世界の底流  
ホンデュラスの軍事クーデター
2009年7月19日


 中米ホンデュラスでマニュエル・セラヤ大統領に対するクーデターが起こった。ラテンアメリカでは、冷戦後、4半世紀に始めてのクーデターであった。同時に、オバマ米政権にとって初めての試練であった。
 クーデターは、21世紀に入ってこの10年間、ラテンアメリカ・カリブ海で、左翼または中道左派政権の誕生の流れを変えようとする保守政治家・財界の最後のあがきであった。
 その証拠に、ホンデュラスのクーデターを支持した国は皆無であった。歴史的に親密であった米国からも、またラテンアメリカの数少ない親米政権のメキシコとコロンビアでさえ、クーデターに反対した。

1. コスタリカへ大統領を追放

 6月28日(日曜日)朝6時、マスクで顔を隠した60人の兵士が大統領府に押し入り、セラヤ大統領をパジャマ姿のまま誘拐した。彼の携帯電話も取り上げられた。大統領は8〜9人の覆面兵士に囲まれって、近くの空軍基地で待機していた軍用機に乗せられ、コスタリカのサンホセ空港に置き去られた。パジャマ姿のセラヤ大統領は、空港で記者会見に臨み、「私はホンデュラスの大統領である」という声明を行った。この記者会見には、コスタリカのOscar Arias大統領も同席し、「これはホンデュラスのみならず、中米の民主主義の後退であり、嘆かわしい」と述べた。
 同じ日の午前10時、Hiiomara Castro de Zelayaファーストレディは、ラテンアメリカ全土に報道される「テレスール」テレビを通じて、クーデター軍がセラヤ大統領に対して発砲し、彼を殴って、誘拐したことを明らかにした。彼女はこれを「卑怯な行為である」と糾弾した。そして国際社会はこの非合法なクーデターを非難し、民主的に選出されたセラヤ大統領を救援し、ホンデュラスに民主主義を回復させるように行動すべきだと訴えた。
 一方、ホンデュラス最高裁は、クーデターは「合法」という判決を下した。反セラヤ派が多数だった議会には、日曜日の午後、緊急議会が召集され、そこに“セラヤ大統領の辞任状”なるものが提出され、セラヤと同じリベラル党のベルト・ミチェレッティ議長を新しい大統領に選出した。コスタリカではセラヤ大統領が「私はサインしていない」という声明を出した。
 同じ日、首都テグシガルパでは、クーデター軍がキューバ、ボリビア、ニカラグアなどの大使館に押し入り、大使を拉致した。またベネズエラ大使館にも押し入り、大使を殴った末にテグシガルパの路上に置き去りにした。
 このニュースを聞いたベネズエラのチャベス大統領は、ラテンアメリカ中に放送されるテレスールを通じて、「ベネズエラ軍に警戒令を出した。ホンデュラスへの軍事介入の用意がある。」と述べた。しかし、チャベス大統領は、以前コロンビア軍がエクアドルの国境を侵犯したときも、同じような声明を出したが、結局、何もしなかったという前例がある。
 日曜日1日中、ホンデュラス国中が停電になった。クーデターのニュースが広がらないためであった。街路は戦車がパトロールした。空には空軍の戦闘機が轟音を鳴らして飛行した。教会の日曜のミサも取りやめになった。夜9時に、2日間の外出禁止令が出された。
 軍隊は、セラヤ派のPatricia Rodas外相とホンデュラス第2の都市San Pedro Sula の市長を逮捕した。大統領派のテレビ「8チャンネル」も軍隊によって制圧された。他のテレビはアニメやソープオペラばかりを流した。人びとは完全な情報ブラックアウトの状態に置かれた。金持ちだけが、インターネット、ケーブルテレビなどを通じて、日曜日の事件の詳細を知ることが出来た。

