世界の底流  
イラク総選挙とオバマ大統領の米軍撤退
2010年4月15日
北沢洋子

1.イラクの複雑な政治勢力図解

 さる3月7日、イラクでは総選挙が実施された。これは、09年11月18日にようやく国民議会で採択された「選挙法」が、90日の準備期間を必要としているために、あらかじめ1月21日に予定されていた選挙日を大幅に延ばしたことになった。
 新しく発足するイラク国民議会は、まず大統領を選出する。そして大統領は、最大会派に対して首相と組閣を要請する。これでイラクに恒常的に安定した政府が樹立されることになっている。したがって、今回の選挙は、9月の米軍撤退後のイラクの将来を決定するものである。
 前国会で選挙法の審議が揉めたのは、イラクの複雑な政治勢力の議席の分配争いがあった。イラクには、南部のイスラム・シーア派、バクダッド周辺のイスラム・スンニー派、北部のクルド民族の3つに大別されるが、そのほかにキリスト教徒などの少数派もいる。そして、厄介なことに、国外在住のイラク人と、200万人を超える難民の投票問題だった。この難民は、03〜04年に発生し、シリアなど隣接国にいる主としてスンニー派である。
 そのため、議席数を275から325に増やした。その結果、10万票ごとに1人の議員が選出されることになった。しかも候補者は「オープン・リスト」、すなわち、会派ごとにではなく、候補者個人の得票数によって当選が決まる。これは民主主義の前進だとして、国連などによって推進されてきた。ちなみに前回2005年の総選挙では会派ごとに投票する「クローズド・リスト」であった。
 今年1月15日、選挙キャンペーン開始直前、マリキ首相の選挙管理委員会は511人もの大量の候補者を、旧サダム・フセイン政権時代に与党のバース党員であったことを理由に資格を剥奪した。その大部分は、スンニー派であった。厄介なことに、その中にSaleh al-Mutlaqや Dafir al-Aniなどの有力候補が、マリキ首相のシーア派「法治国家連合」に対抗しているアラウイ元臨時首相の世俗・スンニー派の「イラク国民連合」から立候補している。この問題は、イラク国会議長、最高裁をはじめ、国連やバイデン米副大統領、ヒル駐イラク大使などを巻き込んで、大騒動になった。しかし、立候補禁止令を解かれたのは、37人にとどまった。
 選挙キャンペーン中、いたるところで爆弾事件が起こった。その中には、「アルカイダ・メソポタミア」による自爆テロも含まれた。投票日の朝も、国内各地で爆弾事件が相次いだ。バグダッド市内でも、省庁や国会、各国大使館があるグリーンゾーンに対して、少なくとも迫撃弾3発が打ち込まれた。これらは、投票妨害しようとする反政府グループの仕業であった。
これは、オバマ大統領の今年9月までに米軍を撤退させるという公約を左右するものである。オバマ氏がヒラリー・クリントン候補に勝ったのは、彼が「イラクからの撤退」を公約したからであった。したがって、オバマ政権にとっては、誰が選挙に勝つかではなく、治安の不安が、撤退にどう影響するのか心配だった。
 ただし、この公約は、「完全撤退」ではない。現在、9万人の米駐留軍の中で、撤退するのは戦闘部隊だけで、5万人もがイラク軍のアドバイザーとして残留する。また、イラク駐留軍の最高司令官であるオディエルノ将軍は、戦略的に重要な北部クルド地区には、9月以後も戦闘部隊を残すと言っている。また同司令官は、治安の悪化にともなって、5万人の非戦闘部隊が戦闘行為を行なうことになる、と声明した。

