世界の底流  
最近のタイの政変をどう見るのか
 『社会民主』08年12月号掲載


1.タイの民主化運動のダイナミズム

 タイは、東南アジアのなかで、唯一外国の植民地支配を受けなかった国である。また、東南アジアのなかで、唯一立憲君主制の国である。さらに、首都バンコクにアジア太平洋地域の国連事務局が置かれ、かつ全東アジアの航空の十字路になっている。これらのことから地政学的にタイは重要な位置を占めている。
 タイは、軍事独裁政権に闘ってきた輝かしい歴史がある。その結果、NGOの連合体(Assembly of the Poor)」という戦闘的な社会運動がある。
 とくに「貧民会議」は、95年12月10日、国際人権デーを記念して、都市のスラム住民やダム建設の影響を受けた農民、漁民、少数民族、山岳民族などタイの貧しい人びとによって結成されたダイナミックな運動である。
 97年、このような民主化運動の高揚期に、97年、「仏暦2540年憲法」が制定された。この憲法は、世界に先駆けて「先住民の土地の権利」を謳っており、貧民会議の闘争の貴重な成果である。

2.タクシン元首相打倒の2つの潮流

(1)民主化市民連合の反タクシン運動
 今年8月以降、バンコクでは連日激しい大規模な反政府デモが繰り広げられ、長期にわたって首相府がデモ隊に占拠されるという事件が起こった。このデモは「民主化市民連合(PAD)」によって組織された。これまでの貧民会議によるデモとはことなり、デモ参加者は中流階級の中年男女が多い。さらに、デモの大半はタイ王政のシンボルカラーである黄色のTシャツを着ている。
 PADは、タクシン首相時代の05年はじめに結成された反タクシンの緩やかな連合体である。リーダーは、70年代から80年代にかけて左翼の暗殺にかかわった悪名高い「国内治安作戦本部(ISOC)」のパロック元司令官、メディア界の大物ソンディをはじめ、軍、民主党議員、国家公務員労組などによって構成され、メンバーはバンコクの中流・上流階級と南部の出身者が多い。彼らは、愛国党党首タクシン首相の政敵である。つまり、PADと愛国党はタイ支配層の間の権力闘争にすぎなかった。

(2)軍事クーデター
 06年9月、軍がクーデターを起こしてタクシン政権を打倒すると、その2日後PADは「目的を果たした」として、自ら解散してしまった。以後、1年間、タイは軍事政権下に置かれた。
 07年12月、民生が復帰し、総選挙が行なわれた。「国民の力党(PPP))」が圧勝し、サマック党首が首相に就任した。もともとPPPは小政党であった。しかしタクシン個人の資産によって賄われていた愛国党が、クーデターでタクシンがロンドンに逃げたため、資金源を断たれて成り立たなくなった。そこで愛国党議員は、大挙してPPPに合流したといういきさつがある。

3.PADの首相府占拠

  サマック内閣の誕生後、PADは活動を再開した。PADはPPPに反対し、サマック首相の辞任を要求した。「サマック首相はタクシンの操り人形だ」というのがPADの主張である。今年8〜9月にかけて、地方の空港や幹線道路を封鎖した。なかでも、PADのデモ隊が2ヵ月にわたって首相府を占拠した事件は、世界を驚かした。
 その中で、最高裁がサマック首相の国営テレビの料理番組シリーズ出演を憲法違反だとした判決を下したため、今年9月9日、サマック首相は退陣した。代わりにソムチャイ副首相が首相に就任すると、PADは、今度はソムチャイ首相の辞任を要求した。なぜならソムチャイ首相は、タクシンの義弟だかである。
 10月11日、タイ最高裁はタクシン元首相を汚職の罪で禁固2年の実刑判決を下した。タクシン夫妻は英国に事実上亡命しているが、タイと英国の間には犯罪人引渡し条約が結ばれていることから、今後は大きな国際問題になるだろう。

4.NGO、社会運動の悩み

 タクシンとは何者であるか?
タクシンは北部や北東部の貧困地域で、1村当り100万バーツを低利の融資、国有林占拠農民に土地の権利を承認、農民1人当り30バーツの医療手当と2頭の家畜の供与などの公約を行なったので、人気が高かった。しかし、マクロ経済政策では、貿易の自由化、国有企業や公共サービスの民営化など市場原理主義を推し進めた。これは、貧しい人びとをさらに貧しくする政策である。
 タクシンの貧しい地域に対する人気取りのばら撒き政策と、格差を拡大する新自由主義政策は、社会運動やNGOに大きな混乱を起こした。
 たとえば、北部・東北部の農民8,000人が「民主化のための貧民キャラバン」を組織し、バンコク郊外にキャンプをして、タクシンの貧困対策支持のデモを行なった。
 このキャラバンのリーダー15人の中の1人は「貧民会議」のリーダーでもあった。しかし公式には、貧民会議はPADのデモを支配層間の権力争いと見て、不介入の立場をとっている。このように、社会運動内に混乱を巻き起こしている。
 NGOも混乱している。06年、反タクシンのデモの初期には、NGOはPADを支持していた。PADのデモで、NGOのリーダーが壇上で演説する光景も見られた。タクシン政権を打倒した軍事クーデターに際しても、立場は混乱していた。クーデターを非難するNGOの声は大きくなかった。
 軍事政権下の06年10月、NGOと貧民会議は、バンコクでタイ社会フォーラムを開いた。軍事政権が集会を禁止していたにもかかわらず、数千人が参加した。その主体は、米・タイ自由貿易協定に反対する勢力であった。とくに、HIVエイズの治療薬の特許をめぐって、協定に反対していた。
 軍事政権下では、「独裁に反対する統一戦線(UDD)が結成された。これにタクシン支持者の一部も参加した。これは、その後民政への移行につながった。これは民主勢力にとって大きな勝利であった。
 現在もなお、タイの政治的混乱は続いている。