世界の底流  
キルギスの米軍基地の撤退問題

2010年5月13日
北沢洋子

 中央アジアのキルギス共和国では、4月6〜7日、首都ビシケクで反政府勢力と治安部隊が衝突し、死者88人、1,000人を超える負傷者を出した。デモ隊は多くの政府庁舎やバキエフ大統領の何軒かの家を襲撃した。
 暴動のきっかけは、政府のメディア弾圧、インフレ、公共料金や携帯料金の値上げ、それに電力不足などが挙げられる。09〜10年の冬には暖房代が前の冬に比べて400%も高騰した。勿論、バキエフ政権の腐敗、門閥政治に対する怒りもあった。
 4月15日、バキエフ大統領は、自家用機で南部の出身地オシュに逃げ、さらに国外のカザフスタン経由でベラルーシに亡命した。代わって、野党の党首でバキエフ政権の外相であったオトゥンバエバ女史が野党連合による暫定政権の大統領に就任した。
 バキエフ大統領は、2005年、自由と民主主義のための「チューリップ革命」によって政権の座に着いた。これは、チェコのベルベット革命、ウクライナのオレンジ革命など一連の「カラー革命」にバキエフが反対した結果、各種の色が混ざっている「チューリップ革命」と呼ばれるようになった。これは、選挙やデモなどの平和的手段の「無血革命」による政権交代を指し、背後に旧共産圏に市民社会を育成するという口実で介入する米国のNGOがいる、といわれる。これはクーデターやCIAによる古典的な介入ではなく、新しい、米国の世界戦略の一つだと理解されている。
 キルギスのような中央アジアの人口550万の小国での政変が、世界中の注目を浴びることになったのには、マナス米空軍基地の存在がある。勿論キルギスにはソ連邦の時代からロシア軍の基地があった。
 そこへ、01年12月、米軍のアフガニスタン戦争の開始とともに、「反テロ同盟の基地」として、キルギスに米・NATO軍の空軍基地が建設された。米軍がアフガニスタンの戦地に軍需物資を運び込むには、カラチ港があるが、ここはパキスタンのタリバンに狙われる危険性がある上に、アフガニスタンの陸路はすべてタリバンが支配している。したがってキルギスの基地が最重要になってくる。
 米軍はキルギスのマナス基地経由でアフガニスタン戦争の兵員や軍需物資の40%を運んでいる。1日、1,500人の兵士がマナスで乗換えをしている。4月には、50,000人に上った。マナス基地に駐在する米軍は1,200人である。

 09年2月、キルギス議会が米軍基地の撤退を決議した。やがてバキエフ大統領は、ロシアから1億5,000万ドルの援助を取り付けた。そして、10年4月はじめ、バキエフ大統領は米国と基地の撤退交渉を始めた。彼は反民主主義者ではあったが、議会の撤退要求決議と世論に従った。なぜなら、彼は、キルギス人は米国よりもロシアに親近感を持っていると感じたからであった。
 実際、米軍基地はキルギスに何の経済効果をもたらさなかった。せいぜい、米軍兵士が酒と売春婦を買うにすぎない。それだけではない。米軍兵士が基地の外でキルギス人を殺しても、何の咎めもなく、本国に送還されてしまう。
 ついに、バキエフは米国から基地の年間の使用料6,000万ドルの3倍の値上げをかち取った。さらに米国はキルギスに1億ドルの援助を約束した。基地の使用に関しては、昨年6月、利用期間を1年間とした。そのため、今年の7月には更新期を迎える。
キルギスの基地撤退の声に恐れをなした米国は、長期間米軍基地を置くものではない、とロシアに保証した。
 このようなロシアと米国という2大国に対する揺さぶるバキエフの外交は、ロシア・米国の両方からの信頼を失ってしまった。そして、バキエフを大統領の座に付けさせたのと同じ民衆が、今度は彼を失脚させたのであった。この暴動の背後にはロシアがいるといわれる。
新たに政権の座についたオトゥンバエバ大統領は腐敗や門閥政治には一定の距離を持つ政治家である。彼女は、モスクワ国立大学を卒業し、キルギス国立大学の哲学科学部長を経て、アカエフ、バキエフ両政権の外相に就任した。彼女は、キルギス共和国の最初の米国、カナダ、英国の駐在大使、そして、2007年には、社会民主党(SDP)から立候補して2009年10月、野党SDPの党首になった。
 オトゥンバエバ政権は、バキエフの大量殺戮の罪で告発し、バキエフ派の約20人を職権乱用の罪で逮捕した。そして、公共料金などの値下げを行なった。さらに臨時政府は、新憲法制定の任務がある。新憲法草案は6月27日の国民投票に掛けられる。草案の最大の修正点はこれまでの大統領府制から議会内閣制に変えるところである。そして、来る10月に総選挙を行なう。