世界の底流  
スーダンの選挙と石油

2010年8月30日
北沢洋子

1.スーダンの4月総選挙

 先進国での選挙は、エリートの権力交代といくらかの政策の変更をもたらすのだが、これが、長期にわたって複数政党政治を経験したことがなく、暴力で政治を動かしてきた途上国での選挙は、どのような結果になるのか予測するのは難しい。今年4月11日に行なわれたスーダンの選挙は後者に相当する。 
 この選挙は、2005年に締結された「包括的和平協定」にもとづいて実施され、大統領、国会、地方議会の選挙が同時に行われた。スーダンでは、過去24年間もの間、複数政党制による選挙を経験したことがなかった。そのため、多くの人が投票所に行かなかった。また、選挙に関する教育も情宣も行なわなかった。そのかわり、人びとは政府主催の政治集会に動員された。
 通常、民主主義国では、選挙を通じて、政府や政策が決まるのだが、スーダンではそうではなかった。スーダンでは、誰が選ばれようと、政府や政策は変わらないし、同じ盗人と取り巻きによる政治が続くだろう。スーダンにはまともな政治家と呼べるものはいない。
 スーダンの政治にとって、より重要なことは、25州の地方議会の動向である。それは、社会福祉、平和に大きな役割が期待されているからである。
 バシールの「国民会議」党、は北部では多数派をとってはいる。しかし、注目すべき点は、反対派や無所属議員が増えたことである。地方議会では、一定の議席が女性に割り当てられている。地方議会の権限がどのようなものになるか、また女性がどのような役割を果たすのか、まだ明らかではない。現在、市民社会は選挙の評価を行なっている最中だ。

2.バシールの勝利

 今回の大統領選挙で勝利したのは、相変わらずオマール・アル・バシール(Omar al-Bashir)大統領である。彼はどうしてもこの選挙に勝たねばならなった。なぜなら、国際刑事裁判所(ICC)が彼をダルフールでの「人道に対する罪」、「戦争犯罪の罪」で起訴しているからだ。バシール大統領は、アフリカとアラブの指導者に支持されてるので、ICCが彼を逮捕するチャンスは少ない。とはいえ、バシールには、スーダンの国民が彼を支持しているというショーが必要だった。
 選挙中、彼は、すべてのセクターの人びとに“公約”を乱発した。一方、野党候補を投獄した。彼は、軍、治安部隊、そして行政機関を支配している。彼自身、外国、とくに中国との交渉を独占し、ごく僅かだが、経済開発プロジェクトに資金を出し、そして、都市部のエリート層の育成に力を注いでいる。

3.スーダンの野党

 大統領選の初期には3つの野党候補が立候補していた。

(1)アル・サクディク・アル・マフディ候補

 野党の中でもっともよく知られている大統領選の候補者は、1986〜89年に2度にわたって首相を務めたアル・サディク・アル・マフディ(al-Sadiq al-Mahdi) であった。 
 彼は1989年にバシール将軍のクーデタで打倒された。彼は、ダルフール地域に勢力を持っているイスラム神秘主義の「マハディーヤ・スフィ(Mahdiyya Sufi)」派を政治基盤にしている。ちなみにマフディは、1882年の反英闘争の英雄マヘディの孫であると称している。

(2)ムバラク・アル・マフディ(Mubarak al Mahdi)は、「ウンマ(Umma)党」から脱党して、無所属で立候補した

 彼は、大統領選では8位であった。ちなみに、Umma 党はスーダン北部に基盤を持っているが、、常に少数派であった。しかし、無所属で国会に当選した議員の中にムバラク・アル・マハディの影響を受けた人が少なくない。

(3)ハティム・エル・シール候補

  マハディ候補と同じSufiだが、「ミルガーニヤ(Mirghaniyya)」派に属し、預言者モハメッドの子孫だと名乗っているムハメッド・オスマン・アル・ミルガーニ(Muhammed Osman al−Mirghani)が、「民主統一党(DUP)」という名の政党を率いている。その候補者としてハティム・エル・シール(Hatim El Sir)が大統領選に立候補したが、Sufi 派以外にはほとんど票を取れなかった。また彼は、ダルフール紛争に影響力を持っていない。
 Sufiは、堅い票を持っているが、国会と北部の地方議会では少数派である。

(4)アブドラ・デン・ニアル候補

  これまであまり知られていなかったが、今回の総選挙で比較的善戦したのは、ハッサン・アル・ツラビ(hassan al-Turabi)率いる「人民会議」であった。この政党は与党「民族会議党」でツゥラビがバシールとが仲たがいした後、2000年に結成された。
ツゥラビは、40年間、政権の座にあった「民族イスラム戦線」のイデオローグであった。今回、ツラビは、エジプトのムスリム同胞団に近いが、法にもとづいたイスラム改革を目指して、今回大統領選に参加した。
  彼は、2つのSufi 派の勢力に打ち勝つためには、イスラム法に基づいているが、現代に即応し、すべての人に開かれた「非Sufi イスラム」を普及しようとしている。このような運動はスーダン国内にとどまらなかった。ツゥラビは、国外で彼のドクトリンを教えるだけでなく、軍隊、警察、学者、行政官の幹部の訓練に協力した。
 1989年にクーデタが起こったとき、ツラビの部下たちは、国の重要な部署についていた。しかし、ツラビ自身はフランスと英国の哲学の学士号を持つインテリであった。国家元首には、彼よりも人気があり、強い人物がふさわしい。そこで軍人のバシール准将が選ばれたのであった。ツラビは与党の「民族イスラム戦線」の党首となり、国会議長となった。
 バシールとツラビとの蜜月は2000年まで続いた。バシールは、十分に自分の部下が育ったと判断し、政党名を「民族会議党」と改名した。ツラビは逮捕され、以後刑務所と自宅監禁を繰り返すことになった。
 今回の大統領選では、ツラビの右腕のアブドラ・デン・ニアル(Abdullah Deng Nhial)が「人民議会」の候補として大統領選に出馬した。大統領選では、ニアルは第3位となり、国会議員選挙では、北部でバシールに次ぐ第2党となった。これに脅威を感じたバシールは選挙後の5月16日、ツラビを再逮捕した。

