世界の底流  
スーダンのダルフール紛争について
2006年10月2日


1.ダルフール紛争の現況

 アフリカのスーダンは、3つの解決できない問題を抱えている。

第1は、南部の反乱である。スーダン人民解放軍(SPLA)によって、これまで20年にわたって政府軍との戦闘が続いてきた。すでにこの反乱によって100万人の命が失われた。
第2は、東部のKasalaの市内と周辺での同じような反乱がある。
第3は、西部のダルフール地域での紛争であり、これは戦争、レイプ、略奪、難民の地として世界中に知れ渡っている。

 すでに20万人が殺され、隣国のチャドとの国境地帯に250万人が難民となっている。これはスーダン政府の支援を受けたアラブ系の民兵「ジャンジャウィード」が、アフリカ系住民に対して攻撃をした結果である。さらに、政府軍が空爆を行っている。
 ダルフール紛争については、ブッシュ米大統領が、「大量虐殺の罪」として、スーダン政府を制裁することを要求してきた。しかし、国連では賛成を得ておらず、代わりに「人道の危機」だとされている。
 代わりに、アフリカ連合が7,200人の平和維持部隊を派遣した。しかし、財政難のため、ほとんど効果があがっていない。
 去る8月、国連安保理は2万2,000人の国連平和維持部隊(PKO)の派遣を決議した。国連PKOはアフリカ連合の平和維持部隊に取って代わり、同地域をパトロールすることになった。
 Omar Hassan Bashirスーダン大統領は、「ダルフール紛争は、エリトリアとチャドの挑発者によるもので、スーダンは犠牲者である」とし、「イラクに攻め込んだ米英連合軍と同様である」、したがって、「国連PKOがスーダン領に入れば、武力攻撃をする」と脅かしている。そこで、9月21日、国連安保理とアフリカ連合が会合を持ち、アフリカ連合の平和維持部隊が3ヵ月駐留を延期することになった。これでひとまず、ダルフールが空白になることを回避できた。

2.スーダンとは

 古代スーダンは、Meroeと呼ばれる強大な王国で、しばしば古代エジプトに侵略していた。そしてイスラムが浸透しはじめた西暦700年頃までは、「Bedel al Sud(黒い人の土地)」と呼ばれ、キリスト教国であったという。
 そしてアラブ人イスラム教徒の軍隊がスーダンに攻め込んできた時、南部と西(ダルフール地区)のキリスト教徒たちは激しく抵抗したが、最後には征服された。
 ダルフール地区の征服は大量虐殺に等しかった。ダルフール人は人種差別を受け、女性の性的搾取、児童労働など、現代の奴隷制度が敷かれた。したがって、現在のダルフールの反乱は21世紀の奴隷の反乱と同義語である。
 一方、南部スーダンでは、30年前、故John Grangによって率いられたスーダン人民解放軍(SPLA)が、中央政府に対して戦ってきた。これはついに国際社会に認識され、現在、事実上の独立を勝ち取っている。SPLAと中央政府との間にケニアのMachakoで「Machako合意」が成立し、SPLAの司令官がスーダン政府の副大統領に就任した。さらにMachako合意は、少なくとも理論上は、公正な、バランスのある経済開発と富の分配の仕組みが保証されている。また南部では、6年後に行われる「独立か、あるいはスーダン内にとどまるか」を問う住民投票までの6年間は、自治が認められることになった。このようにスーダン政府が譲歩したのは、SPLAと国際世論の圧力の成果である。
 このように南部にもたらされた平和は、ダルフールには及ばなかった。ここでは、250万人が難民となり、400万人がアラブ民兵のテロに晒され、その中の100万人は人道援助が届かない。

