世界の底流  
コペンハーゲンCOP15を終えて(その2)
2010年1月3日
1.会議の議論の進め方とたたき台をめぐって

 コペンハーゲンCOP15会議は、国連の会議である。冷戦終結以来、国連はそれまでの多数決方式をやめ、全加盟国の合意を原則としてきた。合意を達成するには、実務者会議を何回も長期に亘って開き、草案を1字1句議論して、合意を積み上げてきた。
 一方、国連の枠外にあるIMFや世銀は、出資額に応じて投票権を持つ、すなわち、金持ちが支配している。またWTOは、一応、全加盟国が平等であるべきなのだが、事務局長の「お友達グループ」による非公開会合でまとめた結果を全体会議で承認するという形をとっている。これは事務局長室の壁の色をとって「グリーンルーム」会合と呼ばれる。WTOでは、ここでの結論を本会議に提出する。結局、加盟国はこれにゴム印を押すことになる。
 いずれにせよ、IMF、世銀、WTOともに先進国が支配し、「透明性」と「民主性」とは程遠い機関である。今回、コペンハーゲンCOP15は、WTOと似たプロセスになった。
だがコペンハーゲンに集まった人びとは、COP15会議がこれまでの「議論を終結」して、深刻な気候変動を避けるために、公正な、野心的な、平等な協定を可決する、という希望を持っていた。
 しかし、その期待は初日から打ち砕かれた。会議の進め方とたたき台になる草案をめぐって、南北対立が明らかになった。
 12月7日、オープニングで、ホスト国のラスムセン首相が少数の「議長のお友達」グループによる議論というWTO方式を提案した。これは直ちに否決された。しかし、結局ラスムセン首相の言った通りになり、しかもそれが首脳レベルの「議長のお友達」が最終文書を作成したのであった。
 またラスムセン議長は、2007年のバリ・ロードマップにもとづいて、@京都議定書、A中長期間協力という2つのアドホックな作業部会が作成した2つの報告書にもとづいて、新しく起草した2つの草案を議論のたたき台にするという提案をした。これも否決され、2つの作業部会が作成した2つの報告書のオリジナル版そのものを議論することになった。
 12月14日、いよいよ会議が第2週目に入った時、途上国の代表が会場から退出するという騒ぎが起こった。非公式の全体会議で、アフリカ・グループと低開発国(LDCs)が、G77グループ+中国の支持を受けて、「なぜ、京都議定書作業部会(AWG-KP)の報告を議論しないで、(援助額を競り上げる)長期協力行動の作業部会(AWG-LCA)の報告ばかりを議論するのか」と抗議し、会議の中断を要求した。これは、先進国の京都以降のCO2削減の議論を回避して、途上国をなだめるために、援助をちらつかしたことを非難したのであった。。
途上国側のこの「ウォークアウト」行為は先進国側をイラつかせた。

2.ベラ・センターの外で6〜9時間も入場を待つ
 COP15の会場のベラ・センターの最大収容人員は15,000人であった。ここに40,000人を入れることは出来ない。とくに21,000人のNGOと5,000人のメディアは、会議の2週目には、入場登録をするために寒い戸外で6〜9時間も列を作らねばならなかった。そして、しばしば満員で入場出来なかった。コペンハーゲン当局は、ベラ・センターに連絡している地下鉄の出口を1時的にだが閉鎖した。
 そして、17日以降の最も緊迫した時点では、NGOは極く少数の人数に限られた。
デンマークのHedegaard環境相が市民社会に会議のブリーフィングをしたとき、NGOは「決定的な事態に、何が進行しているのか全く判らないので、我々ははロビイ活動が出来ない」と訴えた。
 ベラ・センターの部屋をめぐって見ても、南北の格差は歴然としていた。たとえば、スーダンのLumumba Stanisilaus Di-Aping外交官が代表をしている「G77+中国」の部屋は、コンピュータが2台置かれているだけで、狭く、身動きも出来ない。しかし「EUカフェ」と呼ばれる部屋ははるかに広く、巨大なテレビがドンと壁を占領していた。「米国センター」は、米国が如何にCO2の排出を下げる努力をしているかについて、カラフルな、大音量のマルチメディアで宣伝していた。

