世界の底流  
ムンバイ攻撃と「ラシュカレトイバ」グループ
2009年1月26日

1.ムンバイのテロ攻撃

 インドの最大の商業都市ムンバイが10人の武装グループに襲撃されてから2ヵ月が過ぎた。
 事件は、08年11月26日、海からゴムボートでやってきて、ムンバイ港に上陸した10人の武装部隊によって引き起こされた。彼らは、ベルサーチ・ブランドのTシャツを着て、自動小銃AK47と手榴弾をもって、まず人ごみの多いChhatrapati Shivaji (旧ビクトリア)終着駅に行き、群集に対して無差別に発砲した。続いて近くのCama病院を襲った。次いで1871年に設立され、外国人に人気のあるカフェ・レオポルドを襲った。最後に「インド門」の近くにある最高級のオベロン=トライデント・ホテル、タージマハルパレス・ホテル、それにビジネスセンターであるNariman House (ここにユダヤ人センターが入っている)を襲撃した。タージマハルパレス・ホテルなどでは、インド治安部隊との戦闘が、3日間も長引いた。
 死者の数は195人、負傷者は295人にのぼった。その多くは、Chhatrapati Shivaji駅で殺されたインド人であった。外国人の死者は22人にのぼった。14人の治安部隊員が死亡した。襲撃者の側も9人死亡し、1人が負傷して逮捕された。
 インド警察は、その後の捜査で、襲撃者が、GPS、VoIPサービス、衛星電話、衛星写真、インターネット電話など、IT機器を使っていた、と語った。

2.犯人は誰か

 しかし、「誰が」、「何のため」に襲撃事件を起こしたのか、未だに判明しない。
これまでにインド政府が公式に発表したところでは、コマンドたちは海を越えてパキスタンからやってきた、ということになっている。インド治安当局は、「たった1人の逮捕者はMuhammed Ajmal Amir Kasab(または Mr.Khan)と名乗っているが “ラシュカレトイバ”のメンバーで、パキスタン領のカシミールの町Musaffarabadの訓練キャンプで18ヵ月間軍事訓練を受けた、と告白した」という声明を出した。彼は、「パキスタン出身の英国人」との説もある。足を撃たれた、と言われる。
 戦闘の最中、11月27日、地元テレビがトライデント・ホテルからサハドゥラーと名乗る男が電話で「自分たちはインド南部ハイデラバドから来た“デカン・ムジャヒディン”だ」と名乗り、「インド国内に拘束されているすべてのイスラム戦士の釈放」を要求した、と報道した。
08年11月28日付けの『ワシントンポスト』紙は、「テロに対するグローバルな戦争の一環として、米軍がムンバイ攻撃を報復して、パキスタンの北西部国境州を空爆した」と報道した。

3「ラシュカレトイバ」とは何か?

