世界の底流  
アラファトの死は暗殺?
2006年1月16日


 パレスチナ自治政府の議長であったヤシア・アラファトはフランスの病院で、2004年11月11日病死した。
 当初から、アラファトの死については、病名が発表されないこともあって、謎に満ちていた。毒殺、はてはエイズウイルスを移されたなどという噂まであった。
 アラファトの死をめぐる謎について、2005年9月10日付けの『レバノン・スター』紙はTrish Schuh記者の記事を載せている。彼女は『ABCニュース』、『アル・アラビア』、『モスリム・ウイークリー』、『アジアタイムズ』、『テヘランタイムズ』、『Counterpunch』などに寄稿しているフリーランスのジャーナリストであり、パレスチナのBir Zeit大学でアラビア語とイスラムを専攻した。
 以下はShuh記者の分析である。

 イスラエルにとって、アラファトの死は勝利であった。これによって、インチファーダに反対だった親米、親イスラエルのアッバス首相を自治政府の議長に選出することが出来たし、パレスチナ抵抗勢力の武装解除が可能になった。イスラエル政府は「イスラエルの平和を妨害するものは永遠に除去された」と言っている。
 ブッシュ大統領の側近たちは、すでに2002年1月、大統領が、ガザの過激派に向けて武器を運んでいたイランの輸送機をイスラエルが紅海上で捕捉した時点で、アラファトを平和プロセスに相応しくないテロリストであり、抹殺を決意していた、という。イスラエルの情報機関モサドからCIAにもたらされた証拠によると、アラファトはこのことに関与していた、という。
 シャロンが閣議でアラファトの追放を議論しているとき、一方では、イスラエルの戦車がラマラの自治政府を包囲した。このとき、米国とヨーロッパの圧力で、シャロンは、アラファトを暗殺しないことを約束させられた。『中東ニュースライン』はパウエル国務長官が、エジプト、ヨルダン、チュニジア、などのアラファトの亡命先として打診したが、すべて断られたと報道した。
 2002年4月1日付けの『World Tribune.com』はモロッコがアラファトの亡命に同意したが、ハマスとファタから70人が付いていくことを知り、イスラエル議会が「亡命政権として海外で活動することの方がより危険である」として反対した、という。その1ヵ月後、米下院はイスラエル支持、アラファトをテロリスト・独裁者として非難する決議を圧倒的多数で採択した。
 2004年6月24日、ブッシュ大統領はロースガーデンで、パレスチナの政権交代の必要性を語った。専門家によると、これはアラファトにとって死刑宣告であった。そして、ブッシュはシャロンの口癖である、「アラファトをパレスチナの代表と認めない、アラファトとは交渉しない」をオウムのように繰り返した。
 2002年末、イスラエルの専門家が「超法的殺人を合法化する」ことについて米司法省の法律家にアドバイスした。2003年2月7日付けの『Jewish Forward』紙によれば、「モサドが、車爆弾、スナイパー、携帯電話、ハイテク機器、そして毒殺など国家テロによる暗殺を、いかに事故に見せかけて合法化する訓練をCIAに行っている」という情報を報じている。
 2004年12月6日付けの『ガーディアン』紙によれば、元パレスチナ解放戦線の幹部で、長い間アラファトのスポークスマンであったAbu Bassam Sharif は、2002年12月、イスラエル平和運動の友人から「アラファト毒殺の陰謀」を警告する手紙を受け取った、という。
 政権交代については、イスラエルと米国はアラファトに対してアバッスを首相にするように圧力をかけた。そのアバッス首相が、イスラエル武装闘争派の抹殺を唱えるGazan Mohammed Dahalan を司法大臣に任命したことは、イスラエルと米国を喜ばした。
 『Geostrategy-Direct.com』 に載った「ひそかな反アラファト改革運動」という記事によると、2005年にDalhanが自ら訓練した1,000人の民兵を使って反アラファトのクーデタを計画した、と報じている。アラファトの自伝作家Said Aburishは、「アラファトは1990年代、Dahlanが囚人を拷問したことを理由に司法大臣の任命を拒否した。それで、アバッスは2003年9月、首相を辞任したのだ」と書いている。
 2003年8月、パレスチナの武力攻撃に対する報復として、Shaul Mofazイスラエル国防大臣は、過激派に対する全面戦争を宣言した。そして、「アラファトを暗殺する時期や場所をいつでも選ぶことが出来る」と言った。
 同年9月半ば、イスラエル議会はアラファトを追放する法律を成立させた。これに対して、パレスチナの大臣Saeb Erekatは、CNNに「次の標的はアラファトだ」と語った。またシャロンのスポークスマンRaanan Gissanは、この法案の採択は、アラファトの追放なのかというCNNの問いに対して、「そうではない」と答えた。
 2003年9月11日付けの『エルサレムポスト』紙は、「アラファトを殺すべきだ。なぜなら他に選択肢はないからだ」、「いずれにせよ、我々は非難される。だから、ただちに行うべきだ」と社説で書いている。
 イスラエルのEhud Olmert副首相は、「アラファトを除去する方法として、追放という選択肢があるが、暗殺もまた選択肢だ」と語った。シャロンは「アラファトを殺すことは、なによりもテロリズムという手段を受け入れないということを世界に示すものだ」といった。
