世界の底流  
忘れられたパレスチナ難民キャンプの悲劇
 『社会民主』07年9月号掲載

 中東のレバノンでは、今年5月20日以来、軍が同国北部にあるパレスチナ難民のナハル・アルバーリド・キャンプを包囲し、砲撃をし続けていた。7月15日には、ついに本格的にキャンプ内に突入し、同キャンプを軍事的に制圧した。今回の紛争で多くのパレスチナ難民が着の身着のままでキャンプ外に逃れ、また内部でも大勢の犠牲者が出たことはいうまでもない。

1.レバノン軍のパレスチナ難民攻撃の口実

 これについての世界中のマスメディアの報道はほとんどない。また、人権NGOの反応もなぜか鈍い。パレスチナ難民キャンプに対するレバノン軍の攻撃は、キャンプ内にアルカイダと関係のある「ファタ・アルイスラム」が立てこもっていると言うのがその口実である。これは事実だろうか。
 今日、中東では、「テロとの戦い」は、まるで“魔法の杖”のようにすべての不法行為が免除されている。したがって、69年、レバノン政府とパレスチナ解放機構(PLO)との間の取り決めで、レバノン軍はパレスチナ難民キャンプ内に立ち入れないことになっていた。そこで、5月以来もレバノン軍はキャンプの外から砲撃していた。しかし、その取り決めを破って内部に侵入したのは、ファタ・アルイスラム=アルカイダという構図を理由にしたためであった。つまりテロとの戦いということには、誰も反対できないからである。

2.「ファタ・アルイスラム」とは何か

 今回のレバノン軍の攻撃が始まるまでは、「ファタ・アルイスラム」の名がマスメディアに報道されることはなかった。
 レバノンには、シーア派に基盤を置く急進的イスラム勢力の「ヒズボラ」がいる。しかし、「ファタ・アルイスラム」は、ヒズボラとは違い、スンニー派原理主義であるらしい。
 「ファタ・アルイスラム」自身は、アルカイダとの関係を否定している。しかし、その声明や文書を読むかぎり、アルカイダが言っていることに似ているし、アルカイダを支持していることは疑いない。
 『怒れるアラブ・ニュース・サービス』というインターネットのブログがある。その編集長アサド・アブカリル氏は、「ファタ・アルイスラムの大部分のメンバーは、パレスチナ人ではない」と言っている。また、攻撃開始後の5月23日、レバノン政府のムール国防相は、「ファタ・アルイスラム」の戦死者の国籍の「大部分はレバノン人であり、のこりはサウジアラビア、イエメン、アルジェリア、チュニジア、モロッコ人である」と発表した。つまり、パレスチナ人ではない、というのだ。
 しかし、私はこの説には同調しがたい。なぜなら、レバノンのパレスチナ難民キャンプの出入り口は、常時、レバノン軍の監視下にあり、空から降りてこない限り外部からの侵入は不可能である。
 レバノンでは、「ファタ・アルイスラム」は、05年2月に暗殺されたラフィク・ハリリ元首相の一族から資金を得ているという噂がある。しかし、今のところその証拠を示す人はいない。ハリリ家は、レバノン最大の金持ちで、レバノン警察を信用していない。そこで、ハリリ家は、サウジアラビアとアラブ首長国連邦から資金援助を受けて、「レバノン治安情報部隊」という私兵を創設した。
 レバノン軍のナハル・アルバーリド・キャンプ攻撃のきっかけは、その前日、トリポリ市郊外で起きた銀行襲撃事件にあった。これはハリリ家が所有する新聞で「ファタ・アルイスラムの仕業である」としてセンセーショナルに報道された。
 また、それ以前だが、ハリリ家の治安部隊がトリポリ市内のファタ・アルイスラム所有のマンションを捜査したことがあった。テレビの取材班を従えた大掛かりの捜査だったが、ファタ・アルイスラム側の思いがけない強固な反撃にあって敗退した。そこで、急遽レバノン軍の応援を頼んだのだが、レバノン軍は、事前に捜査の件については連絡がなかったと不満をもらしていた。銀行襲撃とマンション捜査という2つの事件が、レバノン軍の難民キャンプ攻撃のきっかけとなったことは間違いない。
 さらに、レバノン軍の攻撃の2週間前、中東担当のウェルチ米国務次官がレバノンを訪問した。このとき彼はレバノン軍司令官に会っている。2人の間に何が話し合われたかは発表されなかったが、政府寄りのマスメディアですら、この会談は前例がなく、異例のことであったと言っている。米国はレバノン政府から軍事援助の要請があったためだと言っている。レバノン政府はこれを否定しているが、今回のレバノン軍のパレスチナ難民キャンプ攻撃には米国の後援があったことは、容易に推測できる。

3.パレスチナ難民の悲劇と国際世論

 レバノン軍のパレスチナ難民キャンプ軍事制圧という今回の暴挙に対して、レバノンの政党は軍支持の立場をとっている。昨年イスラエルと勇敢に戦ったシーア派のヒズボラやレバノン共産党ですら、例外でない。
 パレスチナ難民の虐殺に対して、国際世論は非常に冷たい。
 70年9月、ヨルダン軍がパレスチナ難民キャンプを攻撃し、PLOを国外追放した「黒い9月」事件でも、ヨルダンの世論は、これを見殺しにした。82年9月、イスラエル軍に支援されたレバノンの右派民兵がベイルートのサブラとシャチラ難民キャンプが虐殺された時も、同様であった。さらに、イスラエルとPLOと間に93年に締結された「オスロ合意」にも、パレスチナ難民の帰還問題は曖昧にされた。
 ここでいうパレスチナ難民とは、1948年、イスラエル建国のきっかけとなった第1次中東戦争によってパレスチナ(現在のイスラエル)の地を追放された人びとを指す。彼らは、国連設立後、最初の難民となった。
 当時パレスチナ人71万人が難民となってガザ、西岸、ヨルダン、レバノン、シリア、それに少数だがサウジアラビアとエジプトに逃れた。しかし、その正確な数は不明である。50年5月、国連の「パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)」が活動を開始した当時は、91万人に達していた。
 今日では、パレスチナ難民キャンプに住んでいる数は、UNRWAによれば、ガザに99万、西岸に70万、ヨルダンに180万、レバノンに40万、シリアに43万、その他、総計440万人に上っている。
 難民の帰還は国連人権宣言に認められた正当な権利である。また、67年11月の国連安保理決議第242号でもパレスチナ難民の帰還の権利は謳われている。来年5月は、彼らが故郷を追われ、外国で難民となって生活を始めてから60周年になる。それまでにパレスチナ難民の帰還問題を解決すべきである。