世界の底流  
なぜエチオピアはソマリアに侵略したのか
2006年1月10日


1.アフリカの角での紛争が勃発

 1月9日、米国はソマリア南部を空爆した。当然多数の市民の犠牲者が出た。
90年代、ケニアとタンザニアの米大使館爆破事件のアルカイダ容疑者がこの地域に隠れているというのが、その口実である。
 一方、アルカイダ容疑者が海から脱出するのを阻止すると称して、米国はソマリア海岸沖に艦隊を配置した。
今、世界の目がイラクに集中している時、「アフリカの角」地域のソマリアでアフガニスタン、イラク戦争と同じことが起こっている。ただし、この際、地上で戦っているのは、アフリカで最強の軍隊をもっており、クリスチャンの国エチオピア軍である。

2.エチオピア軍のソマリア侵攻

  昨年12月26日、エチオピア軍はソマリア南部に侵攻し、首都モガディシオにいた「イスラム法廷連合(CIU)」を追いだし、バイドアにあったゲティ暫定連邦政権を据えた。
 エチオピア軍は戦車とミグ戦闘爆撃機をもって、CIUの民兵を圧倒した。CIU民兵は闘わずして首都を放棄し、南部に逃れた。
 エチオピア政府のメレス首相の言い分は、イスラム過激派がタリバン型の支配をソマリアに持ち込むことを阻止するためだという。
 ソマリアには、1991年に親米派のバーレ政権が崩壊して以来、対立する軍閥が跋扈し、無政府状態であった。今回、エチオピア軍によってモガディシオに据えられた暫定連邦政権は、2004年、米国とエチオピアの介入によってケニア国内で開催された会議で成立したものであった。それまで、12回も暫定政府樹立の企てがあったが、ことごとく失敗している。
 したがって、この暫定連邦政権の行方もおぼつかない。まずゲディは獣医であって、政治的経験はない。ソマリア人ではあるが、長い間エチオピアに亡命しており、1977年以来、首都モガディシオに足を踏み入れたことがない。人口200万のモガディシオはHawiye族が支配的なのに、暫定連邦政権には1人もいない。
 CIUが追放されたことにより、ソマリアでは再び軍閥抗争が復活しはじめた。もしエチオピア軍が撤退すれば、エチオピア軍によって守られている暫定連邦政権を、軍閥が倒すことはたやすいことである。
 多分エチオピア軍は近いうちに撤退するだろう。何しろ、世界最強の米軍が、1993年、ソマリアの軍閥にやられた侮辱の記憶はまだ消えていない。だが、エチオピアのメレス首相にとってみれば、ソマリアをイスラム過激派から守るという最大の任務に成功したわけだから満足だろう。米国の「反テロ戦争」に貢献したわけだから。