2. セラヤ大統領とは何者であったか

 あごひげとカウボーイハットがトレードマークのセラヤ大統領(56歳)は、親から相続した裕福な大地主であり、農業と林業を経営してきた。そして、中道右派のリベラル党に入り、その党首として、大統領選に出馬した。彼は70,000票の差で当選した。2006年1月、「犯罪の撲滅と予算の削減」を公約として、大統領に就任した。彼の任期は4年、1期限りで、それは2010年1月に終わる。
 セラヤは、大統領就任の2年前に署名された「中米自由貿易協定(CAFTA)」を支持し、国営企業の民営化などネオ・リベラルな経済政策を遂行した。
 しかし、2年前、米国がホンデュラス産のメロンを禁輸したとき、セラヤ大統領自らCNNテレビに出て、メロンを食べて安全性を宣伝した。また彼は、テレビとラジオが政府のニュースを不当に扱っているとして、2007年、すべてのテレビとラジオは、「毎日2時間、政府の宣伝を行う」という大統領令を出した。
 しかし、彼は、任期の半ばになって、南米、特にチャベス大統領のベネズエラから吹いてくる風を意識するようになった。石油資源のないホンデュラスはベネズエラが提供してくれる安い石油の輸入に踏み切った。そこで、翌年、地域ブロックであるALBA(アメリカのためのボリバリアン・オールタナティブ)に加盟した。これは、ベネズエラが呼びかけ、ボリビア、キューバ、ニカラグア、ドミニカなどがALBAのメンバーであった。そして、クーデターの直前、6月24日水曜日、ALBAはカラカスで会議を開き、エクアドル、アンチグア・バルバドス、セントビンセントが新たに加入した。
 同時に、セラヤ大統領は、国内改革政策、特に労働者、教員の給料の最低賃金を決め、医療、教育などの予算を増加させた。
 このセラヤ大統領の改革路線は、労働組合や、貧しい人びと、そしてHonduras Popular BlockやCivic Council of Popular and indigenous Organizations of Honduras( COPINH) 社会などの社会運動の支持を受けることになった。反対に、これまで最高裁、議会、大統領を操ってきたマフィア型で、麻薬まみれの、腐敗した政治家たちを敵に回すことになった。
 ホンデュラスのエリートたちは、彼らと同じ階級のメンバーが、たとえ不十分であっても改革を行うことが許せなかった。彼らはセラヤを「デマゴーグ」と呼び、「ベネズエラのチャベスにホンデュラスを乗っ取られる」とわめいた。
 そしてセラヤ大統領が、6月28日日曜日に国民投票を行うと発表したとき、彼らの怒りは頂点に達した。しかし、セラヤの国民投票は、単に政策の参考にするだけで、法的には拘束力のないものであった。セラヤは、今年11月に予定されている大統領選挙と同時期に、新しい憲法を起草するための制憲議会の開催の可否について投票するということになっていた。
 彼らはセラヤが再選を目論んでいると言い張った。確かに大統領が再選される可能性がないとは言えない。しかし再選されるのは、新しい憲法が制定された後のことである。セラヤに関しては、新憲法が草案される時には、すでに2010年1月、彼が大統領職を終えた後になる。
 エリートたちが新憲法を危惧するには理由がある。ベネズエラのチャベス、ボリビアのモラレス、エクアドルのコレアともに、新憲法の起草が、それぞれの国の政治、経済、社会制度の変革に着手する契機になったという前例があるからである。
 ホンデュラスの保守派エリートたちは、6月28日に予定されていた国民投票を妨害するべくあらゆる手を打った。まず最高裁が議会の訴えを受けて「国民投票は憲法違反」であると宣言した。
 また軍は投票用紙の配布を妨害した。そこで、大統領は軍の最高司令官であるRomeo Vasquez将軍を解任した。なぜなら、大統領は軍の最高司令官であり、将軍を解任する権限をもっている。しかし、その翌日、最高裁は、将軍の解任は「憲法違反」であると判決を下した。この騒ぎの中で、Angel Edmundo Orellana国防相は自ら辞任した。
 6月26日金曜日、セラヤ大統領を先頭にして、労組と社会運動の活動家たちは、空軍基地に置かれていた投票用紙を押収して、選挙民に配布した。その日の夕刻、セラヤ大統領は記者会見を開き、国民の統一と平和を訴えた。
このような情勢の下で、投票日の6月28日の早朝、軍はクーデターを起こし、大統領を国外に追放したのであった。翌日、最高裁はセラヤに対する国家反逆の罪で起訴した。議会は、ミチェレティ議長を暫定大統領に昇格させた。
なぜ、セラヤ大統領は新憲法の制定を目論んだのであろうか。
 それは、現憲法がレーガン政権時代の1982年、ホンデュラスが米国の「汚い戦争」の基地となっていた時に制定されたといういきさつがある。したがって当時の憲法は、国民の権利と政治参加を極端に制限するものになった。セラヤは、これをノーマルな憲法に改正しようとしたのであった。
 また、80年代はじめ、中米5カ国は大規模な経済変革を経験した。スペイン植民地以来、中米の経済は米国への農産物の輸入に依存していた。政治権力もこれに依拠していた。
 しかし、グローバリゼーションが進行するにつれて、一次産品の輸出から金融資本、組み立て産業、そして、輸入品の増加や移住労働者からの送金に経済が移行するにつれて、それぞれの国のエリートたちにも変化が訪れたのであった。

