世界の底流  
オサマ・ビンラディンとは何者だったのか

2011年5月31日
北沢洋子

1.ビンラディン射殺の報

 オバマ大統領は、5月1日、日曜日の夜半、ホワイトハウス東棟からドラマティクなテレビ出演をした。その内容は、現地時間で2日、月曜日の未明に、アメリカ本土で最も破壊的な攻撃を行い、世界中で指名手配されていたオサマ・ビンラディンをパキスタン国内で殺害した、と発表した。この報は、来年の大統領再選を」狙うオバマ大統領の支持率を高めた。
 サウジ生まれのビンラディンは、9.11事件によって、それまでヒトラーやスターリンなみの「独裁者」というレッテルを貼られ、米国の最大の敵となってきた。
 オバマ大統領は、「正義は行なわれた」と語った。そして、これまで10年以上も米軍の追及を逃れてきたビンラディンをついに追い詰め、ビンラディンが抵抗したので、頭部に向けて射殺した、と述べた。彼の遺体は、埋葬すれば、将来テロリストの聖地になるので、海に捨てられた、と付け加えた。
 オバマ大統領の演説の直後、ワシントンのホワイトハウス前、ニューヨークのタイムズ・スクエア、9.11の跡地などに熱狂した米国市民が集まり、米国旗を振りながら「USA!USA!」と叫んだ。
 しかし、米国以外の国では、ビンラディンが射殺され、遺体が海に捨てられたことに疑問視するものが多かった。米国でも、9.11の犠牲者の家族の中には、ビンラディンが逮捕され、国際法廷にかけられ、真実を明らかにして欲かったと主張するものもいた。

2.CIAの最大の敵

 ビンラディンの捜査は、アフガニスタンからタリバン政権を追放した2001年12月、
パキスタンとの国境近いトラ・ボラの洞窟に対する何日もの米軍機による猛爆ではじまった。しかしビンラディンとその仲間は見事逃れたようであった。以後、10年近く、彼の行方はわからなかった。
 以来、ビンラディンは、イスラム世界の英雄となった。少なくとも、CIAは、ビンラディンが、エジプトからチェチェン、イエメンからフィリピン、イラクからスペイン、インドネシアにいたるまで広がった戦闘的なグループを「アルカイダ」のもとに統一することに成功したと言った。はたして、これが本当だったか判らない。「アルカイダ」のメンバーの数、その細胞がどの国に広がっているのか、全く憶測の域を出ない。ただ、ビンラディンが「アルカイダ」は、化学、細菌、核兵器で武装していると、自称している。
 ビンラディンは、イスラムの「聖戦」を極めて近代的な方法で行なっている。彼は、「ファトワ(イスラムの法令)」をファックスやE−メイルで送る。また爆弾製造法をCD−ROMにして送っている。或る米国の高官は、米政府よりかビンラディンの方が、良い通信手段を持て入ると嘆いた。ビンラディンはグローバリゼーションを存分に利用した。
 ビンラディン以前は、テロは国家のスポンサーであった場合が多いが、ビンラディンはテロリストが国家をスポンサーすることになった。1996年から2001年の5年間、ビンラディンは彼を匿ってくれる代償として、アフらニスタンのタリバン政権に巨額の資金を提供した。この間、一方では、ビンラディンは「アルカイダ」を、テロを輸出する多国籍企業に仕立て上げた。
彼は、国際メディアを存分に利用した。「富裕な生活を投げ捨てて、大義のために生きる」というスタンスをとった。1997年、CNNが彼にインタービューした時、それはトラ・ボラの洞窟の中であった。しかも彼は、米国の経営者と同じく「事前に質問表を要求した」。
 ビンラディンの言い分で1つだけ真実がある。それは、「米国のダブル・スタンダード」である。1997年、CNNに対して「米国は、我々のことをテロリストと呼ぶ。パレスチナの子どもが石を投げても、テロリストと呼ぶ。しかし、イスラエルがベイルートの国連ビルを爆撃したとき、その中には女性や子どもたちが沢山いたのに、米国はこれを非難しなかった」と述べている。