  「ラシュカレトイバ」は「Army of Pure」の意味である。彼らは主としてインドが領有しているカシミール地域でインド軍と戦っていたパキスタンの分離主義組織であった。 
 「ラシュカレトイバ」は、パキスタン軍の情報部(ISI)から財政支援と軍事訓練を受けてきた、といわれる。
 彼らは、また、デカン高原の旧イスラム藩主国の解放を求めていた。その意味では、ムンバイ襲撃者が「デカン・ムジャヒディン」と名乗ったことにも符合する。
また、「ラシュカレタイバ」は、インド国内のイスラム学生運動と交流を深め、インド国内のさまざまな爆弾事件に関与していると言われる。
 「ラシュカレトイバ」は1990年に、パキスタンで設立された。ほとんどのリーダーは、パンジャブの出身であった。彼らは、ある時は地下で、ある時は公然と活動した。しかし、パキスタン政府によって、2002年、「ラシュカレトイバ」は公式に非合法化された。米政府は「ラシュカレタイバ」を「テロ組織」と判定した。
 その後「Jamaat ud−Dawa」が「ラシュカレトイバ」の合法的な宗教的、政治的組織だと指摘されてきた。06年、米政府は、「Dawa」をテロ組織のリストに加えたが、パキスタン政府は、単なる「注視リスト」に加えただけだった。
 そこで、ムンバイ事件の後の08年12月4日、「Dawa」のスポークスマンであるAbdullah Muntazirが、ラホール郊外にあるMuridkeというDawaの敷地(30ヘクタール)に外国人ジャーナリストを案内した。そこの教室や宿泊室を見せ、自分たちはあくまでも教育や慈善事業をやっているイスラム組織で「ラシュカレトイバ」と関係がないと説明した。しかし、撮影は許可しなかった。
 「Dawa」の代表は、「ラシュカレトイバ」の創設者の1人である63歳のHafiz
Muhammed Saeedである。「ラシュカレトイバ」を創設する前は、彼はラホール大学のイスラム学教授であった。彼のイスラム教義は、サウジアラビアのワハビ派(スンニー派)に近い。01年、米政府は彼を、「アルカイダとタリバンに関係したテロリスト」に指名した。
 ムンバイ事件以後、彼は、パキスタンの『GEOテレビ』に出て、「自分は軍事的な活動に参加したことはない」と語った。
 Saeed教授は、インドがムンバイ事件の容疑者としてパキスタンに引渡しを求めた20人の1人である。パキスタン警察はSaeed を一旦逮捕したが、後に釈放した。そして、パキスタン政府は、彼をインドに引き渡さないと言っている。08年12月12日、Saeedはパキスタンのラホールで記者会見を開き、「ムンバイ攻撃事件とは関係がない」と語った。
 12月9日付けの『インターナショウナル・ヘラルドトリビューン』紙は、「12月8日、パキスタン治安部隊が、パキスタン領カシミールの首都Muzaffarabad郊外の軍事キャンプを捜査して、「ラシュカレタイバ」の最高司令官Zakiur Rehman Lakhviを逮捕した」と報じた。インドは、彼が、衛星電話でムンバイのコマンドたちを指揮したと、非難している。パキスタンにとって、Lakhviの逮捕は、事件後最初の行動であった。しかし、インドの引き渡し要求を呑むとは考えられない。
Lakhviは、02年、ニューデリーのレッドフォートにある軍事施設の攻撃、06年のムンバイの通勤電車の爆破事件の責任者であると、インド政府に非難されている。
 パキスタンのムシャラフ軍事政権から、選挙で選ばれたザルダリ文民政権に移行してから、カシミールを巡るインドとパキスタンの和解プロセスが進行した。それにつれて、パキスタンの「ラシュカレトイバ」も活動の場をアフガニスタンとの国境地帯に移動させたと言われる。
 05年、カシミール地方を巨大地震が襲った。このとき、「Dawa」は被災者の救済活動を幅広く行ったことで知られる。

4.インドのテロ事件

 ムンバイでのテロ攻撃は、タージマハルパレス・ホテルが3日間も燃え続け、世界中の人びとをテレビの前にくぎづけにしたという点では、前例のない事件であった。この事件が「世界最大の民主主義の国」で、中道左派の国民会議派政権の下で起こったことも特筆するべきかも知れない。
 しかし、インドのテロ事件は、新しいことではない。

 最近のテロ事件を日付順にあげて見よう。
(1)06年7月11日、ムンバイ
 爆弾7個、死者180人
(2)07年2月19日、インドからパキスタンに向かう列車爆破事件
 爆弾2個、死者65人、
容疑者はイスラムの「ラシュカレトイバ」と「Jaish-e-Muhammad」
(3)07年8月25日、ハイデラバド
 爆弾3個 死者40人
 容疑者はバングラデシュに根拠を置くイスラムの「Harkat al Islami」
(4)08年5月13日、ジャイプール 
 爆弾9個 死者63人
 「インド・ムジャヒディン」がインドのメディアに「イスラム教徒に対する弾圧を抗議」のE-メールを送る
(5)08年7月27〜28日、スラート
 爆弾12個、いずれも不発に終わる
(6)08年7月25日、バンガロー
 爆弾9個、死者2人
 容疑者は「ラシュカレタイバ」と「インド・イスラム学生運動」
(7)08年7月26日、アハメダバド
 爆弾21個、死者56人
 「インド人ムジャヒディン」が声明
(8)08年9月13日、ニューデリー
 爆弾5個、死者約30人
 「インド人ムジャヒディン」が声明、後にデリー郊外で容疑者が逮捕された。ウタル・プラデシュ州のアザムガル出身と判明
(9)08年10月30日、アッサム
 爆弾11個、死者77人
 「アッサム統一解放戦線」とバングラデシュのイスラム過激派「ハルカトゥル・ジェハダル・イスラミ(HUJI)」の連携作戦
(10)08年11月26〜29日、ムンバイ
 死者約200人
 「デカン・ムジャヒディン」を名乗るが、「ラシュカレトイバ」が容疑者
となっている。

