世界の底流  
トルコ領内のクルドのインティファーダ
2006年9月18日

 
1.インティファーダのはじまり

 マスメディアではまったく報道されなかったが、去る4月、トルコ東南部に住むクルド人がトルコ政府の抑圧に対して蜂起したのであった。
 この蜂起はDiyarbakir市からはじまり、Batman、Siirt、Mardin、Kizitepe、Nusaybin、Hakkari、Agri、Van、Ergani、Karsなどクルド人の都市に広がり、さらに首都イスタンブールにまで及んだ。
 まず、Diyarbakir市内で、クルド人が街頭に出て、自治を要求し、警察の弾圧に抗議して、石や火炎瓶を投げてデモを行った。その先頭に立った「クルド解放運動(KLM)」の「人民防衛軍(HPG)」の戦士たちが、警察との衝突で14人が死んだ。HPGの声明によると、このとき警察は化学兵器を使用したという。そしてHPGはNGOがこの事件を調査するよう要求した。犠牲者の家族の話では、遺体には、やけどや化学兵器が使用された痕跡が見られたという。
 この事件に触発され、Diyarbakir市で執り行われた犠牲者の葬儀では再び大規模な抗議デモが起こった。この葬儀に対して、警察は解散させようとして武器を使用した。
 この警察の弾圧に対して、その他の都市で抗議デモがはじまった。これに対して、警察は再び化学兵器を使った。これらのデモで市民13人が弾に当たって死んだ。その中には、3歳から6歳の子ども3人が含まれていた。多くの人が負傷したし、数百人が逮捕され、拷問された。

2.これまでの経緯

 1998年、当時は「クルド労働党(PKK)」と名乗っていた「クルド解放運動(KLM)」のAbdulla Ocalan党首が、逮捕された。
 Ocalan党首は、99年に開かれた裁判の席上で、それまでのトルコ政府に対する武装闘争の放棄し、代わりに、クルド人のアイデンティティと文化的権利を獲得するための平和的な市民権獲得の闘争に移ることをKLMのメンバーに呼びかけた。
 KLMはこの党首の呼びかけを受け入れ、武装闘争を放棄した。これによって、15年続いたトルコの内戦は終了した。クルド人は、平和的な政治闘争に集中したのであった。そして7年前、第1回会議で、PKKの合法組織としてKLMが創設された。その目標はトルコに平和と民主主義をもたらすことにあった。そして、KLMの党首に獄中のOcalan を代表に選出した。
 しかし、クルド人ゲリラは武器を放棄しなかった。そして、トルコ領からイラク領クルド人地域に移動した。以来、彼らは自ら「自衛軍」と名乗り、それまでしばしば行っていた警察所などの攻撃を一切止めた。そして、トルコ政府に対して、アムネスティ(恩赦)を要求し、自分たちがトルコで平和的に政治活動ができるように話し合いのチャネルを空けておくことを宣言した。
 トルコのEU加盟が議題になるにつれて、クルド問題の平和的解決の道が開けてかに見えた。トルコ政府はクルドの文化的権利について最低限の改善を行ったが、クルド問題の解決には程遠く、クルド人に対する軍事作戦は続いた。

3.低強度戦争とクルド文化の破壊

 90年代、この「低強度戦争」でもって、トルコの治安部隊によって3,000以上のクルド人の村が撤去され、破壊された。これはトルコ議会が認めた数字である。
 クルド人の文化的アイデンティティの抑圧は続き、クルドの大学の学生がクルド語での授業を要求したが、これも弾圧され、学生は退学させられ、逮捕された。クルド語での出版物を発行した団体は、ひどい弾圧を受けた。大量虐殺に生き残った遺族の賠償要求は拒絶された。  
 家屋を接収され、都市のスラムに流れ込んだクルド人家族の居住権の要求は拒否され、弾圧の対象となった。皮肉なことに、1996年6月、イスタンブールで国連が開いた人間居住会議では、「居住権」を基本的人権として認めるという決議が採択されたのであった。
 クルド人は、その文化と言語を破壊され、惨めな生活を強いられたのであった。
 
