世界の底流  
ベレン世界社会フォーラムについて
2009年3月22日
1. はじめに

 2009年1月27日(火)午後からデモ行進で始まった第8回世界社会フォーラム(WSF)は、ブラジル・アマゾン地域のベレム(人口140万人)で、2月1日(日)、5日間の討議日程を成功理に終えた。(WSFが2001年1月に始まって、今年で9年目に当るので、「第9回」と呼ぶ人もいるが、昨年2008年は全世界一斉行動をもって1ヵ所に集まるWSF方式に代えた。したがって、正確には、今年のWSFは第8回である。)
 ベレムWSFの開催は次に述べる2つの理由から重要であった。第1に、2008年9月の金融危機の勃発以来、はじめて開かれたWSFであった。第2に、ベレムがアマゾンの環境危機を象徴する地であった。
 今年のダボスの世界経済フォーラムが、マスメディアの言葉を借りれば、「悪夢のはじまり」であったのに比べると、ベレムのWSFは「もう1つの世界は本当に可能だ」と言える。このコントラストは非常に印象的であった。たとえば、ダボスでは、ブラウン英首相が、「危機は前例のないもので、解決の予想には確信がない」と嘆いてみせた。
 今回のフォーラムを主催したブラジルのNGO「ブラジル社会経済分析研究所(IBASE)」のCandido Grzybowski代表によれば、参加者数は133,000人、5,808の社会運動、NGO、市民社会組織が142カ国から参加したという。(アジアからは334団体)その中で「インターコンチネンタル青年キャンプ」の参加者は青年15,000人、子ども3,000人が含まれた。
 ベレムがアマゾンへの入口の町であったことから先住民の参加は多かった。120部族の先住民が1,900人、さらに1,400人のアフロ系子孫が集まった。
そのなかでベレムを州都とするパラ州からは、80,000人、その他のブラジル国内からは30,000人、ブラジル以外の国からの参加者は20,000人であった。
 アマゾン地域はブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビア、コロンビア、ベネズエラ、グアヤナ、仏領ギアナ、スリナムなど9カ国が国境を接している。すでに02年から05年にかけて「アマゾンWSF」が4回も開かれてきたことを忘れてはならない。これは別名「国境なき集会」と呼ばれている。
 ベレムWSFの2日目に当る1月28日は、「Pan-Amazon Forum」として、1日中、アマゾン地域の問題の議論に当てられた。アマゾンの人びとにとっては、500年に及ぶ抵抗の歴史である。09年6月にPan Amazon countries Summitの開催を提案した。そして、2010年に第5回アマゾンWSFを開催することを決議した。
 会議場は、アマソン連邦地域大学(Federal Rural University of Amazon−UFRA)の2つのキャンパスが当てられた。ここで、2,000以上のワークショップ、セミナー、会議、集会が繰り広げられた。参加者の多くは、組織者、活動家、学者文化人、宗教者、労働組合、農民、エコロジスト、アーティストたちであった。
 ベレムWSFでの議論はもっぱら(1)グローバルな資本主義の危機と(2)地球温暖化の危機という2つの危機についての議題に集中した。彼らは、現在のグローバルな資本主義の危機と地球温暖化の危機が労働者、農民、先住民、女性、そして周辺化された人々に与えるすさまじい影響を議論したのであった。このほか、多くの参加者を集めたのは、イスラエルのガザ爆撃の問題であった。
 今年は、これまでのWSFの議論にあった米国の反テロ戦争、ネオコン、軍国主義、宗教的原理主義などのテーマはあまり注目を集めなかった。
 WSFは、1月27日午後、ベレム市内で、100,000人のカラフルなデモでもって幕開けた。ダンスやドラムを鳴り響かせて、わずか4キロの道のりを何時間もかけ、にわか雨が降りしきる中をオペラリオ広場までデモ行進した。先住民たちのカラフルなパーフォーマンスはアマゾン地域の環境の危機を強く訴えるものであった。
 フォーラムを取材するために2,000人のジャーナリストがベレムに集まった。

