi Bouzidの青年たちが怒りのデモをした。これが、チュニジア全土を揺るがす革命のはじまりだった。
 チュニジアのピープルズ・パワーによる独裁政権打倒は、「ジャスミン革命」と呼ばれる。ある人は、これを、「パンのためのインティファーダ(蜂起)」と呼んでいる。経済闘争であると同時に政治闘争であった。
 問題は、この革命が、チュニジア1国に留まらなかったことである。

3.チュニジアの革命勢力

  1988年、チュニジアに複数政党制度が導入されたが、その後も、与党「立憲民主連合(RDC)」による一党支配が続いた。

(1)野党勢力

 議会内野党では、「社会主義民主運動(MDS)」がある。古く1920年に創設され、フランス共産党に出自を持つ。
 今回の革命で、注目されたのが、1981年に設立された「復興党(Hizb Al Nadha)」である。これは、協力関係にあるチュニジア共産党とともに、これまで20年間、非合法化されてきた。復興党の創設者は、20年間、ロンドンに亡命していたRashid Ghannouchiである。1990年代、帰国して、チュニスの大学での講演を聞いた人によると、彼は非常にラジカルだったという。
 また復興党の指導者で14年間投獄されていたAli Larayedhに期待が集まっている。彼は、後半の6年間、秘密警察の獄に入れられ、ひどい拷問を受けた。ベンアリの逃亡後、釈放されたAli Larayedhは、都市の労働者、地方の農民だけでなく、海岸沿いのコスモポリタンなエリートたちからも信頼されており、革命後の指導者にふさわしい。
 彼は、1月22日、『インターナショナル・ヘラルドトリビューン』紙のインタービューに「アラブ世界に対する米国の介入に反対する。ベンアリのような独裁者を支持していたからだ。」と語った。また「我々はイスラム教徒であるが、現代化に反対するものではない」と言い、「女性の地位の向上に努める」と語った。
 復興党は、草の根の影響力を持っていると言われるが、アルジェリアの「イスラム救国戦線(FIS)」やアルカイダのテロ闘争を否定しており、穏健なイスラム運動である。

(2)労働組合

  チュニジアで最も大きな反政府派組織は「チュニジア労働総同盟(UGTT)」である。フランス保護領時代の1948年に創設され、現在は30万人が加盟している。UGTTは今回の革命では、学生とともに、大きな役割を果たした。

(3)ブルギバ派

  革命の最終段階で参加した勢力である。ブルギバ派は、中産階級であり、イスラム化に反対している。
 以上の3つの勢力で、今後のチュニジアの根本的な政治、経済、社会改革を遂行していくことが可能だろうか。これが問われているところである。
 1月25日、暫定政権は、最も古く、かつポピュラーな「ハンニバル・テレビ」のオーナーを逮捕し、ネットワークを閉鎖した。「ハンニバル・テレビ」が元大統領に対する中傷を行い、反乱をそそのかした」というのが口実であった。実際には、ハンニバル・テレビが非合法の共産党の指導者Hamma Hammami氏のインタービューをその日の夜に放送する予定であったことが理由のようだ。
 これは、ベンアリ後も暫定政権が、表現、結社の自由を認めていないことを示している。そして、1月23日朝、政府がデモ隊に対して、放水車でもって解散させようとしたのだが、軍隊がデモ隊を守り、警察を追い出した。軍の将校は「これはとても難しい仕事だ」と語った。1月24日には、地方から人びとがやってきて、デモに加わった。チュニスの住民たちは、古いマットレスや食べ物を入れたかごを持ってきた。
 1月26日、米国務省の中東担当のJeffrey D. Feltman 次官がチュニス入りして、暫定政権と話し合った。しかし、暫定政権は、ひたすらデモが静まるのを待つ以に手はないようだ。