世界の底流  
第7回ナイロビ世界社会フォーラムについて
2007年2月


 01年1月、ブラジルのポルトアレグレで始まった世界社会フォーラム(WSF)は、7年目を迎え、はじめてアフリカの地で開催された。07年1月20〜25日、ケニアの人口300万の首都ナイロビで開かれた。今回のWSFのスローガンは、「人びとの闘争、人びとのオルターナティブ(People’s Struggle、People’s Alternative)」であった。
  今年のWSFでは、これまでになく多くの参加者が、レポートを書いている。大会の参加しなかった私のところに終了後送られてきたレポートだけでも50を超えている。 その中には、Samir Amin、Walden Bello、Immanuel WallersteinといったWSFのオピニオン・リーダーたちはじめ、IPSのRoberto Savio代表など国際的なオルターナティブ・メディアのジャーナリストたちのレポートが含まれている。
 さらに、今回はアフリカで発行されている週間電子ニュース「PAMBAZUKA News」の記者たちの手厳しいレポートをはじめとするアフリカ人たちのレポートが多かった。また、
 これらレポートを資料として書いたのが、私のナイロビ報告である。

1.なぜナイロビで開かれたのか

 WSFは、第2回、第3回、第3回と続けて同じブラジルのポルトアレグレで開かれ、年を経るたびに、参加者は増え続け、10万人を超えた。ポルトアレグレは、市そのものが、WSFの共通スローガンである「もう1つの世界は可能だ」を実践していることもあり、ブラジルの組織委員会側は、ポルトアレグレをWSFの「聖地」にしたいとのぞんでいた。
 しかし、ブラジルと同様、市民社会の運動が活発なインドが強く開催を誘致したいと望んだため、第4回目にあたる05年1月、インドのムンバイで開かれた。ブラジル側の危惧と逡巡にもかかわらず、ムンバイWSFは、予想を超えて、11万人の参加を記録し、インドの優れた組織力によって大会の運営もスムーズに行なわれた。
 ついで、05年1月の第5回は、開催地がブラジルに戻り、再びポルトアレグレで開催された。そして、06年だけは、次にアフリカのナイロビで開催されるということで、準備を十分にとるために、WSFを開催することを止めて、代わりに大陸別の分散型開催が決まった。06年1月には、マリのバマコでアフリカ社会フォーラム、同じく1月にはベネズエラのカラカスでアメリカ社会フォーラム、大地震のために遅らせたのだが、3月にパキスタンのカラチでアジア社会フォーラムが開催された。

2.Uhuru公園の開会式と閉会式

 WSFの開会式と閉会式は、ナイロビ市内のUhuru(自由)公園で行なわれた。
開会式での最初のスピーカーは、70年代パレスチナの伝説の女性闘士ライラ・ハレドで、イスラエルに対する国際制裁、グアンタナモ刑務所の閉鎖などを要求した。
 そして、独立当時のザンビア大統領であったKeneth Kaundaが45分にわたって基調演説をした。Kaundaは50年近くも前の、いわば第1世代に属する民族解放運動のリーダーである。彼の話が古臭いので、飽きて途中で帰る人もいた。
 アフリカでは、カウンダのような独立の気鋭に満ちた第1世代、クーデターと腐敗の第2世代を過ぎて、今日、グローバリゼーションに抗議する第3世代がリーダーシップをとっている。年代のギャップがあるのは避けられないことである。
ケニア組織委員会のOduor Ongwen とEdward Oyugi教授が、米国を非難するスピーチをした。
 続いて、人口80万人を超え日が知アフリカ最大のスラムである「Kibera Slum」(『The Constant Gardner』の映画で有名になった)からデモがはじまった。Kiberaの住民が加わって、5万人に膨れ上がった。人びとは「ビバ・ケニア」、「ビバ、キューバ」、「ビバ・ガーナ」と」叫びながら、カラフルなお祭り気分でデモ行進した。
 当初、このUhuru公園でWSF]の全過程が開かれる予定だった。しかし、15万人が入るには狭いし、市中の治安が悪いということで、1月21〜24日のフォーラムの会場は、ナイロビ市北東10キロのところにあるKasarani地区にある「モイ国際スポーツ・センター」(中国の援助で建設)出会った。会場に隣接してKorogochoスラムがある。