2.ラテンアメリカの5人の大統領の出席

 第1日目のデモと続くフォーラムでの議論の中で、ひときわ目立っていたのは、「ブラジル社会主義・自由党(PSOL)」と「土地なき農民運動(MST)」の活動家たちが振る赤い旗であった。そのなかで最も人気が高かったのはPSOLのHelosia Helena委員長とMSTのJoao Pedro Stedile議長であった。この2人は終始メディアに追いかけられた。
 第2の目を引いたショーはMST・Via Campesonaが主催した会議であった。MSTは、ベネズエラのチャベス、エクアドルのコレア、ボリビアのモラレス、パラグアイのルゴの4人のラテンアメリカの大統領を特別に招待した。この中に、ブラジルのルラ大統領が入っていなかったことは注目に値する。MSTはルラの新自由主義、反労働者政策に反対しているからである。
 MST集会の司会を務めたStedile 議長は、ソフトな表現であったが、4人の大統領が十分に反ネオリベラリズムと闘わないことを批判した。大統領たちは、言い訳をするのに躍起となっていた。
 MSTの集会からは除外されたとはいえ、ルラ大統領は、4人の大統領とともに別の大規模なパブリック・サミットに出席することが出来た。こうして彼の不在がWSFで大きな注目を浴びることを免れた。
 ベレムのフォーラムに対して、ルラ政権は5,000万ドルの資金を提供した。そして、重要なことは、ルラがダボスの世界経済フォーラムではなく、ベレムのWSFに出席することを選んだ点である。ダボスにはルラの代わりに、アモリン外相とMeirelles中央銀行総裁が参加した。
 ルラ大統領は、WSFの最初から参加してきた。むしろ、WSFの創設者の1人でもあった。ルラはWSFを米国など伝統的な資本主義国を糾弾する場と見なし、「危機は彼らのものであり、我々ではない。今日の経済危機は途方もなく大掛かりな金融機関の規制緩和がもたらした結果だ」と述べた。
 2年後の次回WSFはアフリカでの開催が決まった。

3.はじめて統一宣言、決議を採択

 WSFは、02年1月、ポルトアレグレの第2回会議で採択された「憲章」を守ってきた。「憲章」はWSFを「議論するスペース」と位置づけ、WSFとしての統一決議や宣言の採択をしてこなかった。
 WSFは第5回、すなわち05年以来、いくつかのテーマごとに全体会議が設けられ、そこで毎日参加者が1つのテーマを集中して議論を継続することが出来るようになった。
 ベレムWSFでは21のテーマ別の集会(Assemblies)が設けられた。
 今回は、グローバルな経済危機の発生、それに対するラディカルな変革というチャンスが生まれた。さらに、今は議論するだけでなく、活動すべきであるということで、いくつかの「グローバルな行動デイ」が決議された。
そこで、これまでのWSFの「憲章」のタブーを破って、21のテーマ別集会がそれぞれ統一決議、宣言を採択することになった。そして会議の最終日である2月1日午前中は、連邦アマゾン地域大学の広いキャンパスで、小雨の降る中で、21の集会からなる全体会議 (Assembly of The Assemblies)が開催され、テーマ別の集会の決議、宣言が承認された。この主な内容は、

途上国の債務帳消し
銀行の国有化
危機下の企業での賃下げを拒否
気候変動と正義
移住者の権利
人種差別主義、外国人排斥、人権
ジエンダー
貧しい人びとのエネルギーと食糧の権利
イラクとアフガニスタンからの外国軍隊の撤退
先住民の主権と自治
土地の権利、まともな仕事、教育、医療保健
メディアと通信の民主化

 「グローバルな行動デイ」としては、まず、4月2日、ロンドンで開かれるG20サミットに向けて、3月28日からはじまる1週間を世界同時の抗議のウイークと決定した。
 G20のメンバー国であるブラジル、アルゼンチンの両国首脳に対しては、WSFが要求する「IMF、世銀、WTOなどの国際機関の解体、もしくは大規模な改革」を4月2日のG20サミットで発言するよう要求することになった。
また3月30日は、「パレスチナ人の土地の日」である。これは76年、占領地パレスチナ人蜂起の記念日である。WSFは、この日、イスラエルに対する貿易ボイコット、経済制裁、ダイベストメント運動(イスラエルを援助している企業への投資引き上げ)、イスラエルのガザに対する弾圧をやめさせる、真の和平交渉を開始する、などの行動決議を行なった。
 4月17日を「食糧主権の日」とることが決まった。
 10月12日は、スペインの征服者がアメリカに到着した日である。この日を、世界中の「先住民の土地の権利」を認めるグローバルな行動の日と決定した。
12月12日は、「気候変動正義のグローバル行動デイ」に決まった。