3.ハイレベル会合のオープニング・セレモニー
 12月16日、各国の首脳たちが到着しはじめ、ハイレベル会合のオープニング・セレモニーがはじまった。そこで、それまで議長を務めてきたデンマークのConnie Hedegaard環境相に代わって、ラスムセン首相がCOP15の議長となった。
 セレモニーの席上、ラスムセン議長が「デンマーク・テキスト」の提出を発表した。そして、これは2つの作業部会の報告書に基づいてデンマークがまとめられたものだと説明た。
「デンマーク・テキスト」には「京都議定書は2012年で廃止になる」というセンテンスがあった。途上国は「これは間違いである」と言った。京都議定書には日本、EUなどの先進国が「温室効果ガスの排出削減を2008年から2012年までの間に実施する」と書いてあるだけで、その他の事項については、期限はない、と述べた。
 「デンマーク・テキスト」は、日本、EUの意向を反映したものだった。日本は、京都議定書の6%削減のに不満である。日本は、コペンハーゲンで、京都議定書が2012年以降の延長されることを最も恐れていた。日本は、新しい、罰則のない議定書を望んでいた。EUの支持を受けた日本の抵抗は激しく、会議の進行を阻むものであった。
 「デンマーク・テキスト」については、数多くの途上国が「議事進行」を運用して、異議を唱えた。例えばブラジルが「まだ全体会議が開かれておらず、作業部会の2つの報告書についての議論もないのに、なぜここにデンマーク・テキストが出てきたのか」と質問した。これに対して、UNFCCCのデブア事務局長は、「COPの全体会議は16日午後に開かれ、2つの報告書について議論する」ことになっていると答えた。
 しかし、主催国デンマークに対する途上国の不信の念は消えなかった。途上国側は、交渉のプロセスの「透明性」、「包摂性(Inclusive)」の確保を要求した。
 この「デンマーク・テキスト」についてはすでに11月の準備会議の際に、一部の国の代表に、コペンハーゲンに出すものとして、配られていた、という噂が広まっていた。たしかに、この「デンマーク・テキスト」は、早くもコペンハーゲンの第一週目に英国の『ガーディアン』紙にリークされた。NGOによれば、デンマークの「テキスト」は米国の意に沿って作成されたものだという。
 そこで、さまざまな地域グループやアドホックに結成されたグループが、続々独自の「テキスト」案を出し、それがマスメディアにリークされた。その中の中国、インド、ブラジル、南アフリカの4カ国が作成した「テキスト」もあった。これは、OXFAMのAntonio Hill
気候問題顧問によれば、「最もバランスの取れたテキスト」であるという。
12月16〜17日の全体会議では、首脳たちのスピーチが続いた。
18日にはNGOなどオブザーバー組織のスピーチがあった。

2.「コペンハーゲン合意」の作成過程
 当初、COP15の日程表では、首脳レベルの会合は、12月18日の午前10時と午後3時の2回となっていた。しかし、官僚・専門家レベルの会合で、先進国と途上国の対立が解けず、合意に達するには時間切れになるという危険な状況にあった。そこで17日午後、EU議長のスエーデンのラインフェルト首相とEUのバローゾ委員長が、コペンハーゲンに集まった各国首脳に緊急協議の開催を呼びかけた。もはやトップダウンの方法で事態打開をはかる以外にはないという結論に達したからであった。
 12月17日の深夜近い午後11時、デンマーク女王主催の晩餐会を終えたサルコジ仏大統領、メルケル独首相、インドネシアのユドヨノ大統領派と鳩山首相など20人を超える首脳たちがCOP15の会場であるベラ・センターに集まり始めた。そして、18日午前2時過ぎにラスムセン首相は、記者会見を開き、「首脳たちが徹夜で議論し、朝8時には政治合意文書の草案が出てくるだろう」と語った。
 このように議論をはじめた首脳たちの会合は、完全にアドホックなもので、会議で選出されたわけでもない。グループの正式な名前もなければ、構成メンバーも発表されなかった。これは「首脳たちの代表グループ」と得体の知れない名前で呼ばれた。しかも、最終全体会議では、インドが、文書が発表される際、参加国名を出すときには、前もって当該国に相談するべきだと念を押すほどだった。
 「首脳たちの代表グループ」は金曜日の夕刻、「コペンハーゲン合意(Accord)」と名づけられた政治草案の作成を終えた。これは、これまで2つの作業部会が作成した2つの報告書のオリジナル版に基づいたものでは全くなかった。
 さらに悪いことには、この草案は、コペンハーゲンCOP15の最終全体会議に提出される以前に、メディアに報道されていた。ほとんどのメディアは、首脳たちが気候変動についての「議論に終止符」という見出しをつけたのだが、これに参加した首脳のほとんどは、「完全な合意とは到底言えない」と語った。
 非公式交渉に参加した「首脳たちの代表グループ」の多くは、これからの議論のステップにするために「コペンハーゲン合意」を採択しすることに賛成した。しかし、途上国のメンバーの中には、「非透明な」「非民主的な」プロセスでもって作成された「合意」であると反対するものもいた。
 「首脳たちの代表グループ」に参加した鳩山首相は、出発を2時間遅らせて、「合意」案の作成を見届けて帰国した。同じくオバマ大統領も「エアフォース1」であわただしく帰国した。「首脳たちの代表グループ」が「コペンハーゲン合意」の議論を終えたのは、18日午前2時であった。ほとんど徹夜の議論であった。