2.入場料をめぐる紛争

 今年のナイロビでのWSFは満を持した期待の大会であった。しかし、実際にケニアの組織委員会に登録した数は46,000人にとどまった。(人によっては、3万5,000人〜8万人と開きがある。)英誌『エコノミスト』は8万人と書いた。そして、毎日、会場に足を運んだ人数は、25,000人であった。明らかにこれまでの倍増傾向とは異なっていた。WSFの将来を危惧する声も出ていた。
参加者数が激減したことには、訳があった。
 ケニアの市民社会の代表的な人びと、つまりNGO、キリスト教会、学者などによって構成された「ケニア組織委員会」は、北の先進国からの参加者に対しては、110ドル、現地ケニア人には500シリング(7ドル)と、参加登録料を設定していた。一見、これは合理的であるように見えるが、現地の貧しい住民にとってはとうてい払える額ではない。スラムの下水道、電気もない家賃の1ヵ月に相当する。
 これまで、ブラジル、インドで開かれてきた巨大なWSFでは、国外からの参加者はせいぜい10%以下で、ほとんどは、開催国内、あるいは近隣国からの参加者によって占められていた。彼らの参加費は無料であった。
 ケニアの実行委員会のメンバーには、このような認識と気遣いがなかった。ムンバイWSFでは、インド全土から、貧しい人が列車、バス、徒歩で集まってきたし、彼らの参加費は無料であった。ナイロビ市内には200を超えるスラムがあり、スラム住民は市内人口の半数以上を占める。
 サッカー会場の24ヵ所入口は警察と武装ガードが配置されていた。そして、会場に通じる道路にはライフルを持ったケニア軍がすべての車を検問していた。スラムの住民たちは、入口のところで、500シリングを払えないといって抗議デモをした。この抗議デモは3日間も続き、ついに10分の1の50シリングに値下げされ、その後、さらに500人に対して無料になった。このごたごたで大会は4日間のうちの大半が無駄になった。
 WSFの会場に入れない人びとは、独自にナイロビ市内で「ピープルズ議会」を開いた。
 ちなみに、ケニア組織委員会は、ケニアの草の根の組織に対して、7,000人分の無料参加券を配布していた。
 ナイロビWSFを組織するのに、650万ドルが必要であった。これには、参加者自身が支払う旅費や滞在費などは含まれていない。それを加えたコストは多分10倍になるだろう。WSFの開催にかかる経費を考えると、毎年の開催はもはや不可能である。

3.商業化したWSF

 アフリカ人ジャーナリストたちは、WSFが「商業化」したと怒っている。それは、ケニアの内務大臣(英領植民地時代の悪名高い協力者で「Kimeendero・Crusher]のあだ名を持つ」がナイロビ市内で経営する5つ星のウィンザー・ホテルのレストランが、会場の真ん中を占拠し、高くてケニア人には手が届かなかった。
 ボトルの水もナイロビ市内より高かった。東アフリカの市場を制覇しているKuwaiti携帯電話会社CelTelやケニア航空が2007年のWSFのオフィシャルなスポンサーとなった。
 さらにナイロビ空港では、航空会社のスタッフが海外からのWSF代表をホテルに誘導したため、組織委員会が準備した民宿2000室はわずか18人しか宿泊しなかった。
 これは、これまでのWSFにはない現象であったため、非難の的になった。「商業化し、民営化し、軍事化したWSF」とまで非難する声があった。この非難は、後に述べる社会運動集会の決議文にも見られる。
 しかし実情は、ケニア組織委員会が、財団など先進国のドナーに依存しないで、アフリカ内での財源を活用しようとした結果であった。
 アフリカのNGOは、これまで、英国のDfIL、米国のUSaid、デンマークのDanida、スエーデンのSidaなどの援助に大きく依存してきた。これらは市民社会のメンバーと称しているが、実際は政府機関である。このような先進国への依存の是非について、アフリカでは議論が起こっているところである。

4.フォーラムのプログラム

 今回のWSFには、これまでのように開催国の組織委員会が企画するシンポジウムが準備されなかった。つまり、連日開かれるコアとなるイベントがなかった。したがって、参加者自身が自主的に組織する1,153のセミナー、パネル、ワークショップのみとなった。
 そこで、参加者は、大会のプログラムを見て、自分が出たいイベントを探さねばならなかった。しかし、大会のプログラム自身が完全ではなく、しかも発行が遅れた。また、会場が変わったり、キャンセルになったりして、会場をうろうろすることに時間が費やされた。同時通訳とマイクの設備がなかったことも、会議の運営に支障をきたすこともしばしばあった。

(1)アフリカのプログラム

 アフリカで開催されたことで、ケニアやアフリカの組織が準備したイベントが多かった。たとえば、パン・アフリカ主義にもとづいた企画がみられた。なかでもWSFのYouth Commissionと連携したPan-Afircan Youth Campには、250人が参加した。
 またスタディアムの外では、ケニアの草の根のグループが、有機農業、エイズ教育、労組運動、女性組織などの活動を紹介するブースを出していた。その中でも、Njoki Njoroge Njehuが代表を務める「Daughters of Mumbi」やワンガリ・マタイの「Green Belt Movement」などのブースは、女性が社会を変える触媒者になっていることを印象づけた。