ここに出てくる組織について解説をしよう。

 「ラシュカレトイバ」と並んで、カシミールのインド領(イスラム教徒が多数派)でゲリラ攻撃を行っているパキスタンの組織に、「Jaish-e-Mohammed」がある。07年2月のインドーパキスタン間列車爆破事件では「ラシュカレトイバ」と共同作戦を行なったとされる。
 この組織の創設者のMaulana Masood Azharは、1994年に「Harkat ul Mujahideen」のメンバーとしてインド国内で逮捕されたが、1999年、インド航空ハイジャック事件の人質と交換で、釈放された。インド国会襲撃事件後、パキスタンで自宅監禁となったが、その1年後、ラホール高等裁判所の判決で自由の身となった。これは著しくインドを怒らせたことは言うまでもない。彼は、ムンバイ事件後、インド政府がパキスタンに要求した20人の容疑者引渡しの中に入っている。
 このほか、「インド・ムジャヒディン」と名乗るグループがある。これはインド国内で非合法化された「イスラム学生運動(SIMI)」の後身で、パキスタンとバングラデシュで軍事訓練を受けたとされる。彼らには、これまでインドで起こったすべての爆弾事件の容疑がかけられている。
 「Harkat-ul-Jihad al Isrami」はバングラデシュのイスラム過激派であり、インドのアッサム州で起こった爆弾事件の容疑者と見なされている。また、2004年、シェイク・ハシナ元バングラデシュ首相の政治集会での爆弾事件と、Anwar Chowdbury英総督襲撃事件の容疑がある。
 インド政府がパキスタンに引き渡しを要求している容疑者の中に、Dawood Ibrahimがいる。彼は、インドで最も悪名の高いマフィアのドンで、ムンバイの犯罪シンジケート「D会社」の社長である。これは、密輸、麻薬、テロ融資などを手がけている。
 Dawoodは、1993年にムンバイで起こった爆弾事件の主犯である。これは、その年の前、イスラム教徒が虐殺されたことへの報復であったとされる。彼は、オサマ・ビンラディンと関係があり、また「ラシュカレタイバ」にも関係していると言われる。
 彼は地下も潜っており、インド政府はパキスタンのカラチで商売をしていると信じている。しかし、彼は、アラブ首長国連邦やアフリカのマリにも家を持っている。彼の娘はパキスタンのクリケットの有名な選手と結婚している。彼のストーリーはボリウッドで映画化されている。米政府もまた、Dawoodをテロ容疑者として、逮捕状を出している。
 ムンバイの市民の中には、彼が主犯であると考えてる人が多い。
 インド政府は、ムンバイ事件をパキスタンの陰謀だという説にこだわっている。しかし、真の問題は上記のリストに見られるように、インド国内で生まれたイスラム教徒のテロ・グループの存在にある。
 インドには1億4000万人の少数派イスラム教徒がいる。彼らはグローバリゼーションの嵐のなかで、全く周辺化され、貧困化されている。

 ムンバイ襲撃事件を、インドとパキスタンの間の争いにすることは、米国のオバマ新政権にとっても得策でない。パキスタンは、米国と」NATOのアフガニスタン戦争の基地である。そのため、一刻も早く、インドとパキスタンという2つの核保有国間を平和的に解決しなければならない。またパキスタンにとっても、東のカシミールと西のアフガン側という2つの戦線に兵力を貼り付けることは出来ない。