2.イラク選挙の結果

 3月26日夜、選挙管理委員会はイラク国民議会選挙の結果を発表した。ここでは、単独で過半数に達する会派はなく、政権樹立には、各会派の連立が必要となった。
 なぜこのように開票結果の発表が遅れたのかというと、それは、まず各地の投票所から送られてきた投票箱をバグダッド市内の学校の体育館に運び、各派の代表が見守るなかで、1箱づつ明けられて、票が数えられるというところにあった。さらに、投票数と選管のコンピュータにある選挙民の数合わせも行なわれた。
 定数325議席の中で最も多かったのは、92議席を獲得した「イラク国民運動」であった。この会派は自身はシーア派だが、多数のスンニー派候補者を抱え、世俗主義を掲げたアラウイ元暫定首相と、同じくシーア派で世俗主義を唱えるボーラーニ内務相が率いている。
 なぜ、アラウイ氏の「イラク国民運動」が勝利したのだろうか。それは、アラウイ氏の唱える世俗主義にあった。選挙民は、会派間の争いに嫌気がさしていることと、前回05年では選挙をボイコットしたスンニー派が、政権復帰を目指して投票したことにある。彼らは、これまでクルドが握っていた大統領の座を、スンニー派が担うべきだと言い出している。
 アラウイ氏の「イラク国民運動」に対抗するのは、現マリキ首相が率いる「法治国家連合」の89議席であった。選挙前には、マリキ首相続投の予想が強かった。しかし、マリキ氏が選挙前にそれまで与党だった「イラク国民同盟」から分裂して、超党派を掲げた「法治国家連合」を設立したことにある。つまり、マリキ氏は、シーア派の票を失ってしまった。
 残留組の「イラク国民同盟」にはシーア派の会派「イラク・イスラム最高評議会」や、反米・反マリキ首相を唱える「サドル師派」がいる。シーア派色を前面に掲げた「イラク国民同盟」は、70議席を獲得した。米国に亡命していて、米軍のイラク侵入後に、フセイン後の最初のイラクの首相に指名されたチャラビ氏がスポークスマンである。
 注目すべきなのは、サドル派の行動である。今回の選挙では候補者を多く擁立し、節度のある選挙キャンペーンや投票を訴えた。3月18日付けの『インターナショナル・ヘラルドトリビューン』紙によると、ある西側外交官が「サドル派の票割りについての規律は良く守られており、多分40議席は堅いだろう」と述べている。これはクルドの議席に匹敵する。彼らが連立政権のキャスティングボートを握ることになるかも知れない。
 しかし、米国は、依然としてサドル師を、バカにして、不法者扱いをしている。現在、サドル師はイランでアヤトラになるべく勉強中である。少なくとも、サドル派は「イラク国民同盟」の中でリーダーシップを握っている。
 現在、サドル派は、4月1日、バグダッドのパレスチナ・ホテルで記者会見を行い、「首相を選ぶための国民投票を行なうべきだ」と主張した。このとき、彼らが候補に挙げた5人の首相候補は、アラウイ氏、マリキ現首相、前ジャファリ首相、マハディ副大統領、そして、サドル師の叔父のサドル氏などであった。しかし、このような国民投票に参加するのは、現在のイラクの政治地図から見て、サドル派だけだろうと見ている。
 最後に、タラバニ大統領に率いられたクルド民族の「クルド同盟」は、43議席を得た。
選挙の結果に最も不満を持ったのはマリキ首相の「法廷国家連合」だった。投票前にも後も、マリキ氏は「選挙に不正があった」として、投票箱の集計やり直しを求めていた。 
 バグダッド州を含む10州のマリキ派の知事たちが、選管に対して抗議デモを組織した。
やがて、会派間の連立政権の工作が始まった。マリキ首相は、古巣の「イラク国民同盟」に接触し、合併を打診した、と言われる。しかし、「イラク国民同盟」の重要な構成要員であるサドル師派は、07〜08年、マリキ首相が彼らの民兵組織に対する掃討作戦の指揮を執ったことに怒っている。マリキ氏の続投はかなり困難だと思われる。
 選挙の結果が発表されると同時に。イラクの主要な4つの会派がテヘランに代表団を送った。しかし、ワシントンはおろか、バグダッドの米大使館にすら誰も訪問しなかった。またイラク国民同盟のアラウイ氏は、選挙キャンペーン中、近隣のアラブ諸国を訪問した。
 選挙結果の発表後、イラク各地で爆破事件が続発している。とくにバグダッドでは、外国大使館が標的になている。一方、選挙結果の発表以後、会派間での連立工作は、容易に進むとは思えない。
 オバマ政権のイラク「出口」戦略は、公約どおりに進むだろうか。