(2)性的権利について

 アフリカでは、南アフリカをのぞいてまだ性的権利や性的志向性が確立されていない。ナイロビWSFにもそれが反映していた。ウガンダのSexual Minorities Uganda の活動家の女性が、会議の主催者に対して、印刷した文書を渡したところ、それをゴミ箱に捨ててしまった。怒った彼女がマイクととって非難した、というハップニングがあった。

(3)ジェンダー

  徐英の参加者からジェンダーについての不満の声が上がった。これまでのWSFと同じく、ナイロビのWSFは、パネル、討論ともに男性優位である。フェミニズムのテーマは周辺化される。女性による女性のための議論に終始している。
ケニア社会フォーラムのコーディネーターのOnyango Oloo(男性)はジェンダー問題の解決について、WSF組織委員会の中に女性委員会を設ける。アフリカ人男性に、「F問題に関心のないものは、社会主義者、パンアフリカ主義者、あるいは自称革命家を名乗ることは出来ないことを教える」WSFのなかでのレイプについては、いかなる容赦もしない、ことを提案した。

(4)会場を圧倒した北のNGO

 会場を圧倒したのは、先進国のNGOや財団などが組織したイベントであった。PAMBAZUKA NewsのFiroze Manji 編集長は、これを「社会運動家と草の根組織で味付けした世界NGOフォーラム」と評した。
 北の団体は豊富な資金と人材をもって、毎日、連続したセミナーやシンポジウムを開催した。それは、アムネスティ・インターナショナル、地雷廃止国際キャンペーン、OXFAMインターナショナルなどであった。さらに、財団とNGOで構成される国際市民社会組織CIVICUS(ワシントンとヨハネスブルグに本部を置く)は連続のセミナーを開催した。
 ちなみにCIVICUS のKumi Naidoo事務局長(南アフリカのインド人指導者で、「ほっとけないアフリカの貧しさキャンペーンの国際代表は、ダボスの世界経済フォーラムでは、公民権問題をめぐってロシアのプーチン大統領と2時間におよぶ対話を行って注目を浴びた。

(5)カトリック教会

 またナイロビWSFでは、カトリック教会が大勢参加した。南アフリカのデズモンド・ツツ大司教を団長にした2万人のカトリック教会代表団は、WSFでは貧困根絶を掲げるグループの中で最大であった。北の先進国のNGOはカトリック教会が、エイズ根絶キャンペーンでのコンドームの禁止などについて、その役割について疑いを持っていたのだが、ナイロビでの債務帳消し、土地の権利擁護、公正な選挙などのキャンペーンでカトリック教会のアドボカシイ活動に目を見張ったのであった。
 途上国の債務帳消しのキャンペーンを続ける「ジュビリー・サウス」は、「不正な債務(Illegitimate Debt)の帳消しについて3日間連続してシンポジウムを開き、「宣言文」を採択した。北の債権国の市民社会は政府に対して帳消しを、途上国では不払いを要求していくことになった。

(6)侵略や武装紛争についての議論が少ない

 カナダのトロント大学グローバル調査センターの調査では、ナイロビWSFでは、1,000を超えるセッションのなかで、中東での戦争や、武力紛争のテーマがあまりにも少ないことを発見した。中東戦争については3、ハイチの内戦は3、拷問3、イランは2、イラクは2、パレスチナは7、帝国主義と戦争については19のセッションにとどまった。そして、クラスター爆弾や劣化ウラン弾についてはゼロであった。