3. 国際社会の反応

 ホンデュラスは1982年以来、文民政府の下にある。しかし、他の中米諸国と同様、軍が最も勢力のある存在であった。しかし、中米では、1983年にグアテマラで起こったクーデター以来、今回が初めてである。
 ラテンアメリカ諸国、そして世界がクーデターに対して怒りを表明した。米州機構(OAS)は緊急会議を開き、全員一致でクーデター派に対してセラヤを大統領の地位に戻すという呼びかけに合意した。ヨーロッパ連合(EU)と世銀はホンデュラスに対する経済援助を停止すると発表した。チャベス大統領はニカラグアのマナグアで、ALBA加盟国の緊急会議を開き、これにセラヤがホンデュラス大統領として出席した。ALBAはクーデターを非難し、ホンデュラス駐在大使を引き揚げた。ラテンアメリカの親米派のコロンビアのウリベ政権、メキシコのカルデロン政権でさえクーデターを非難し大使を召還せざるを得なかった。
 ラテンアメリカ諸国がなぜこのようにクーデターを非難するのか。それは60年代から70年代、80年代にかけて、この大陸の4分の3が軍事独裁支配のもとに置かれ、人権侵害が多発した暗い時代を思い起こさせるからであった。チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルなどは、当時の傷とトラウマを引きずっている。誰もが、再び、軍事支配の下に置かれる、あるいは軍が政治に介入することを望まない。
 クーデターの翌日の月曜日、ホンデュラスのクーデターをめぐって、ニカラグアのマナグアでRio Groupの会議が開かれた。Rio Groupは1986年、OASに対抗するものとして結成された。昨年12月、キューバが23番目の加盟国となった。Rio Group もまた、ホンデュラスのクーデターを非難した。
 米国もまた、クーデターを非難した。オバマ大統領は、クーデターの翌日6月29日月曜日、「クーデターは違法であり、恐ろしい前例だ」と語った。オバマは、クーデターが政治を支配する「かつての暗い時代に戻ろうとは誰も思わない」、米国は「民主主義の側にある」と語った。オバマ大統領は、6月29日、ワシントンでコロンビアのウリベ大統領との会談の場で、「国際協力の下で、危機が平和的に解決されることを望む」と語った。
 同時にチャベス大統領の「背後に米国が操っている」という非難を否定した。
 米国がどういう態度を取るのか、多くの人が疑いの目で見ていた。なぜなら、2002年10月、ベネズエラのチャベス大統領に対するクーデターが起こったとき、ブッシュ大統領が即座にクーデター支持を打ち出したという記憶が生々しいからである。
 今回、国務省の立場は不鮮明であった。クリントン長官は、ホンデュラスに「憲法に沿った秩序が回復されることは、セラヤの復権を意味するのか」と質問されたとき、彼女は「イエス」と応えなかった。
 『ニューヨークタイムズ』紙によれば、彼女は、今年6月2日、テグシガルパで開かれたOAS会議の際、セラヤ大統領が夜遅く彼女を私室に招待し、家族に紹介したいと申し出て、クリントン長官を困惑させたことがあった。このOAS会議の席上、セラヤ大統領が6月28日の国民投票の計画を持ち出したとき、米国側は、「それは憲法違反であり、政治状況に火をつけることになる」と答えた。
 クリントン国務長官がはじめてセラヤと会合したのは、クーデターから10日経った7月7日のことであった。
 6月30日火曜日、国連は総会を開き、「ホンデュラスのクーデターを非難し、セラヤ大統領の即時復権を要求する決議」を採択した。そして、「国連メンバーとしてのホンデュラスの権利を停止する」ことも決議した。
 7月1日水曜日、OASはワシントンで会議を開き、「7月4日までにセラヤを大統領に復権させる」よう呼びかけた。また、チリのJose Miguel Insulza OAS議長、ニカラグアのMiguel d’Escota国連総会議長、アルゼンチンのKirchner大統領、エクアドルのコレア大統領らは、「セラヤが帰国する場合、同行する」と申し出た。