3.パキスタンの軍都に隠れ家

  ビンラディンの隠れ家は、パキスタンの首都イスラマバードから北東56キロのところのアボタバードにあった。ここはパキスタンの軍都であり、隠れ家の1.5キロの所に陸軍士官学校がある。
 隠れ家は4〜5メートルの高い塀に囲まれ、一辺が61メートルもある三角地にあった。この家には電話もインターネットもなかった。
 月のない5月2日夜、79人の米特殊部隊を乗せたヘリコプター2機がアフガニスタン領から侵入した。パキスタン軍のレーダーに気付かれないように低空を飛行するステルス型であった。その中の一機が着地の際に壊れたので、米軍部隊自ら破壊した。
 戦闘はわずか40分に終わった。特殊部隊は、邸内の5人を殺害した。その中に、背の高い白い髭を生やした男がいた。頭を撃たれていた。それがビンラディンだったという。ビンラディンと一緒に二階の寝室にいた第三番目の妻(29歳)は、彼を庇おうとして、足を撃たれた。彼女は期限が切れたイエメンのバスポートを持っていた。同じ部屋にいた13歳のビンラディンの娘は、「父は逮捕された直後に、目の前で射殺された」と述べている。米軍側は「ビンラディンが自爆用のベルトをしていると思ったので、射殺した」と述べている。いずれにせよ、ビンラディンが武器を持っていたかったことは、明らかである。
 ビンラディンの遺体は写真に撮られ、そのままヘリはアラビア海北部に向かい、カールビンソン空母から海に投げ捨てられた。もはや誰も彼を発見することはできない。米軍は、イスラム教の習慣に従って、24時間内に埋葬しなければならなかったから、という。

4.富豪の息子からグローバルなテロの頭目になるまで

  ビンラディンは、イエメンからの移民で、メッカの巡礼者のポーターから身を起こして、サウジアラビア最大のゼネコン王となったムハマッド・ビンアワド・ビンラディンの50人の子どもの中で、1957年、七番目の息子として生まれた。彼の母親は、オサマたった1人を生んだ。他の年上の3人の妻がサウジアラビア人であったのに比べて、シリア人であった。シリア女性はアラブ世界では最も美しいと信じられていた。
 子どもの頃のオサマ・ビンラディンは、サウジの王子たちと馬に乗って遊ぶようなエリート社会の一員であった。父はオサマ・ビンラディンが10歳の時に、飛行機事故により死亡した。"レバノンの床屋"によると、「オサマは酒を飲み、女遊びをしていた」と言うが、一方では、彼は17歳のときに最初の結婚をしている。妻は従姉妹で14歳だった。
 中東情勢が急変したのは、1978年、ソ連がアフガニスタンに侵攻し、79年にイランでイスラム革命が起ったことだった。しかし、米国は、ベトナムの敗北から立ち直っておらず、ソ連の侵略に直接介入することは不可能であった。
 そこで、CIAが、サウジアラビアその他のイスラム国から、「ジハド(聖戦)」のゲリラを募集した。この際、CIAは直接手を染めず、パキスタンの軍情報部(ISI)を通じて行なった。
 多数のジハド・ゲリラが応募した。これを統率するリーダーが必要だった。しかし、サウジの王子たちは誰でも嫌がった。そこで、当時、ジッダのアブデル・アジズ王立大学の学生で、イスラム同胞団の一員だったビンラディンが候補に挙がった。「富豪の息子がジハドの戦士となる」ことは、アラブ世界で一つのエピソードになった。
 この時、ビンラディンは、一つの条件を付けた。1年のうち最低2度帰国して、大学を卒業することということだった。数年の後、彼は大学を卒業した。一方、ビンラディンは、戦士ではなく、あたかも外交官のようにアラブ諸国を訪問し、支配者に会い、莫大な資金を集めた。その中に、CIAの資金も含まれていたのは間違いない。せいぜい彼が訪問したのは、パキスタン領ペシャワルの難民キャンプであった。ビンラディンはここに彼が宿泊するゲストハウスを建設した。