4.包括的和平協定(スーダン南部問題)

 2005年、南北間の「包括的和平協定」以来、南部は、理論的には准自治だが、実際には、ほとんど独立状態にある。南部の大統領は、サルバ・キール・マヤルディ( Salva Kir Mayardit) だが、同時に彼は、スーダン全土の副大統領でもある。キリスト教徒であるキール・マヤルディは、スーダン全土の大統領選には出馬しなかった。
 むしろ彼は、2011年に予定されている住民投票に備えて力を蓄えているのだと言われる。これまで、キール・マヤルディは、南部の大統領選挙では93%という高い支持を得てきた。
 南部の政党は唯一「スーダン人民解放運動(SPLM)」である。多分、キール・マヤルディ以外の立候補者はいないだろう。SPLMは容赦なく対立候補を脅迫するか、殴り倒すだろう。
キール・マヤルディの右腕であるイスラム教徒のヤシール・アルマン(Yasir Arman)は、スーダン全土の大統領選にSPLMから立候補した。しかし、彼は、マハディと同様に、選挙キャンペーンの後半にボイコットを呼びかけた。だが、彼の名前とポスターが貼られた後であったので、南部では投票を独占し、北部ではバシールに次ぐ2位であった。
 南部の議会では、SPLMは多数派を占め、無所属と野党は数えるほどしかいない。南部にとってもっとも重要なのは2011年1月の住民投票である。これで、南部が完全独立するか、スーダン内に残るかが決まる。
 現在のような南部出身の副大統領の権限では、南部の独自の経済開発や改革を行なうことができない。また南部には1982〜2005年間の戦争で、家を追われた人たちがいるが、彼らの面倒を見ることが出来ない。また南部と北部の境界線も明らかではない。
南部の中心的な課題は、最も豊富な石油資源である。また南北の境界線をめぐって紛争が起こらないとも言えない。
 現在、スーダンの石油の最大の輸出先は中国である。中国人は常に背後で糸を引いてきたので、今回も中国の動向は注意を要する。
 ダルフール紛争は、この地3州の地方議会が積極的な役割を果たすことができれば、紛争は、正式の和平協定が結ばれなくても、収まるだろう。

5.南部の石油資源をめぐって

 今年6月、ヨーロッパで、50以上のNGOが結成した「スーダンの石油についてのヨーロッパ連合(ECOS)」が「支払われていない債務」と題して、国際的な石油会社のコンソティアムが、「20年にわたるスーダン南部での内戦で犯した戦争犯罪と人道に対する罪の共犯者である」という報告書を発表した。
 ECOSが名指した石油会社は、マレーシアのPetronas、オーストリアのOMV、スエーデンのLundin Petroleumの3社であって、「油田のシェアを独占している」と報告した。
 この報告書にもとづいて、スエーデンでは、6月12日、検察がLundin Petroleumに対して捜査を開始した。
 ECOSの報告書は、スーダン政府が石油資源の確保のための戦争で犯した犯罪を明らかにした。たとえばBlock5A呼ばれる石油埋蔵地域で、殺された人は12,000人、家を失った人は160,000人に上る。
 RCOSのEgbert Wesselink代表は、「このような軍事攻撃は、戦争犯罪、人道に対する罪に相当する」と述べた。その内容は「レイプ、殺人、拷問、放火、略奪、爆撃機による高度からの無差別爆撃、ヘリ攻撃などによって、住民を住むことが出来ない沼地などに追い込んだ。その結果、多くの人が、疲労、飢え、マラリアなどの疫病で死んでいった」と述べた。
 石油コンソーティアムは、Block 5Aが国有地ではないことを知っていた筈だ。政府はあらかじめ、住民を暴力で追いたて、石油会社に土地を提供した。しかし、これだけで石油会社が共犯であると言えない。共犯だという非難は、石油会社が油田開発を開始し、政府の戦争を支援したことだ。
 たとえば、政府は油田に通じる道路を建設した。これによって、軍隊が村に向かい、住民を追い立てることができた。
 また、政府は石油代金で戦費をまかなうことが出来た。2001年、政府は石油代金で、新型攻撃用ヘリを12台購入した。これでスーダン軍のヘリは3倍に増えたのであった。
 政府は、これらの攻撃用ヘリでもって、「国連食糧プログラム」が石油地帯に食糧を配布していた時、攻撃した。そこには、食糧の配布を待つ数千人の行列が出来ていた。ヘリは逃げ遅れた人びとをめがけてロケット弾5発を浴びせかけた。その結果、16人が殺された。「国連食糧プログラム」の食糧配布に対するこのような武力攻撃は、住民を追っ払い石油会社を進出させるための行動であった。というのは、この武力攻撃以前は、住民の抵抗が激しくて、石油会社は思うように、掘削、調査などが出来なかったからである。今までのところ、石油会社の中で、住民に賠償を申し出ているものはない。