4.ベレムWSFについての識者の見解

  (1)ベレムWSF直前、フィリピン大学のワルデン・ベロ教授がIPS通信のインタービューに対して「現在進行中の危機は、単に、金融の危機、ネオリベラリズムの失敗にだけにとどまらない。これはグローバルな資本主義(的生産手段)の危機である。」したがって、「我々のオルタナティブも、それを“社会主義”、あるいは“人民民主主義”と呼ぼうと勝手だが、要は生産手段の民主化、経済の民主化にある」と語っている。
 またベロ教授は、「社会民主主義の拡大などといったシステム内部でのオルタナティブに留まってはならない」、そして、「オルタナティブの概念についても、これまで議論してきた正義、平等などといった共通の普遍的概念を再検討する必要がある」と述べた。
 また危機の中心地である先進国でも、「明確なオルタナティブを提起できなければ、フランスやイタリアに見られるように過激な右翼が台頭する危険性がある」。そのような状況のもとでベロ教授はドイツのDie Linke(左の人びと)を評価している。Die Linkeは2007年6月、これまでの左翼政党が大同団結して出来た政党で連邦議会に53議席をもっている。Die Linkeは、ピープルスパワー、参加型民主主義を提唱している。
 (2)バルセロナ自治大学で社会学のJosep Maria Antentas教授は、「ベレムWSFは、05以来続いた反グローバリゼーション運動の停滞を抜けたし、政治的重要性を取り戻した」と述べている。Antentas教授は、「単なる反ネオリベラリズムでは不十分である。今こそ反資本主義を掲げるべきだ。そのためには戦略のシフトが必要である」「オルタナティブの内容を深め、ラディカルにすべきだ。トビン税の導入、債務帳消し、タックススヘブンの廃止などといったこれまで我々が提案してきた古典的な要求に、さらに新しい要求を加えるべきである。それは銀行や金融機関を民主的な公共のコントロールの下に置くといった要求である」と述べた。
 (3)CADTMのエリック・トーサン(ベルギー)は、大会最終日に採決された「社会運動大会宣言」について次のようなコメントをしている。「宣言には、現在の危機を克服するためには。反帝国主義、反人種差別主義、反資本主義、フェミニスト、エコロジストとともに社会主義オルタナティブが必要である、と書いてある」「これは、ベレムでの、ネオーケインズ主義派と反資本主義派との激しい議論の結果であった」と評価している。彼は、資本主義との決別を経済成長主義、消費主義、商品化主義という毎日の生活の中で、どのように進めるかを議論しなければならない」と言っている。
 (4)ブラジルのLeandro Moraisは、テーマ別の各々の集会が問題の共通の理解と行動的を行なうことに貢献したことを認めながら、一方では、WSFには各集会が決議したグローバルな行動を調整することが出来る機構がない。行動は個々の組織のボランティアに委ねられている。
 現在、多くの政治組織はWSFの役割を過小評価しようとしている。しかし、今こそWSFの役割を強化するべきである。残念ながら、ベレムでは、「改革」か「革命」か、という古典的な戦略論争は決着しなかった。しかし、ダボス世界経済フォーラムが明らかになった今、社会運動が共通の行動戦略をもたねばなあない、ことははっきりした。
 しかし、第1回のWSF以来、守ってきた「多様性」「対話」「相互尊重」の精神を忘れてはならない、と述べている。

5. いくつかの問題点

 2001年、ポルトアレグレに始まったWSFは、年を経るごとに参加者は増え続き、反グローバリゼーションの世界最大の集会であった。しかし、2005年のポルトアレグレ大会を境に、参加者の数も頭打ちになり、また反グローバリゼーションの声も色あせていった。
 それには、反テロ戦争、イラク戦争というもう1つの要員が加わった。また、「憲章」に定められているように、WSFは単なる「議論の場」に過ぎず、政治的オリエンテーションも行動の提起もなかった。そのため、「1年に1度の反グローバリゼーションのカーニバルか、左翼の一大政治イベントか」とまで言われた。
 ベレムWSFは、このような停滞を打ち破った。ベレムというアマゾンの町が開催地であったため、大勢の先住民の参加があった。また、世界の熱帯雨林の半分を占めているアマゾンの森林破壊という問題から、エコロジストたちが大勢参加した。
 WSFは、これまでの反グローバリゼーション運動が正しかったこと、グローバル資本主義経済がメルトダウンし始めている、という確信を強めた。したがって、グローバルな連帯のプログラムと行動が必要である。ベレムは大成功であった。
 しかし、はたしてベレムが最良の開催地であったかを疑うものもいた。気温は45度、湿度は98%、そして、スコールにしばしば見舞われた。
 会場となった大学の2つのキャンパスは川を挟み、1マイル半も離れていた。そこに2,310の参加団体独自のセミナーが散らばってしまった。
 勿論、ナイロビのWSFのように商業化されはしなかった。しかし、ナイロビで問題となったように現地のブラジル人にとっては30レアルの入場料は高い。ナイロビでは闘争の末、無料になったが、ベレムでは最後まで現地の貧しい人は排除された。
 通訳の問題も大きかった。ベレムでは通訳がいなかった。WSFでは少なくともフランス語、スペイン語、ポルトガル語、英語の4ヶ国語の通訳が必要である。
 WSFで相互の理解がないことは致命的である。WSFには「バベル」という数千人の通訳集団がある。ブラジルの組織委員会がバベルに通訳を依頼したところ、600,000ユーロを要求したという話だ。組織委員会がこれを拒否した結果、このようなことになってしまった。