世界の底流  
ギリシアの反政府デモについて
2008年12月25日


 08年12月6日の夜9時ごろ、ギリシアの首都アテネの学生街Exarcheia地区で、15歳の少年Alexandros Grigoropoulosがパトカーに乗っていた警官に射殺された。
 この事件をきっかけに、ほとんど自然発生的に、アテネ市内で、20,000人を超える若者が、射殺に抗議するデモを行なった。アテネ市内の21の警察署がデモで包囲された。やがてデモは暴動化した。8日に入る暴動はギリシア全土、そして遠くのクレタ島にも広がった。
 反政府デモはさらに国外にも飛び火した。8日、政府に抗議する青年たちがベルリンのギリシア領事館を占拠し、その中の覆面した20人がバルコニーから「国家による殺害だ」と書いた横断幕を掲げて、座り込みを続けた。彼らは説得に応じて、8時間後に退去した。このほかロンドンやキプロスでも抗議デモが起こった。
 ギリシアのデモは3週目を迎えた。

1. ギリシアの反政府デモは誰か

 反政府デモをはじめたのは、高校生と大学生である。しかし、これに彼らの親たち、そして労組、移民労働者、左翼(アナーキスト、共産党ML派など)、市民たちが続いた。
 12月17日には、それまでに逮捕された数百人の若者の釈放を求めて、アテネの裁判所を包囲した。
 これらの運動は、主として、インターネットを通じて行なわれている。
警官による殺害事件後の1週間は、デモの一部が路上の車をはじめ、銀行やスーパーを襲い、破壊した。責任はアナキストにあるとマスメディアは報じている。その損害は13億ドルに上るといわれる。
 やがて、デモは道路ばかりでなく多くの高校や大学の建物を占拠しはじめた。12月19日の段階では、その数は750の高校と180の大学に及んだ。続いて各地の市役所、そして北部のセレス市では商工会議所が占拠された。ギリシア労働組合総同盟の事務所も労働者によって占拠された。ギリシアの人気歌手や音楽家たちがデモを支持するコンサートを開き、政府の弾圧に抗議した。
 やがてクリスマスが近づき、デモは下火になった。しかし、新年に入ると復活する気配がある。

2.デモの要求は何か

 ギリシアの反政府デモはさまざまな運動によって構成される。したがって、その要求もさまざまである。
 その中で共通するのは、「警官は武器の携帯をやめろ」という要求である。とくに機動隊(MAT)や、Grigoropoulosを射殺した「特別防衛隊」の解体を要求している。また、全員が今回のデモで逮捕されて人びとの釈放を要求している。
 その他の要求には、ギリシアの「反テロ法」の廃止がある。これは市民の自由を侵すものだとしている。政府の教育や経済政策に反対するものもいる。政府の辞任を要求するものもいる。
 労働組合総同盟事務所を占拠した労働者たちはゼネストを呼びかけた。それに答えて、12月10日には、政府、国営銀行、公共運輸、国営放送など公共機関の労働者200万人が24時間ストを行った。このストによってギリシアは丸1日、経済が麻痺した。
 ギリシアの騒乱はヨーロッパのみならず、世界中に影響を与えている。アテネの独立メディアIndymediaのウエブサイトには世界中から連帯のメッセージが寄せられている。
 一方、政治や経済のエリートにとっては大きな脅威となった。たとえば、IMFのドミニク・カーン専務理事は「グローバルな経済危機の深化にともなってギリシアに見られるような市民の反乱が各地で見られるようになるだろう」と警告した。08年12月16日付けの『クリスチャンサイエンスモニター』紙は「最近起こったギリシアの暴動を見て、フランスの教育相が不人気だった教育改革案を撤回した」と報じた。