4.インティファーダへ

 クルド人は、トルコ政府の戦略とは、クルド人アイデンティティを否定し、これに抗議するものを弾圧し、世界にクルド問題があることを忘れさせようとしているのだ、と理解しはじめた。クルド人に対する軍事作戦は、エスカレートし、昨年春以来、再び大量処刑がはじまった。トルコ政府はその存在を否定しているJITEM(軍事情報局)がKLMの拠点と目される地域を砲撃した。
 2005年11月9日に起こった事件が新しい居面を開いた。その日、Hakkari郡の小さな町Semdinliで、本屋に手榴弾を投げ込んだ3人の男を、町の人びとが捕まえた。この3人の2人は陸軍曹長で、もう1人はスパイであった。3人は警察に突き出された。3人が反抗の場所から逃げ込もうとした車から、武器、手榴弾、Semdinliの住民のリストとこれまで爆弾が投げ込まれた17ヵ所を記した町の地図などを含んだ一連の文書が発見された。
 この事実は、これまでマスメディアが、KLMの犯行と報道してきた一連の爆弾事件が治安部隊の犯行であったことが判明した。陸軍司令官Yasar Buyukanit将軍は、今年の夏に参謀総長に昇任したのだが、マスメディアのインタービュに対して、2人の軍曹のうちの1人を良く知っており、「良いやつだ」と答えた。この将軍を捜査した検事は、軍に告発され、逆に検事自身が捜査の対象となってしまい、最終的には解雇されてしまった。将軍を捜査せよという要求は拒否された。
 これらの事件は軍の「死の部隊」が存在し、活動しているということを示している。クルドじんの都市や町では抗議デモが起こったことは言うまでもない。
 そして、今年3月21日のNewrozの日がやってきた。これは、中東の人びとの間に言い伝えられている祭りで、専制者に対する人びとの蜂起の記念日である。この祭りは、90年代には禁止されていたのだが、2000年以来、クルド人地域で、多くの人びとによって再開された。しかし、これは挑発者によってしばしば、利用された。たとえば、昨年の祭りではトルコの国旗が何者かによって焼かれた。マスメディアはこの事件をクルド人に対する憎悪をあおることに利用した。その結果、何人かのクルド人がリンチに会い、殺された。
 今年のNewroz祭りは、特に重要であった。昨年11月のSemdinli事件の後でもあり、クルド地域では緊張が高まっていた。トルコ政府は、クルド問題の平和的解決の呼びかけを無視し、さらに恐怖作戦でもって緊張を高めており、一方、クルド人の怒りは頂点に達していた。マスメディアはその緊張を高めるために、Newroz祭り中に流血事件が起こると示唆した。このような中で、KLMは祭りの期間中は、一切の武装闘争を停止すると宣言した。クルド人地域では、すべての人びとが祭りに参加したが、何の暴力事件もなかったが、クルド人はクルド人の存在、言語、文化などの憲法上の承認、すべての政治犯とゲリラが合法的な政治に参加するために恩赦を与えるといった政治的要求を宣言した。これに対してトルコ政府がどのように反応したのだろうか?
 その答えは、3月25日、14人のHPGゲリラが化学兵器で殺されるというものであった。クルド人は、これに対して、平和的解決を要求する大規模デモを組織したのであった。すでに述べたように、このゲリラの葬儀に警察が発砲して、3人が殺された。この事件について、トルコのErdogan首相は「事件はコントロールされる。治安部隊はあらゆる手段をもって、女性や子どもの差別なく、発砲しても良い」とコメントした。確かに、これはパレスチナでのインティファーダに似ていた、女性や子ども、老人たちが街頭に出て、石を投げる。そして、治安部隊が女性、子ども、老人の差別なく発砲する、といった状況においては。クルド地域では、治安部隊はドイツ製の戦車、アメリカ製のヘリが投入された。
 KLMは、非武装のデモに対するトルコの治安部隊の無差別の発砲事件を非難し、責任者を処罰すべきだと声明した。
 一方、トルコ政府は、親クルド派の合法政党である「民主社会党(DTP)と選出されたクルドの市長たちのせいにして、その多くを捜査し、数人を逮捕した。DPTは、クルド問題の民主的解決のための対話を要求したが、トルコ政府はこれを拒否した。Erdogan首相は、「DTPがKLMをテロ組織と言わない限り、対話を拒否する」と声明した。トルコの最大野党のCHPは、首相の立場を前面的に支持し、むしろ政府が及び腰であるといっている。
 トルコ政府は、このクルドのインティファーダをそそのかしたのはデンマークにあるクルドのROJ 衛星テレビであるとして、このテレビを禁止することをデンマーク政府に要求している。米国はこのトルコ政府の立場を支持している。このテレビを封殺するために、何者かがテレビのレポーター2人を襲撃し、1人は足を撃たれ、もう1人は病院に運ばれたが、死亡した。
 現在、クルド地域では、78年の「汚い戦争」時代に逆戻りしている。パラミリタリー、死の部隊、強制退去、拷問、経済封鎖、大量処刑、化学兵器などが用いられている。そして、クルド地域には、25万人の政府軍が派兵されている。