3.ダルフールの反乱

 反乱は1987年に始まった。この地域が厳しい飢饉に見舞われた年であった。この年にアラブ系イスラム教徒がダルフールに対して挑発を開始した。政府が、この地からアフリカ人住民を追放するために、ジャンジャウィードを組織し、攻撃した。また隣国チャドでも内戦が勃発し、これがスーダンのアラブ人にアラブ優越感を与え、それがジャンジャウィードに感染した。
 スーダン政府軍の構成自体が民兵のジャンジャウィードの成立に直接影響している。たとえば、長い間、政府軍はKordogfan Nubas人と少数派のダルフール人によって構成されてきた。ナイル川沿いのアラブ人エリートは政治を握り、ダルフール人軍隊は戦闘に適しないと軽蔑された。これが、ダルフールの反乱につながっていった。これに対するジャンジャウィードは、砂漠化によって貧困化した北部の遊牧民によって構成された。また、中央政府がとくに、チャドのアラブ人からジャンジャウィードにリクルートしたという説もある。彼らは、西アフリカのイスラム化されたアラブ人の移民またはその子孫である。
 ジャンジャウィードによる挑発は、当時のMahdi政府の支援を受けた本格的な武力攻撃にエスカレートした。ダルフール人はこれに対して、Fur自衛軍を組織した。のちこれはスーダン解放軍(SLA)に改名した。
 元英語教師のMinni Arkoi MinawiSLA司令官によると、SLAの綱領は、民族自決で
 他民族国家の設立を謳った。しかし、SLAはすぐに多数派はMinawi司令官の下に、残りは、Abdulwahid Mohammed Alnurの下に2つに分裂した。
 このほか、「平等と正義運動(JEM)」という武装勢力がある。これはSLAと目的を異にする。
 スーダンでは、1989年にOmar Albashir将軍がMahdi政権をクーデタで転覆した。このクーデタが成功したのは、ソルボンヌ大学出身の尊敬されたイスラム教学者Sheik Hassan Al-Turabi博士の後押しがあったためである。1991年、al-Tubabi博士は、「国家イスラム戦線(NIF)」の総書記に就任し、スーダンのイスラム組織のネットワークを結成した。それはダルフール地域にも及んだ。1999年al-Tubabii博士はスーダン政府に「議会が大統領の権限を削減する」よう申し入れた。これによって、al-Tubabiと政府の間に溝が出来た。
 大統領は議会を解散し、何百人ものNIFのメンバーが政府のポストから追放され、戒厳令が敷かれた。これによって、al−Tubabiにリクルートされたダルフール出身のアフリカ人政府役人は一夜にして職を失った。彼らは2003年、「正義と平等運動((JEM))を組織した。Al−Tubabiの支持者であり、「スーダンにおける権力と富の不平等」と題した黒書を出版したKhalil Ibahim Muhammad博士が指導者である。発禁となったこの本は、JEMの綱領であり、スーダン政府がナイル川沿いの一部のアラブ人に独占されていることを告発したものである。
 たしかに1917年、英植民地支配者がダルフールをスーダン領に編入して以来、植民地本国に反乱を起こさないために、酋長の子弟にしか教育の機会を与えなかった。その結果、1935年には、ダルフール地域内には小学校が1軒しかなく、1940年代までは産院さえなかった。スーダンが独立した1956年には、ダルフールには数件の病院があるだけで、インフラも整備されず、まったく取り残された土地であった。
 したがって、ダルフールの反乱が始まったとき、JEMはSLAと共同した。勿論スーダン政府は、SLAとだけ和平交渉をしようとしたか、JEMはSLAとの共同和平交渉を主張した。
 2004年半ば、ダルフールの悲劇が国際マスコミに取り上げられるようになった。クリントン政権がルワンダの虐殺にとった冷たい態度とは正反対に、パウエル国務長官はこれを「大量虐殺」と呼び、スーダン政府が飢饉と大量レイプを戦争の武器に使っていると非難した。
 しかし、これは表むきのことで、スーダンは産油国である。米国もEUも国連がスーダンを制裁することには反対だった。皮肉なことにダルフール南部には、未開発の石油の埋蔵があり、これに中国、英国、米国、アフリカの角の国ぐにが強い関心を抱いている。
 2006年5月5日、アフリカ連合は、ナイジェリアのアブジャで3つの反乱軍の一つ北部のMinawi派SLAとスーダン政府との「ダルフール和平協定(DPA)」の合意を取り付けた。しかし、この和平協定は状況を一層悪化させた。それはダルフール人たちがジャンジャウィードの攻撃から身を守る力を削いでしまったからである。これは住民にとっては危険なことだ。なぜならスーダン政府は、ジャンジャウィードを武装解除しないからである。これに対して、Minawi派の兵士たちは怒り、協定を無視して戦いを続けている。
 そして、Minawi派SLAはダルフール北部で、和平協定に反対したライバルのAlnur派SLAと内戦を起こした。ここでは若い男が殺戮の対象になっている。
2006年、和平協定に反対したダルフールの反乱3派はエリトリアのアスマラで会合し、スーダン政府に反対する新しい同盟「国民救世戦線(NRF)」を結成した。NRFはダルフール和平協定を拒否し、ダルフール問題だけでなく、全スーダンの問題を交渉することを綱領に掲げている。NRFはまた、アフリカ連合の平和維持軍を国連の平和維持軍に代えることを願っている。
 一方、アフリカ連合は、NRFを和平協定違反として、制裁することを要求している。

 ダルフール紛争の解決は一層困難になっている。