3.エチオピア軍を使った反テロ戦争

 実はソマリアでイスラム“過激派”の台頭を助けたのは米国である。米国は2004年に暫定連邦政権が成立して以来、これを支持してきた。さらに、エチオピアがソマリアの政治に介入することも支持した。これが、UICの台頭を促したのだった。UICはモガディシオにあった11のSharia(イスラム法廷)の緩やかな連合体であり、軍事組織ではなかった。UICの民兵が結成されたのは2005年である。
 この民兵の結成と、UICのなかのSelafist(イスラム原理主義の1派)の台頭に対して、2006年はじめ、米CIAは隣国ジブチを通じて、ひそかに「反テロ部隊」を養成した。ジブチはエチオピア、エリトリア、ソマリアに囲まれた元仏領ソマリアで、2002年以来、1,500人の米特殊部隊がアフリカの角地域の紛争に備えて駐留していた。
 昨年6月、わずか4カ月で、UICの民兵はモガディシオの軍閥たちを撃退した。そして、UICは、軍閥が撤退したあとの真空を埋めるという形で、はじめてソマリアの有力な政治勢力となった。
 UICは、映画、男女の同席、女性の外出などの禁止といった厳しい戒律を課したにもかかわらず、住民の支持を得るようになった。なぜなら、規律の良いUICの民兵は、暴力をなくし、これまで軍閥たちが検問所を市内各所に設ける、税を徴収することによって高騰していた食料品の値段が下げたからであった。モガディシオでの成功により、UICの支配地域はソマリア南部にも広がっていった。
 米国は、昨年11月はじめ、UICとの対決の準備をはじめた。AU(アフリカ連合)の支持を得て、国連安保理がソマリア第2の都市バイドアにあった暫定政権を保護する平和維持軍の派遣を決議した。国連はソマリアに対して武器輸出制裁を課していたが、AUの部隊に関する限りこの措置は例外とされた。
 実は、エチオピアは、昨年6月以来、すでにバイドアに何千もの軍隊を送りこんでいた。国連安保理の決議は、エチオピア軍のモガディシオへの進軍のシグナルとなった。12月上旬にはすでにエチオピア軍は、UICの民兵と戦闘状態にあった。AUの平和維持部隊派遣の話は、AU諸国が消極的であったため、吹っ飛んでしまった。代わりに、エチオピア軍は不法な占領者という汚名を着ることなしに、堂々と居座れるのだ。
 以上のことは、1993年米国の平和維持軍がソマリアから無様に敗退して以来、米国が計画してきたシナリオであった。

4.なぜエチオピアはUICを攻撃したのか?

 ブルッセルに本部を置くNGO「国際危機グループ(ICG)」の報告によると、UICは、伝統的なイスラム保守主義派からサラフィスト原理主義派、そしてジハード派過激派などを含む緩やかな連合体である。1991年、バーレ政権崩壊後、モガディシオでは、泥棒を罰したり、契約を遵守させたりするイスラム法廷が活躍した。しかし、伝統的な部族法が存在していたため、法廷が厳しいイスラムの戒律(シャリア)を強いるようなことはなかった。
 イスラム法廷が成長するにつれて、サウジアラビアなど湾岸からの財政支援が増えた。さらにエチオピアのライバルであるエリトリア(イスラム教徒)も武器援助をはじめた。これがエチオピアを怒らせた原因である。
 1998〜2000年、エチオピアとエリトリアが国境紛争下にあったとき、両方ともソマリアを基地として利用した。今日、ソマリアには2,000人のエリトリア軍がいるといわれる。
 エチオピアは、西側の支持を得るために、UICとアルカイダの関係を示唆している。しかし、エチオピアが最も気にしているのは、自国内にいるソマリア語を話すイスラム教徒(人口の40%を占める)である。
 1977年、エチオピアとソマリアは、エチオピア領となっているオガデン地域の領有をめぐって戦った。ここはソマリアのDarod族が住んでいる。エチオピアは、UICが再び、オガデンの領有を主張し始めることを恐れた。そこでエチオピアはUICの勢力が大きくならないうちに、オガデンのDarod族を使って、UICを倒そうとしたのであった。ソマリアに進駐したエチオピア軍にはDarod族の戦士が大勢いるといわれる。現在、モガディシオに据えられた暫定連邦政権のメンバーのほとんどはDarod族である。
 エチオピアのメレス首相は、暫定連邦政権が孤立するだろうことはよく認識している。モガディシオのHawiye族の軍閥や、UIC民兵の残党が暫定政権を脅かすようなことにでもなれば、エチオピア軍はすぐにでも撤退するだろう。そして、彼らが、外国勢力であるエチオピア占領軍と戦うかぎり、住民は支持するだろう。しかし、軍閥間、UICなどが統一して戦うということは、これまでの経緯から言って難しいだろう。