4. ホンデュラスと米国の関係史

 ホンデュラスのクーデターはオバマ政権にとって始めての外交的な試金石であった。クーデターの背景を説明するにあたって、ホワイトハウスの高官は、「実は米国は、しばらく前からクーデターの動きを察知しており、それを防ぐべく水面下で交渉を続けていた」と語った。
 ホンデュラスは約半世紀にわたって、独裁政権下に置かれ、さらに米国の軍事介入を受けてきた。しばしば、米軍に侵略された。
 とくに、ホンデュラスの軍隊は米国と緊密の関係にあった。それは80年代に遡る。米国は、ホンデュラスにあった米軍基地(テグシガルパから50マイル)で、隣国のニカラグアのサンディニスタ左派政権に対する「Contra(反政府ゲリラ)」を訓練し、武器を与えた。
 ブッシュ政権の情報活動を指揮し、イラク大使を務めたJohn Negroponteは、80年代はじめ、ホンデュラス駐在大使として、ホンデュラス軍の特殊部隊が指揮する「死の部隊」が国内で跳躍することを認めた。
 経済的には、ホンデュラスは米国に依存してきた。700万の貧しいホンデュラスでは、最大の外貨収入が、米国のホンデュラス移住労働者からの送金である。米国では、彼らは「臨時保護資格」が与えられている。これらの人びとは、80年代の「汚い戦争」時代、戦闘地域から難を逃れるために米国に難民となって流れ込んだのであった。
 もう1つの外貨収入は、米開発援助庁(USAID)の援助金である。これは、年間5,000万ドルにのぼる。援助金は、「民主主義の推進」という名目で、米国の利益に役に立つNGOや政党に供与される。これはかつてベネズエラ、ボリビアでも行われていた。
 クーデター後、USAIDの援助を受けているNGO「Grupo Pas Y Democracia」がCNNテレビに出て、「クーデターではなく、民主主義への移行である」と述べた。また同じくUSAIDに資金をもらっているNGOのコーディネーターのMartha Diazは、同じくCNNテレビで、「市民社会はセラヤ大統領を支持していないし、彼の国民投票も反対である」と述べた。
 これは、2002年にベネズエラのチャベス大統領が軍に誘拐されたとき、USAIDから資金をもらっていたNGOが「民主主義への移行」だと表現したことを思い出される。
 また米国防総省は、ホンデュラスに軍事基地を置いている。これはSoto Canoにあって、多くの戦闘機やヘリコプター、そして500人の軍隊が駐留している。米国はこれを、ホンデュラスの麻薬撲滅の軍と警察を訓練するためだと言っている。
 しかし、クーデター後、軍は米国との関係を断絶した。
 ホンデュラス本来、ホンデュラス軍は、ベネズエラとは異なり、80年代、ホンデュラスがエルサルバドルやニカラグアに対する侵攻基地であったとき以来、米軍から弾圧や暗殺の訓練を受けてきた。おそらくホンデュラスの軍隊は、多分エリートたちよりも、米軍や米国務省と関係が深いと言えるだろう。
 ホンデュラス軍の弁護士であるHerberth Bayardo Inestroza大佐は『マイアミヘラルド』のインタービューに対して、「軍はこれまでの訓練からして、左翼政権との共存が考えられない」と語った。Inestroza大佐は、Romeo Vasquez将軍と同様、米国の悪名高い「School of Americas」で訓練を受けている。」

5. その後の経過

 7月5日日曜日、セラヤ大統領は帰国を計った。しかし、軍が飛行場を閉鎖し、滑走路をブロックして飛行機が着陸するのを妨害したので果たせなかった。同時に、セラヤの支持者たち数千人のデモに対して軍は発砲して、1人を殺害し、多くの人を負傷させた。このデモは、クーデター以来最大規模のものであった。人口700万人のホンデュラスにとっては、数千人というのは、大規模である。
 以来、ホンデュラスでは大規模な抗議デモが続いている。デモはクリントン長官がセラヤと会見した動機だったと言えるだろう。2002年、ベネズエラでは、大規模な大統領支持のデモがチャベスの復権を可能にしたという歴史があるからだ。
 そして、クリントン国務長官は、7月9日、コスタリカのノーベル平和賞受賞者アリアス大統領に、セラヤ大統領とクーデター政権との間の解決の仲介を依頼した、双方ともこれにたいして合意したと言われる。
 アリアス大統領の仲介工作が続いている。
 そして、ホンデュラス国内のセラヤ支持のデモがセラヤを大統領に復権させることが出るだろう。あるいは、ホンデュラスの隣国ニカラグア、エルサルバドル、グアテマラなどが、クーデターの48時間後に経済制裁を決めた。この3カ国は、ホンデュラス貿易の3分の1を占めているので、制裁が長く続けば、クーデター政権は持たないだろう。他の国もこれに続けば、一層有効であろう。