5.社会運動集会の意味するもの

 1月24日、WSF会場で、「社会運動集会(Social Movements Assembly)」が開かれた。ここには2,000人が参加し、「アフリカの闘い、グローバルな闘い」と題する行動宣言を採択した。
 それは、ラテンアメリカで起こっている社会運動のうねりに連帯して、「グローバルな資本主義の支配に対抗する有効で完全なオルターナティブを築くために一歩を踏み出すときがきた」と宣言した。そして、今年6月2〜8日、ドイツのヘイリンゲンダムで開かれるG8サミットに向けて広汎な国際的行動を行なうこと、さらに来年1月には、「国際行動デイ」として、世界同時にアクションを起こすことを呼びかけた。
 社会運動集会を組織したのは、01年1月の第1回WSFの組織者の1人であったフランスのATTACのリーダーであるChristophe Aguitonであった。ある意味では、この集会は、今後のWSFのあり方に一石を投じたものだといえよう。
 02年1月、第2回WSFにおいて、ブラジルの組織委員会が起草した「WSF憲章」がある。これには、WSFは、ネオリベラルなグローバリゼーションに反対する市民社会相互の「考えの議論の場」であって、「行動」の場ではない、と書かれている。つまり、行動宣言を採択ないことが原則であった。
 WSFは、市民社会のグループや運動が、経験を自由に交流しあい、民主的にアイディアを議論しあう場である。したがって、軍事的に問題を解決しようとする(つまり、テロリストや武装闘争グループ)は排除されてきた。しかし、非暴力と暴力の間に線を引くことは出来ない。パレスチナで子どもが石を投げていることをどう見るのか、イラクの米占領軍に対する抵抗闘争はどう見るのか、ネパールで政権の座に着いた毛派ゲリラは、と言った難しい問題がある。
 とはいっても、WSFの原則は、これまで有効に機能してきた。それは、回を重ねるごとに、参加者の数が増えてきたし、資金力豊かな財団、環境や開発の国際NGO、さらに前アイルランド大統領で国連人権高等弁務官を務めたメアリー・ロビンソン、ジョセフ・スティグリッツのような主流派のエコノミストまでがWSFに参加するようになった。
 そして、05年1月、ダボスの世界経済フォーラムもWSFを無視することが出来なくなった。ダボスでは、英国のブレア首相、マイクロソフトのビル・ゲイツ、ロック歌手のボノの3人が記者会見し、「アフリカの貧困をなくそう」という呼びかけをしたのであった。機を見るのに敏いヨーロッパの政治家たちは、WSFに代表される対抗勢力の力を認識し、それに対する措置をとろうとしたのであった。
ブラジルで開かれたWSFでは、そのことが明らかである。会場を埋め尽くしてきたのは、WTOに反対する農民の「Via Campecina」であり、赤い旗を翻している労働者である。そして、彼らこそは、ラテンアメリカを席巻している左翼、中道左派政権の背後にいる勢力であると見て取ったのであろう。
しかし、ナイロビのWSFでは、参加者の数が減ったというだけでなく、ラテンアメリカのような社会運動が未発達なアフリカでは、まだNGOがWSFの主流となっている。
 社会運動は、体制の変革を要求する。しかし、NGOは、貧困の解消に取り組むが、決して体制を変えるものではない。政府や国際機関に対してアドボカシイを行なうが、政府や国際機関を打倒するというアジェンダを持っていない。
PAMBAZUKAのFiroze Manji編集長は「ナイロビは反グローバリゼーション派の集会というよりむしろ、世界NGOフォーラムである」と評した。
 会議後、多くのレポートがインターネット上に氾濫し、WSFのあり方についての議論が巻き起こったことが特徴であった。
 左派からの批判には、たとえば、WSFで最も多く議論される債務帳消しやトビン税の導入などは、ネオリベラリズムに対して反対していながら、どちらかと言えば現体制を容認しているのではないか、というのがある。
 極端な例は、Rodha D’Souzaが書いた『The WSF Revisited』がある。それによれば、「WSFが目指しているのは、寛容な資本主義、慈悲深い国家ではないか。これは、持続可能な搾取の固定化にほかならない」、これはWSFの「Another World」ではなくて、「Reformed World」ではないか、とまで言う。
 英誌『エコノミスト』は、WSFは「より均等な、より平和な世界が可能だ、と言っている」と表現している。
 WSFは年に1度、1月に開かれてきたが、一方では国レベル、大陸レベルですでに170の社会フォーラムが120の都市で開催されてきた。これは、WSFが年に1度の祭典でない証拠である。
 確かに、WSFは、転機を迎えている。
 WSFの将来について、議論をするために、来年1月には、WSFは開催されない。代わりに、ダボスの世界経済フォーラムに対して「世界同時抗議行動」が提案されている。この反ネオリベラリズムの行動日は08年1月26日が中心となり、その前後の週になる。
 WSFは、議論の場から、行動の場に移行していくように見える。
 09年のWSFの開催地はまだ決まっていない。これまで名乗りを上げているのは、ポルトアレグレに戻る、あるいは、米国の国境に近いメキシコの市、先住民が多いボリビア、タイ、韓国などである。
 WSFは途上国で開かれてきたし、また途上国の貧困がグローバルな課題であるところから、議論の重点はどうしても途上国の問題に集中してきた。これに対して、WSFは先進国の問題、とくに大量生産、大量消費、大量廃棄など非持続可能性について議論し、解決に取り組むべきだ、という意見がナイロビ以前にすでに出ていた。
 第1回米国社会フォーラムが、07年6月27日〜7月1日、アトランタで開催されることになっている。ここでの議論にも注目すべきでる。