5.ソマリアとはどんな国か 

  ソマリアは、人口800万人で、その60%は遊牧民か、または半遊牧民である。隣国エチオピアと並んで「アフリカの角」と呼ばれる地域にあり、冷戦の終わりまで、インド洋から紅海、スエズ運河にいたる出口として、ペルシャ湾岸から米国、ヨーロッパ向けの石油タンカー・ルートとして重要な位置を占めていた。したがって、このアフリカの角を巡って、米ソが激しい覇権争いを繰り広げていた。
 ソマリアでは、69年に、クーデタでバーレ軍事政権が誕生し、ソ連寄りの政策をとった。一方、74年9月、隣国エチオピアで、それまでの親米だった皇帝がクーデタで倒され、ソ連寄りの社会主義政権が誕生した。そして、77年にソマリアとエチオピア間でオガデン地域の領有をめぐって争いが起こると、米国はソマリアに肩入れをし、その結果、以後バーレ政権は親米路線を採るようになった。このように、アフリカの角地域では、米ソの冷戦中は親米政権と親ソ政権がめまぐるしく入れ替わった。やがて、90年代に入り、冷戦が終わり、また、タンカーが巨大化し、南アフリカ沖を通過するようになったこともあって、その地政学的な重要性は著しく低下した。
 ソマリアのバーレ政権は、91年、同政権の情報機関のトップにいたアイディット将軍がクーデタを起こし、打倒された。以後、ソマリアは、武装勢力を持った部族の首長たち、すなわち軍閥による群雄割拠の時代がはじまった。ソマリアは全面的な内戦状態となった。
 93年、国連が平和執行部隊をソマリアに展開した。その主力部隊であった米軍2万人が、大勢のマスメディアを伴ってモガディシオに上陸したとき、アイディット将軍の軍隊の攻撃を受けて18人が戦死した。米兵の死体が、モガディシオ市内中に引きずり回された。米国の世論は怒り、米軍はソマリアから撤退した。ちなみにアイディット将軍は、96年に病死した。
 米軍撤退後の94年、軍閥たちから独立して、イスラム法による秩序回復を標榜するイスラム法廷連合が誕生した。これは、イスラム聖職者の組織である。無政府状態にあったソマリアでイスラム法にもとづいて地域社会の秩序を守り、同時に社会的なサービス活動を行なってきた。
 イスラム教徒が全人口の90%にのぼるソマリアでは、反米感情も強く、イスラム法廷連合に対する支持は厚かった。
 一方、軍事的手段によるソマリア介入をあきらめた米国は、いくつかの親米派の軍閥を統合した「平和の回復と対テロ同盟(ARPCT)」を設立した。06年6月7日付けの『ニューヨーク・タイムズ』紙によると、米国は、ケニアのCIA支局を通じて、ARPCTが闇市場を通じて武器を購入するために、大量のドルを支給してきた、という。これは、ソマリアに武器援助を禁止した91年の国連安保理決議に違反する行為である。ICGによると、CIAは毎月10万〜15万ドルを支払っていた、という。
 一方、国連は、04年に隣国ケニアで、ソマリア暫定連邦政府の大統領選挙を実施した。その結果ゲティ大統領が選出された。暫定連邦政権は、モガディシオに入ることができず、首都の北西240キロのバイドアに居を構えている。

6.米国のソマリアでの石油権益

  石油の埋蔵が噂されるソマリア東北部は「プントランド」の名で、独立を宣言している。また、93年1月18日付けの『ロスアンゼルス・タイムズ』紙によれば、バーレ政権が、すでにシェブロン、アモコ、コノコ、フィリップの米石油会社に対して、ソマリアの3分の2の地域での石油とガスの埋蔵探査権を供与していたが、これには、米国の軍事介入による秩序の回復が前提であった、と報じた。また、CIAのウエッブ・サイトには、ソマリアには、「ウラニウム、鉄鉱石、錫、ボーキサイト、銅、塩、天然ガス、そして、確実に石油の埋蔵がある」と記されている。石油の埋蔵が確かな地域は、プントランドであることはいうまでもない。