 イスラエル軍中央司令部は「新葉っぱ作戦」という暗号のアラファト暗殺とその死後の作戦計画を作成した。これはどのように暗殺を実行するのか、埋葬場所は、暴動抑止、ユダヤ人セトルメントの防衛、さらに、イスラエル軍がアラファトの死に喜びを表さないことなどこまかに決めたものであった。アラファトを英雄にしないために、彼を自然死させることなども書いてあった。
 2004年4月14日、シャロンのホワイトハウス訪問によって、ブッシュ政権の中東政策は転換した。イスラエルのガザ撤退と引き換えに、シャロンは一連の“安全保障リスト”の承認をブッシュに受け入れさせた。それは、アラファト、Nasralla、ハマス、ヒズボラ、イランの核能力などの「テロの脅威」の抹殺であった。
 シャロンはブッシュに対して2003年10月、3人のアメリカ兵が殺されたガザでの過激派の米軍車両攻撃が「アラファトの指示」であったという証拠を見せたとき、ブッシュは最終的にアラファトの抹殺対象にすることに同意した。
イエメンのAbubakr al-Qibri外相は「訪米の度に、シャロンはテロと暗殺をエスカレートしている、という事実」について警告した。
 訪米以後、シャロンはヘブライ語の新聞紙『Yediot Aharonot』に、公然と、「我々はYassin やRantissiを、適時に抹殺してきた。アラファトに関しても、同じ原則を適応する」と語った。
 『Maariv』紙は、シャロンの死の宣告“トランプカード”を発表した。また、この中でイスラエルTsahi Hanegbi内務大臣は、「誰にも特権はない。それは最後の1人についてもだ」と語った。またSilvan Shalom 外務大臣は「アラファトの抹殺の時は今までになく近い」と語った。
 2004年7月、パレスチナ自治政府の腐敗に対する抗議デモはガザと西岸のジェニンとナブルスに広がった。『WorldTribune.com』によると、Dahlanは米国の支援を受けて、自分がアラファトの後継者になるために抗議デモをそそのかしたと言う。米国の強大なユダヤロビイ「米・イスラエル政治行動委員会(AIPAC)」は「パレスチナ内の反アラファト分子と協力して、国際的な圧力が政権交代につながる」と発言した。
 2004年8月、『ニューヨークポスト』のコラムニストが、共和党大会において、イスラエルの高官の言として、「アラファトは今年、死ぬだろう」、「これ以上、聞かないでくれ」と言った。
 2004年9月6日、Mohaz国防大臣はイスラエル軍ラジオで、「2003年にアラファト支配を終わらせるという政府の決定」について再確認した。
 そしてその後1ヵ月以内に、アラファトは不可解な病で倒れた。最初の発表から米国のマスメディアは「確実にアラファトが死んでいく」と書きたてた。ラマラでは、パレスチナ自治政府はアラファトの主治医であるAshraf al-Kurdi医師が診察するのを妨害した。そしてKurdi医師が診察したときは、もはや彼を救う、あるいは解毒剤を処方するには遅すぎた。Kurdi医師は「ラマラにいた時、アラファトは自分が助からないことを知っていた。そして、実際にアラファトが自分は毒殺された、と言ったのを聞いた」と語った。
 2004年11月11日、アラファトは原因不明の死を遂げた。彼のカルテを分析したアラファトの甥Nasser Al-Qidwaは「アラファトは毒殺された」と言っている。アンマンでの事務所でKuridi医師をインタービューした時、「私はアラファトが触媒のようなもので毒殺されたと確信している」と語った。
 パレスチナ自治政府はKurudi医師の解剖の要請を拒否した。ハマスのリーダーKhaled Meshal は『アルジャジーラ』衛星テレビで、「イスラエルがAbu Ammar(アラファトのゲリラ名)の血液に毒を入れたことを告発する」、そして、モサドが1997年、彼の毒殺を計画したここの経験から、「フランスとアラブ人医師は決して証拠を見つけることができないだろう。私の時はイスラエルのエイジェントがヨルダン政府に逮捕されたので、イスラエルは解毒剤を提供せざるを得なかったのだが」と語った。
 2004年10月29日付けの『ニューヨークポスト』紙は「イスラエルはアラファトの埋葬場所を含めて抹殺を何ヵ月も準備してきた」、そして、アラファトが、戦闘服ではなく、よわよわしい、ひげだらけのアラブ風の帽子をかぶった、悲しげな子どものようなパジャマ姿の写真を載せた。
 シャロン自身、『Haarets』紙に、「アラファトが死後、自由の戦士として英雄になるのを恐れた」と語った。
 ブッシュの元スピーチライターであったDavid Frum は、モサドがしばしば使うホモセクシュアルの汚い手をまた使ったのではないか、と言って、「アラファトはエイズだったのではないか?」と言っている。
 Schuh記者は、2005年1月、パレスチナ自治政府の情報省の下で、アラファトの死の調査委員会にインタービューを申し入れた。「我々はそのことについては、上層部からなにも話してはならないと命令されている」と答えた。アラファトは2世代にわたって世界のリーダーの1人であったにもかかわらず、彼の死について調査することは許されていない。世界のメディアも政府も不思議なことに沈黙している。