5.米国CIAとパキスタンISIの代理人

  ビンラディンはパキスタンのペシャワルにゲリラ訓練所を設立し、「アルカイダ(基地)」と名づけた。一時期、隊員は25,000人を越えた。アフガニスタン国内の彼らのゲリラ基地は、トラ・ボラの洞窟であった。
 ビンラディンは、カラシニコフ銃AK47を手にした写真を好んで使った。彼は、これを殺したソ連兵から奪ったものだと称した。しかし、彼が戦闘に参加したことはない。ビンラディンはカリスマ性を持ち、優れた組織力を発揮し、資金集めに長けていたことは確かだ。
 オサマ・ビンラディンは「アルカイダ」を中央主権の「政党」にするのではなく、それぞれ細胞自身が独立した運動体にした。これは、最近の「反・組織」方式に似ている。通常「暴力」は権力を取る出段だと考えられているが、ビンラディンは違っていた。
 彼は、花々いいテロ活動を通じて、資金集めのネットワークを広げ、マスメディアを動員することにある。かれは、「アルカイダ」には、人種、派閥、国籍を問わなかった。したがって、ビンラディンが亡き後も、「アルカイダ」は行き続けるだろう。ただし、彼ほどのカリスマ性と資金集めに長けたものはいないだろう。
 そして、2011年2月、チュニジアとエジプトで起った「アラブの春」は、ビンラディンのテロを霞ませることになった。そして、米国は、これ以上イラクとアフガニスタンに駐留する理由はなくなった。
 ソ連撤退後、アフガニスタンでタリバンが政権を握った。貧しい神学生のタリバンに、資金を供給したのは、オサマ・ビンラディンであった。彼は、父親の遺産を投げ出したと称しているが、アラブの支配者やCIAの資金を流用したことは間違いない。
 ビンラディンが、家族とともにアボタバードに移ったのは05年と推測される。彼はこの家の建築費に100ドルを費やしたと言われる。3人の妻と幼い子を引き連れて、要塞のような家に引きこもっていたのだ。彼の仕事は、年に数回、声明を出すことだけだった。
 昨年8月、CIAはパキスタン国内のビンラディンの隠れ家を突き止めた。これはグアンタナモ基地や東欧のCIAの秘密収容所で、アルカイダやタリバンの捕虜をひどい拷問にかけて、パキスタン人の連絡係の正体を聞きだした。
 この連絡役は双子で、彼らの妹がビンラディンの息子の1人と結婚している。CIAは、この連絡役の後をつけて、ビンラディンにたどり着いたのだった。その家は、パキスタン人の連絡役には、立派過ぎた。
 CIAは、「スズキ」に乗った連絡役をペシャワルで発見した。後をつけると、パキスタンの北部のアボタバードに行き着いたのであった。これが、ヘリコプター襲撃の8ヵ月前のことであった。

6.ビンラディンの息子たちの声明

  5月10日、オサマ・ビンラディンの4番目の息子であるオマール・ビンラディン(30歳)は、『ニューヨークタイムズ』紙に声明を送った。彼は1999年、父親の「テロリズム」に反対し、別れて、母親(Najwa Bin Laden)と幼い兄弟姉妹と共にサウジアラビアに帰り、母と共著で『ビンラディンとして育って(Gwoing Up Bib Laden)』というタイトルの本を出版した。
 彼は、「あらゆる暴力に反対」という立場を貫ぬいでいる。そこで今回の彼の声明では、「非武装の人間(ビンラディン)を殺し、家族(29歳の妻)を撃ち、遺体を海に捨てるという基本的な法的原則を破った」と米政府を非難している。彼は「イラクのサダム・フセインや、セルビアのミロシェビッチなどと同様に」、なぜ「オサマ・ビンラディンは、逮捕され、国際法廷で裁かれなかったのか?」「そうすれば、世界は9.11を含めた一連の真相をしることができたはずだ」と主張した。さらに彼は。パキスタン政府に対しても、オサマ・ビンラディンの3人の妻と子どもを釈放するよう要求し、国連に対して、ビンラディンの死の真相を明らかにすることを要求している。
 オサマ・ビンラディンと別れて、サウジアラビアやカタールで暮らしている残り3人の成人の息子たちも、この声明に同調しているという。

 明らかに米特殊部隊の作戦は、オサマ・ビンラディンを逮捕するのではなく、暗殺することが目的だった。彼が法廷で何を喋るか、恐れたのであろう。CIAを最もよく知る男だからだ。
ビンラディン攻撃について、事前に知らされていなかったパキスタン政府と軍は、「主権侵害」だと怒った。米国側は、ビンラディンがパキスタン軍の保護なしにアボタバードに居住することは出来なかった筈だと応酬した。しかし、これには、パキスタンが核兵器保有国であり、パキスタンが米国から月10億ドルの軍事援助を受けている、ことが背景にある。