3. ギリシアの反政府デモの背景

 今回のギリシアの反政府デモは、1973年に学生のデモが軍事政権を打倒して以来、最大の社会運動である。
 Grigoropoulos の射殺事件は単なる引き金に過ぎなかった。すでにギリシア社会のなかに溜まっていた不平等や経済危機に対する怒りが爆発したのだと言えよう。
 反政府デモを批判するものの中には、73年11月の学生デモが軍事政権に対する反乱であったのに比べて、今回は、民主的に選挙された政府に対する反乱であり、正当性を持たない、という。
 これに対して、ギリシアの民主主義は真性のものではなく、たいして変わりない2大政党が政権交代しているに過ぎない。腐敗した政治家たちが権力を乱用し、その結果、若者たちに最大のしわ寄せされているのだ、とデモに参加した人びとはいう。
 ギリシアの政治は、与党の中道右派「新民主主義党(ND)」と野党の中道左派「全ギリシア社会主義運動(PASOK)」による2大政党が握ってきた。20世紀の最も傑出した政治家と言われ、首相・大統領を含めて4分の1世紀にわたってギリシア政治を率いてきたNDのコンスタンティノス・カラマンリスに続いて、アテネ・オリンピック前の04年以来、甥のコスタ・カラマンリス(ND)が首相に就いているが、野党のPASOKに対して2席多いという不安定な政情にある。96〜04年、コンスタンティノス・シミティス率いるPASOKが政権の座にあった。
 カラマンリス政権は、08年9月、ギリシア正教の僧院の土地をめぐる汚職事件で2人の閣僚が辞任した。07年夏、80人の犠牲者をだした山火事の処理をめぐっても評判が悪い。
 ギリシアの警察の弾圧は、長い歴史がある。Grigoropoulosの射殺事件以前にも、左翼、移民労働者、ロマ人などに対する警察の暴力と拷問事件は数え切れないほどあった。 
 PASOK政権下の80年代でも、10代の少年が背後から射殺されるという事件が起こっている。この警官は罪を認めたにもかかわらず、釈放された。
 カラマンリス首相は、これまで国営放送の民営化、年金改革などの新自由主義政策を採ろうとしたが、労組などの反対に会い、しばしば大規模なスルに悩まされてきた。
 教育制度については、政府は私立の大学を禁じている憲法を修正しようとした。これは野党のPASOKの賛成を得ていた。しかし、学生、教授、労組、左翼、そしてPASOK自身の党員たちも含めた反対によって、PASOKが政策を変えて反対に回ったので、修正案は通らなかったといういきさつがある。
 ギリシアは高度成長時代にも、政府は教育費を上げなかった。教育予算については、ギリシアはユーロ圏ではもっと低い。
 若者たちは、自分たちはもはや親たちのような生活を送れないという絶望的な状況に置かれている。ギリシアの失業率は8%だが、若者の失業率は20%と高い。また就職しても、給料は低い。たとえば、EU内では、月に「1,000ユーロ世代(約12万円)」というのがワーキングプアーの通称だが、ギリシアでは「600ユーロ世代(約7万2000円)」である。これはポーランドやブルガリアよりも安い。
 生活費は値上がりしている。ギリシアでは5人に1人が貧困者である。非正規雇用が多い。これギリシアが、インフレの抑止と財政の健全化というEUの規定を忠実に守ってきた結果である。

4. ギリシアのアナキストとは

 ギリシアの学生たちは、社会的に特別の優遇を得てきた。それは、73年、軍事独裁に対する反乱の功を評価されたためであった。73年11月、アテネ国立工科大学の学生たちが独裁政権に抗議してキャンパスを占拠した。これに対して、軍が戦車を差し向けて、40人の学生を殺害した。この事件がついに軍事政権の崩壊につながった。以来、警察は大学当局の許可なしには、足を踏み入れることができない。戦車がキャンパスに侵入した11月17日は、以後、ギリシア中の学校の休日となった。
 またこの11月17日にちなんで、武装マルキスト・グループ「17N」が生まれた。彼らは、75年12月、アテネの米CIA支局長Richard Welchを暗殺したことで知られる。以後、2002年に非合法化されるまで、103回に及ぶ同種のテロ攻撃を行った。最近では、07年1月、米大使館をロケット攻撃した。
 今回騒乱の発祥地になったアテネの学生街Exarcheia地区には、若者の「解放区」がある。そこにはアテネ国立工科大学があった。これは1836年に創立され、ギリシアの優れたエンジニア、建築家、科学者を輩出してきた名門校である。80年代、アテネ郊外に移転したのだが、そのネオクラッシクな建物があとに残された。
 これが若者たちの棲家となった。毎日、デモをしたり、ゴミを燃やしたり、火炎瓶を作ったりしている。この若者たちに影響力を持っているのは、若いアナキストたちである。
 ギリシアのアナキストに歴史は古い。19世紀半ば、海外にいたギリシア人がスイスのベルンに住んでいたロシアのアナキストのバクーニンと会い、感化を受けた。帰国してギリシアでアナキスト運動を始めた。
 しかし、現在、Exarcheia地区で活動しているアナキストたちは、90年代に高校生であった若者たちである。ギリシアの野党PASOKは「社会主義」を名乗っているが、保守のNDと権力をシェアしている有様で、共産党(KKE)も議会に議席を持っているが、若者のデモを批判している。Aleka Papariga共産党書記長は「いかに多くの若者がデモに参加していようと、これは“革命の蜂起”ではない。真の革命は共産党の指導のもとに労働者が蜂起しなければならない」と言った。
 議会内には、若者のデモを支持する「急進左翼連合(SYRIZA)」がいるが、これは3%、6議席をもっているに過ぎない。したがって、資本主義を否定するアナキストは、若者たちにとって魅力のある存在となる。
 またExarcheia地区には、バーやカフェが密集しており、アテネの若者にとって、ちょっとした“サタデー・ナイト・フィーバー”であった。12月6日の土曜日の夜、警察に射殺されたGrigoropoulos少年もその仲間であった。
 4年前、アテネはオリンピックに燃えていた。建設ブームの中にあった。その同じアテネが今、暴動の最中にある。オリンピックはユートピアであった。そして今あるのが本当のアテネだ。